第1298話 彼を呼ぶ彼の知らぬ世界
しばらく細かく位置を変えながら、この世界の奥底から夢の泡が湧き出てくる様子をハルたちは眺めていた。
泡は移動するハルたちを追うように、その周囲へと出現し続ける。
なので、一か所に留まり続けると、すぐに泡の群れに取り囲まれそうになってしまう。そのことを、小さな少女たちは面倒がった。
「こんにゃろー。追ってくんなです、あっちいけです!」
「いちいち移動するの面倒だよー。お兄さん、なんとかならない?」
「マスターはもう少し観察を行いたいと思っているのですよね? おねーちゃん、ヨイヤミさん、我慢してください」
「……いや、少し離れようか。密集した泡に触れて浮力を失っても困るしね」
「ん? んん? そもそも泡に触れちゃった時点で、その夢の中に引きずり込まれるんじゃなかったっけ?」
「まあ、そうなんだけどね……」
科学ジョークはどうやら通じなかったらしい。水中で大量の気泡に包まれると、体は浮力を失ってしまうという話だ。
まあ現代には、酸素供給槽なども存在しなくなった。知らないことで困る人もほぼ居ないだろう。
「観察はもういいのですかマスター?」
「ああ。そもそも観察しても、何がどう分かるというものでもないさ。今はそれよりも、突発的な事故を避けるとしよう」
「了解です」
あまり近付きすぎて、発生した瞬間の泡に触れてしまってもたまらない。ハルたちは高度をとり、泡の発生に自分たちの存在が作用しない地点まで離れていった。
どうやらハルたちからは、そして泡からは何らかの引力のような力が発せられているようで、ハルたちの距離が遠ざかると今度は既存の泡を基準に新しい泡が発生しはじめる。
体がむき出しのハルたちは、遮る泡の壁が存在しないからかその力が強く働いているらしかった。
「だいたい分かったです。奴ら一つ一つの引力を一とすると、白銀たちは五十くれーです」
「わーお。そりゃこっち来るってもんだ。白銀ちゃん、よくそんな計算できたもんだね」
「これでも神です。算数は得意です!」
「さんすう……」
ずいぶんと高度な算数を使っている。小学十五年生くらいだろうか?
「まあ、こんなん分かったところで何の意味もないです。結局、あの泡がどんな理屈で生まれてるのか分かんねーですから」
「そんなことないよ。よくやったね、白銀」
「マスターに褒められたです!」
「そういった細かい解析を重ねて、なんとか真実に迫りたいところだが……」
「ですが、やはり根本的な解決にはならないのではありませんかマスター? ここは直接、あの泡発生ラインより下へと乗り込むべきかと」
「……やっぱりそれが手っ取り早いか」
だがそれには、危険が伴う。ハルだけならば、少なくとも白銀空木ペアだけならば強行してもよかった。
しかし今は、ヨイヤミもついてきてしまっている。彼女を危険なエリアに同行させる訳にはいかない。
これは保護者としての責任感もあるのだが、なにより、彼女自身が『下』に対して怯えの感情をあらわにしていた。これは少々、珍しいことだ。
「ねぇ……、ハルお兄さん、おちびちゃんたち……? そこから下に行くのは、止めといた方がいいと思うなぁ……」
「どーしたですヨイヤミ? こわいです?」
「ご安心ください。貴女を無理に、あの場に連れ込むことはいたしません。ですよねマスター?」
「もちろんだよ。ヨイヤミちゃんの居る状態で、危険は冒さないさ」
「そうじゃなくてね! ……そーじゃなくって、ハルお兄さんも、白銀ちゃん空木ちゃんも、あの中に入るのは止めた方がいい、と思う」
「……何か見えたんだ?」
他人の精神に入り込み、その視界を乗っ取ることの出来る能力を持つヨイヤミ。その力の副産物として、ジャック対象との距離を正確に把握するレーダーのような力も彼女は有している。
きっといま彼女はその力を使って、ハルたちには何も感じられないあの暗闇の中に、『何か』の存在を感じ取っていると推測できた。
「誰か、その奥に居るの、ヨイヤミちゃん?」
「うん。居る。でも、誰だか分からない……」
「犯人の神ヤローです!?」
「違う。んーん、違うかどうかも分からないの。一人じゃない、いっぱい居るようにも見えるし、全部で一つのようにも見えるよ」
「人々の意識の集合体、ということでしょうか?」
「結論を出すのは早いよ空木。集合的無意識どうこうは、あくまで既存の概念を便利に当てはめて語っているだけなんだから」
「確かに。軽率でした」
とはいえ、空木がその一致を見てしまうのも無理はないというもの。
個人としての単体ではなく、それでいて複数の集合でもない。総体、群体、大領域。そうした仮の推測を、ヨイヤミが裏付ける形になっているのだ。
「……まあ、考察は後回しにするとしよう。今日のところは、その材料が手に入っただけで儲けものだ。よくやってくれたね、ヨイヤミちゃん」
「んーん……、ごめんねお兄さん、勝手についてきて、邪魔しちゃって……」
「なに言ってるです! ヨイヤミの力があったからこそ、この短時間で色々わかったです! コスパ最高です!」
「おねーちゃん。人様の活躍をコストパフォーマンス扱いするのは如何なものかと」
「しまったです! 悪い意味じゃねーです!」
「……うん! ありがと、白銀ちゃん! そうだよね、私は、役に立った立った!」
なんとか互いに励まし合い元気を取り戻したちびっ子たち。ハルも『引率の先生』として微笑ましい気分だ。
実際、ヨイヤミのレーダー能力がなければここまで効率的に調査は出来なかっただろう。
あとはこのデータをハルが、そして白銀と空木が詳細に記憶し、それを持ち帰って総出で解析すれば何か分かるかも知れない。
二度と来れない訳でもないのだ。今回の『遠足』は、このくらいにして戻るとしよう。
「……よし。じゃあ、この辺で戻ろうか君たち」
「戻る手段はあるの? あっ、誰かの夢に相乗りするんだ!」
「泡は選び放題です! あの辺に浮かんでるやつから、適当に選ぶです!」
「おねーちゃん。ここに来る際に渡されたプログラムのことを忘れましたか? 相乗りは時間がかかりすぎますよ」
「だいじょうぶです、忘れてねーです。ちょっとうっかりしてただけです!」
それは忘れていたのとどう差があるのかはともかくとして、空木の言う通り、ハルたちはエメから帰還に使う機能もセットで受け取っていた。当然だ。
まあ、もし一方通行のシステムであったとしても、ハルはアイリたちとの魂の繋がりを辿って現実に戻ることが出来るのだが。
「じゃあ、こっちに集まって。起動するよー」
「はーいっ!」
元気な返事と共に、ちびっ子たちが身を寄せてくる。
ハルは彼女らが十分近づいたのを確認すると、帰還用システムを起動した。
そのシステムは夢の泡に似た球状をした光のフィールドを周囲に広げて行くと、回廊を逆行する道と扉をその中に形成する。
ハルたちはその扉をくぐり、通常の電脳空間へと引き戻されて行くのであった。
*
「…………ん? んん?」
……通常の電脳空間に、意識を逆流させ夢から覚めるはずだが、何故かハルはまだ暗黒空間を漂っていた。
システムが上手く機能しなかった、訳ではない。現に、ハル以外の三人はこの場から離脱している。
「なんだか、道の途中で僕だけが引っ張り戻された感じがしたね。バグというよりは、何らかの意思が介在した気がするが……」
エメの組み上げたシステムに、恐らく不備はなかった。ならば恐らく、この現象は外的要因によるもの。何らかの力が外から加わった結果である。
「エメも不憫なことで。行きはヨイヤミちゃんの介入で無理矢理な同行されるし、帰りはこれだ」
やれやれとエメの不運を同情してみせるハルだが、なにも無理に余裕を演じてみせている訳ではない。
この原因不明の危機的状況だが、逆にこうなると心当たりが限られてくる。
外的要因による力。行きにヨイヤミによる介入が入ったように、帰りの今も、介入があったとするならば、それはきっと明確な誰かの意思の介在に他ならないからだ。
「……まあ、ほぼ確実に、件の神様からのお誘いだろうね。いや、都合が良い。願ったりだよ」
ハルたちが血眼で追い求めている神であろうその存在が、あちらからアクセスを試みてきた。これを、朗報と言わずして何と言おう。
まあ、ほぼ間違いなく罠の類であり危険なのだが、それでも手がかりがまるでなしの現状よりはずっといい。
確実な進展という餌があるのだ。どんな釣り針であっても食いつくのがハルという魚。
「とはいえ、こちらの無事は知らせておこうか」
現世では仲間たちが、特に自分の責任を感じ大慌ての真っ最中であろうエメが、心配をしているに違いない。
ハルは自身を呼び戻す為にアイリから放たれた、この魂を引くような意識の繋がりに応えていく。
これは精神の命綱。白銀やヨイヤミとの間に結んだようなそれよりも、数段強固であり、どうあっても千切れぬもの。
そのロープを軽く引っ張って意識の無事を知らせつつ、まだ全力で引き戻すことを望まぬ意思表示も兼ねておく。
会話が成立するレベルの情報は伝わらないが、アイリであればハルの言いたいことは汲み取ってくれるだろう。
「あとは、念のため張力をしっかり保ったままで、先に進んでみるとしようか」
あえて虎穴へ突入する気満々のハルとはいえ、決して油断をしている訳ではない。
何かあれば、すぐさまこの魂のロープをゴム紐のように引き一気に離脱できるようにと、警戒と準備は怠らない。
その、外部からは一切変化の見られぬ状態をキープしたまま、ハルは先へと進むことにした。
進むべき『先』とは当然、泡の湧き出るラインよりも更に下にあるエリアだ。
「……ヨイヤミちゃんはああ言ったけど、僕にはなんとなくあの先の想像がつく。というかそうした感覚に、憶えがある」
通常、個の意識が溶けあって一つになるなどという感覚は、他人の意識を乗っ取るヨイヤミであっても経験のないものだろう。
しかし、ハルには、恐らくこの世で唯一ハルにだけは、その感覚に心当たりがあった。
それは、自らの意識をネット全体に広げるハルの必殺技ともいえる意識拡張。そして、その意識拡張を可能とするエーテルネットワークという場、そのもの。
それと同等の世界が、この下には広がっているのではないか? ハルは、そう感じ取っているのであった。




