第1202話 平和で退屈になった鳥籠の中で
マゼンタが言うには、この音楽室は部屋全体を透明なゼラチンを流し込んで固めたような状態になっているとのこと。なんでお菓子で例えたかは分からないが、まあイメージはつく。
ゼラチンは固まりきってはおらず、かといって液体のままでもない。常に容器である音楽室に留まる性質をもち、しっかりと結合を果たしているようだった。
強引に視覚化するならば、エアロゲルの中でも歩いているようなイメージだろうか。
「……どうにも、納得がいかないわね? 中をこうして人が歩けば、崩れてしまうのではなくて?」
「《そこは、雲でもイメージすればいいんじゃないかなぁ。雲ってさ、中を通ったところで雲全体が壊れることはないでしょ? すぐに元通りになる》
「そうね? まず、雲の中を通ることがないのだけれど」
「まあ、結局は魔法だからね。完全に物理現象で例えるのは難しいだろうさ」
ともかく、目に見えない程の細かな粒子でありながら、換気システムで排出されないよう固着されている。
結晶化魔力であるために物理的なサーチ手法では決して検知されず、魔力サーチしようとするとその瞬間に転移トラップが発動する。
……よくできた仕掛けだ。『ここにある』と先に知っていなければ、ハルたちも未だこの仕組みにたどり着いていなかったかも知れなかった。
ゲームの勝者への報酬として、新たなログインルームの設置権を得たハル。
その新しい入り口をアメジストが生成している最中のデータを追跡し、解析。ハルたちはこの結晶化構造を予想し、そして今それを証明した。
大容量の魔力を凝縮した結果、物質として魔力が形を持つのが結晶化の生まれる理屈。それには、想像以上の魔力を消費する。膨大と言っていい。
どの程度膨大かといえば、異世界の旧世代人類たちは、結晶化の使い過ぎで星の魔力を使い果たしてしまったくらいには膨大なのだ。
「だけど、この小ささならばいかに結晶化とはいえ、消費魔力は最小限で済む。アメジストの魔力生成エンジンでも、なんとか工面出来る量だったって訳だ」
「《よく考えるよなーホント。天才なんじゃない? いや、これもまた、あのモノリスから得た知識なのかなぁ?》」
「かもね。この粒子、一つ一つが機能を持っている訳じゃないみたいだし」
「そうなのね?」
「うん。粒子の結合が、この部屋全体にネットワーク構造を作り、それが魔法の式としての役割を果たしているらしい」
「……またネットワーク」
「だね。ずいぶんと、彼女はこうした特殊な構造体について詳しいらしい」
そんな知識を何処から得たのか? 可能性として強く考えられるのは、この学園地下に封印されているあの黒い石の板、『モノリス』から得た知識だと見るのが妥当だ。
異世界にも破壊された破片として存在し、主にエメが活用しハルたちを騒がせたあの石。
神様たちやセフィが、異世界に飛ばされる最初の原因ともなったあの謎の石だ。その件で、コスモスから恨みをかっていたりもする。
そんな、ハルたちになにかと因縁のあるモノリス。それは今も変わらず、この学園に存在している。
「《どうしたものかなぁ。ねぇハルさん、パクってきちゃわない?》」
「おいおい。……と言いたいが、それも視野に入れるべきかなあ」
「《そうだよ。人間の手の届く所に置いておいたら、危険だって》」
「相変わらずお優しいこと? あなたたちなら、危険はないの?」
「《うん、わからない!》」
「あなたねぇ……」
まあ、マゼンタを責められはしない。ハルだって分からないのだ。
そもそも最初の転移現象の原因すら未だ不明のままだし、アメジストの言っていた内容もほとんどが検証できていない。分からないことだらけだ。
「あれを持ち去って、僕らの方でなにか事故でも起こっても大変なんで、やっぱり現状維持で……」
「それがいいでしょうね」
「《仕方がないけど、今の監視者の動向には十分に注意してよねハルさん》」
「気を付けるよ」
問題の先送りにしかならないだろうか? かといって、強引にハルたちの元に持ち去るのも、騒ぎになりそうなので迂闊に動けないということもある。
一応、今も『持ち主』と呼べる人間は存在し、しかもかなりの有力者だ。
そのうちの一人である御兜とは交流を持ったが、管理しているのは彼一人ではないうえに彼もまた完全に味方とは言い切れない。
そんな状態で名家の連合が代々隠してきた秘密の石が持ち去られれば、上を下への大騒動は間違いない。
実際に騒ぎが起こるというよりは、陰謀と裏工作が加速し学園を取り巻く環境全体がきな臭くなるだろう事がまた質が悪かった。
これ以上、ここの学生を振り回すのも酷だろう。ただでさえ変なゲームに翻弄されていた上、今は新学期、学年の変わり目だ。
「少しの間くらいは、ここの子たちには元の平和な学生生活をエンジョイしてもらおうか」
「あら? 卒業したからって早くも先輩面?」
「そういえば、特待生クラスの僕らはあんまり先輩風を吹かす機会とかなかったよね」
「そうね? それは確かに」
「良い機会だし、先輩面をしに、今から行ってみようか」
平和な学生生活、などと言った直後にこれである。ハルが出向けば、その時点で平和は崩れ去ることに間違いはない。
それは理解しているが、それでもどうしても悪戯心が抑えられないハルなのだった。
*
「帰れ」
「まあ、そう言わないでよソウシ君。進級おめでとう」
「OBが何をしに来た。私服で学内をうろつくな部外者。というか『おめでとう』とはなんだ! 俺が落第などする訳がないだろう!」
「いや誰もそんな意味で言ってないんだけどね?」
落第、留年などあるのだろうか、この学園に。今まであまり聞いたことがない。
まあ、そんなことはいいとして、ハルたちはせっかくなので、ゲーム内では最後の最後まで頂点の座をかけて争った生徒であるソウシ、彼に顔を見せてから帰ることにしたのだった。
「ハァ……、せっかく面倒な奴が学園を去ったと思ったのだがな……」
「だからそう言わずに」
「……今日はどうした? 俺が秘密を洩らしていないか確認にでも来たか? それとも、“アレ”の確認か?」
「アレの方だね。まだ再開の目途は立っていないらしいね」
「ああ」
アメジストとの問答を間近で見て、色々と己の知らぬ世界が存在していると知ったソウシ。
彼にそのことを吹聴されても困るのは確かだが、ハルは特にその心配はしていない。
むやみに秘密をばら撒くより、彼なら独占し利益を自分だけで確保する方を選ぶだろう。
それに、正直あの戦いを見ただけでは、ハルを取り巻く状況の正確な把握は不可能だ。今彼は、情報をどう咀嚼し飲み込めばいいか判断しかねているといった所だろう。
「新学期になって有耶無耶になった部分もあるが、未だに噂は燻ぶったままだ。結局、アレもまたお前の会社の仕込みだったということか?」
「いいや? 僕も振り回されてるだけだよ。それに、僕の会社じゃなくてルナの会社ね」
「代表が私なだけで、中身はほぼあなたの会社よ?」
「……逃げ道塞がないで?」
「ふん。そんなところだろうさ」
ここ最近は、ルナの会社を通してハルは大きく動いている。ソウシに限らず、有力者ほどその動きに敏感だ。
卒業しこの学園を出た今、ハルたちに接触してくる者も増えてくるだろう。ソウシも、どうやらその事を忠告してくれるらしかった。
「だがせいぜい気を付けるんだな。この鳥籠を出た今、お前たちに近付いて来る者は確実に出るだろう」
「でしょうね? 気の滅入ることだけれど」
「どうする気でいるんだお前は? 中には俺の親のように、お前との縁談を画策する者も出るぞ」
「ご心配どうも。本当、頭が痛いわ?」
「むしろもう出ているみたい」
ソウシに鳥籠と例えられたこの学園だが、逆にその檻は中の生徒を守る鎧の役割も果たしていた。
基本的に、在学中の子供には干渉しない。それが有力者全体での、ある種の不文律となっている。
しかし、その鎧が外れた今、ハルとルナ、実際はルナ個人へ取り入ろうと、既に様々な勢力が動き始めているのも確かである。
「それも、お母様が卒業を許した時点で、もう『何とかなる』ということなのでしょうね。だから気をもむだけ損よ、その辺は」
「はんっ! いつまでも母親頼りか! 堂々と親の言いなりになると宣言して、恥ずかしくないのか?」
「これでも私、あの人を正しく評価しているつもりよ? 影響力と判断は、信頼に値する、いえ、無視していいものではないわ? あなたこそ、子供っぽい反抗心で、状況を見誤らないことね?」
「君たち、廊下で険悪なオーラまき散らさないの。ただでさえ目立ってるんだから」
「いや目立つのは誰のせいだと思っているんだ!? このお騒がせの私服OBがっ!」
「おお、なんか新鮮な罵倒」
とはいえ確かに、私服でこのまま校内をうろついているのも、あまりよろしくないだろう。
この空間は、もうハルたちの居るべき場所ではない。ソウシたち、現役の学生たちの為の場所である。我が物顔で居座っては、申しわけない。
「……はぁ。ただでさえ界隈は、雷都の失脚で荒れているんだ。頼むから、この中にまで持ち込まないでくれよ? お前の仕業だろう、あれも」
「うんまあ。なるべく穏便に収めたつもりだったんだけど」
「確かにな。そこは評価してやる。普通なら、あれだけの不祥事だ、連日トップニュースになっていてもおかしくはない」
「有力者の噂までは、制御できなかったみただけどね」
「ふん! 好きに言わせておけ。連中、どいつもこいつも脛に傷を持つ者ばかりだ。『次は自分の番かも知れない』と、戦々恐々なんだろうさ! クズ共がっ!」
「おお、荒れてる」
色々と、ソウシもまた界隈の汚い部分を見てきたようである。彼の野望の源泉となっているのは、そうした世界からの脱却なのかも知れなかった。
つまるところ、基本的に『いい奴』なのだ。本人は、決して認めはしないだろうが。
「そうだね。せっかくだし、帰りに様子でも見て行こうか?」
「……は? 刑務所にでも寄ろうっていうのか?」
「いいや。収監はされてないよ。逮捕されたら、どうしても大事になりすぎるからね」
ハルと関わったばかりに、その宣言通りに没落の一途をたどってしまった雷都。
彼がどのような罠にはまり、今はどんな生活をしているのか。それを今から少々確認しに行ってみるとしよう。
ハルはソウシに別れを告げ、学園の外へと踏み出して行く。
その際『もう二度と顔を見せるんじゃない』と言われたのだが、残念ながら、彼には近いうちにまた会いに来ることになるだろう。
その際の顔が楽しみな、少し意地の悪いハルなのだった。
※誤字修正を行いました。「上へ下への」→「上を下への」。全く意識していませんでした。もし台詞内であったらこのまま通させていただいたかもですが、地の文で、しかも意識してずらしている訳でもないので、修正しますね。誤字報告、ありがとうございました。




