八章 氷雨
馬場は、同じ場所を掃除機で行ったり来たりしていた。この間のことを思い出すと、どう能勢に接していいかわからない。それでいて彼を嫌いにもなれないでいた。
能勢の様子、体調も気になる。なにか重大なことをやらかしてしまう前に医者へ連れて行ったほうがいい。彼には休息が必要だ。が。頭の中で馬場の邪魔をするものがある。
『もう僕一人の夢ではなくなってしまったんです』
未だに、どういう意味か解らなかった。うまいこと能勢を「刑事課転属後に遺体を見てしまったことによって鬱病を発症した警察官」にしてしまえれば。珍しいことではないし、休養の後に復帰してくる者もあるときく。が、「夢」というものが体調を崩してなお能勢を仕事に向かわせているのだとしたら、休めと言うこと自体が状況を悪化させるかもしれない。かといって、放置して今の彼の病態が知れたらおしまいだ。
何度か能勢と顔を合わせたが、結局医者へ行けと切り出す方法がわからなかった。うやむやなまま数週間が過ぎ、令和元年も残り二日となってしまった。機会が以前ほどなかっただの互いに忙しかっただのと言い訳をしてみるも、自分が最近は能勢を避けてしまっているのを自覚していた。本当は馬場自身が、これ以上能勢の抱えているものを見つめてしまうのが怖かっただけかもしれない。
馬場は一度掃除機を止めた。クッションを抱えてみたがどうにも落ち着かず、ソファに叩きつけてしまった。どうするのが正解なのだろう。
馬場は、能勢の母にでもなってやると拳を握った。
途端。頭の中に、何も能勢が欲しがっているのは馬場ではないという考えが浮かんだ。ならば女としてこれで良いのだろうか。馬場は座り込みそうになり、しかし座れず、もう一度掃除機のスイッチを入れた。もはやちり一つない部屋さえ憎らしい。
と、呼び鈴がなった。馬場は玄関に向かって「はい」と返事をしてから、しまったと思った。こんな時間に尋ねてくる可能性のある人間なんて、能勢しかいない。
馬場は玄関の戸をあけた。それから、しばらく固まった。外には、夜の風景だけが広がっている。誰かのいたずらか、自分の部屋ではなかったのか。まさか能勢のことを考えすぎたばかりの幻聴ではあるまい。馬場は少し戸惑いながら戸を閉めようとした。しかし何かが戸の間に挟まる。下を見て、ぎょっとした。
「能勢さん」
彼の首が、ずるりとこちらに向いた。口許にぞっとしない微笑がはり付いている。目を合わせようとしても焦点が合わなかった。肩を叩いても返事がない。
「そんな顔しないで」
馬場は急いで能勢を抱き起こした。額に脂汗が浮いている。
「どうしてそんな体調で出歩いたの」
なんとか彼を担ぐ。能勢は、わずかに呻き声を漏らしただけだった。少しふらつきはするものの運ぶのに苦労はない。学生時代には悩みでしかなかった長身が、こんなところで役に立っている。馬場はリビングにつながるドアを足であけた。すぐにソファが見える。一度は能勢をソファに寝かせようと思った。来客用の布団を出すためだ。しかし馬場は何故だかそうしなかった。
能勢を自分のベッドへ投げ出す。ジャケットを脱がし、シャツの釦をゆるめてやった。
布団をかけている時、彼から酒の臭いがしないことに気付いた。妙だと思ってしまっていいのかは解らないが、妙だ。馬場はさらににおいを嗅いだ。珈琲くさい。嫌な予感がした。思わずジャケットを強く抱きしめた。中で何かが潰れた音がする。
馬場は丸かったジャケットを広げ、ポケットをまさぐる。カフェインの錠剤と書いてあった。馬場は能勢を凝視する。妙に呼吸が速い。彼の額に触れようとした。
瞬間。今までぐったりしていたのが嘘のように能勢はとびあがった。ベッドの角までとび下がり、しゃがみこんで震え始める。両手で首を護っているようだった。馬場はゆっくりと手をひっこめる。能勢の昏い瞳が、ゆらゆらと揺れていた。
「大丈夫。怖いことしないから」
能勢はさらに身を縮めた。どうしたら良いか。幼い日に弟をなだめたのを思い出す。馬場はベッドに上がり、ゆっくりと能勢に近付いた。抱きしめ、背中をさすってやる。能勢は、馬場の腕の中でもがいた。小さい声で「ごめんなさい」と「逃げて」を繰り返している。馬場が何を言っても、彼には届いていないようだった。
どれほど時間が経っただろうか。ようやっと大人しくなった能勢を横たえたとき、馬場は安心とも不安ともつかないため息をついた。相変わらず目を閉じた能勢の顔は幼く、しかし、以前にも増して深い疲労の色が見える。彼の目元を人差し指の腹でなぞった。目尻の手前で指は止まる。言い様のない恐怖に力が入らなくなった。
能勢のことが好きなのは間違いない。彼を抱きしめたとき彼女なんて呼ばれるほど、ましてゆくゆく妻なんて呼ばれるほど立派なものでなくても良いから傍にいたいと再確認した。
一方、馬場は恋の盲目に身を任せるには冷静すぎた。能勢はもう限界だろう。きっと早晩仕事へ行く体力もなくなる。そのとき、しっかり養えるだろうか。また、医療費はいくらくらいになるだろう。彼の介護と仕事の両立ができるとも言えない。自分の両親に助けをもとめれば幾分かはましかもしれないが、能勢の立場になってみると耐え難い状況だ。
馬場は、軽く眉間を押さえた。
署内に協力者を探すのも絶望的だ。彼の酷い噂話が蔓延している。近藤は油断できないし、石倉も何故だかだめそうな気がした。
それでも、もし。
今馬場が見捨てたら、誰が能勢を救うというのだろう。馬場は、能勢の頭を撫でた。涙があふれて止められなかった。
二時間ほど経っただろうか。台所で粥を作っていると寝室から叫び声がした。馬場はあわてて台所を飛び出し、それから一度引き返して火を止め、寝室に向かった。
「怖い夢でも見たの」
すぐにおかしいと思った。馬場は恐る恐るある推論を口にする。
「もしかして、自分がなんでここにいるのか解らないの」
否定してほしかったが、能勢はもったりと頷いた。馬場は眩暈に襲われた。倒れこみそうになるのを抑え、そっと能勢の顔を正面からみつめてやる。ためらっている場合ではなかった。もっと早く、ちゃんと医者へ行くように伝えるべきだった。馬場はおおきく息を吸い、しっかりと言葉を吐き出す。
「ちゃんとお医者さんへかかって。あなたが苦しそうなの放っておきたくない」
尚も無言の能勢に、先ほどジャケットから見つけたカフェインの錠剤を見せた。能勢が、急に立ち上がる。
「これまで取らないでください。酒をやめてから身体は震えるし頭は痛いし調子が悪いんです」
「お酒を、やめたの」
「わからない。飲めないんです。飲みたいのに身体が受け付けなくて。飲めないと苦しい」
「それ。かなりまずい状態よ。きっと依存症だわ」
「……確かに僕は、いそん症かもしれない。けど、いぞん症じゃない」
「どっちでも同じよ。屁理屈言わないで、ちゃんと受診しましょ」
能勢は口を固く結び馬場を見つめていた。このままでは聞き入れてくれそうにない。馬場は唇を噛んだ。ぐったりとベッドに横たわる能勢の様子が頭の中を横切った。小さな子供のように胸にすがりすすり泣いていた夜も思い出した。怯えた黒瞳も。このまま彼が衰弱していくのが耐えられなかった。
「お願い、あなたが心配なの。いなくなったら困るの」
能勢は怯えた目をしていた。あともう少しかと思われた。が。
「僕は、病人なんかじゃない。病人にしようとしないでくれ」
急に能勢が声を荒げた。馬場は口を閉じるしかなくなった。能勢は右手で胸を押さえ大きな声を出した。
「いなくなったら困るってなんだ。まだほんの幼い時、自分の親を殺そうとしたことがある。やるなら自分より力が強い父親からだって。今だってやらなかったのが正解だったのかって悩むことがある。僕は、そういう人でなしなんだ。必死で不妊治療を頑張っている人を尻目に不妊でない人間の腹から薬で生まれてきたんだ。僕なんかより生まれてくるべき人間はいくらだっていたはずだ」
「そんなこと言わないで。私はあなたが生きていて良かったと思う」
「やめてくれ。僕の何がわかるんだ。例えば、姉さんが死なずに僕が生まれなかった世界なら。それだけじゃないんだ。僕なんかでなく愁が刑事になっていたなら。そっちが正しい結末だったのに。僕が、僕が愁を殺したんだ」
「まって。落ち着いて頂戴。そんなに自分を責めないで」
能勢は、肩で息をしていた。生きていることを責めている彼に「生きていて良かった」と言ってしまったのが、もしかしたら失策だったのかもしれない。また、愁という人物や姉というものについても良く知らない。下手に聞き出そうとするより、今は彼の傷口を刺激しないようにしたほうがいいかもしれなかった。それに馬場も状況を判断するのに時間が欲しい。とりあえず話題を変えよう。馬場はゆっくりと言葉を選ぶ。
「ね、とりあえずお茶でも飲みましょ」
震えている能勢の背をさすってやる。暴れないように左手で彼の右手を握った。一時間くらい経ったのかもしれない。徐々にだが、落ち着きを取り戻していくのがわかった。
「ごめん、なさい」
「いいのよ。今までよく頑張ったね」
背中を丸めぼたぼたと泣く様が不憫で仕方がなかった。ふと馬場は、自分が果たして弟の件を黙っているのが正しいか解らなくなった。一緒にいればいずれは知れるだろう。ならば先に伝えてやったほうが彼を傷つけないのではないか。それに馬場も嘘を吐いているような罪悪感や代用視してはいないかという不安から解放される。
「ねえ。あなたを病気と思っているわけではないの。たまには息抜きしてほしいのよ。私はもう大切な人が頑張りすぎるのを黙って見ていたくはないの」
「……大、切」
「ええ。あのね、私にはあなたと同い年の弟がいたわ」
馬場はここで一度言葉を切り、能勢の顔を見る。想定していたような嫌な反応はなかった。嫌われるかも、だなんて考えすぎだったのかもしれない。むしろ、何故能勢のことをもっと信じてやらなかったのだろう。馬場は話を再開した。
「彼はね、何にでも一生懸命だったの。学校や警察官になる夢、身体作り、それからゲームみたいな遊びにだって。だから体調が悪そうだったのに疲れているだけなんだって思ってた。本当は癌だったのに、気付いてあげられなかった」
能勢はおとなしくベッドに腰かけ、黙って馬場の顔を見ていた。馬場は話を続ける。
「あなたは、弟に似ている。まるっきし一緒なのよ。きっと、頑張りすぎてしまう」
能勢がいきなり立ち上がった。上から馬場を見下ろしている。
馬場は突如として昏く歪み始めた能勢を、どうしようもなく見つめていた。こんな急激に何が彼の気分を損ねたのか考えようにも、場を支配する冷えた怒りがまとわりついて叶わない。大切と思っていた彼を怖れ始めたことを、はっきりと自覚した。
能勢は悪鬼も逃げる形相のまま、ゆらりゆらりとしていた。早く寝床へ戻したほうが良い。ところが、なんと言葉をかけるべきか解らない。馬場は自分の無力を呪った。まだ大事な者を失うのを怖れていた。それでいて自分のほうへ憎しみに満ちた目を向ける能勢に失望した。
何でそんなに怒っているのか言ってくれないと解らない、という言葉は飲み込んでいた。結局頭の悪い女と思われたくない自分をちらと見た気がして、酷く残虐な気持ちになった。
「私が憎いのなら、それで良いわ」
能勢は何も言わなかった。彼の顔に貼り付いた昏い双眸に戦慄した。何故だか黙っていたら負けだと思った。彼の言葉を引き出せないのが惨めとさえ感じられた。
「お願いだから布団へ戻って」
言った端からお願いという言葉を選んだことがひっかかった。が、同時に能勢の口許がわずかに動いたことにも気付いていた。馬場はたたみかけるように言葉をあびせた。
「あなたは今、自分がいかに休養を必要としているか解らないの。そんな怖い顔してみたって。本当は死ねもしないんだわ」
能勢の顔がひときわ醜く歪んだ。と、同時に彼は背を向けて走り出す。玄関の戸が乱雑に閉まる音がした。馬場は手を伸ばしたものの、何も言えなかった。ふと戻った静寂がむなしい。
外の音がいやにはっきりしていた。カーテンの隙間から、外がものすごい雪になっていることを知った。心情が荒れたのの代弁とでも言いたいのだろうか。安っぽい小説のようで悲しくなった。
馬場は流れた涙も放置した。能勢の飲み残しをゆっくりと流しに注いだ。自分にむかって能勢が恨みの言葉を吐き続けたなら、まだいい。彼はあんなに冷たい顔をしたくせに何も言ってくれなかった。いっそ暴力をふるわれたなら、どれだけ気が楽だったか。雪の中を彷徨う能勢を想っては、一方で突然機嫌を悪くした彼にも非があると言ってしまいたかった。
外へ出る。何度か能勢をちゃっかり下の名前で呼んでみた。あの身体では遠くへは行けないだろう。早く見つけてあげたいが、見つけてしまいたくなかった。