表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
  作者: 桂田武史
8/11

七章 本性


 十二月になった。近藤は、なぜだかすっきりとしなかった。心なしか筋肉も元気がない。冬の午前、冷え込みはするし妙に物悲しい空気になる。しかしそれが原因とも思えなかった。間違いなく苛立っている。近藤は自販機の前に立つ。眠気覚ましに缶珈琲を買ってすぐ、金色の缶に能勢の顔がうかんだ。スチール缶が掌のなかでみしっと音を立てた気がする。


 どれだけ自分に言い訳をしようと試みても、苛立ちの原因は明確だった。

 能勢が、気に入らない。


 何をやらせても有能、見た目もよく、なによりも馬場に気に入られている。そう思うと自分が買った珈琲が微糖で能勢がいつも飲んでいるのが無糖であることにさえ腹が立つ。近藤は自分が能勢より勝っていることを探した。筋肉と、デスクの清潔さと、人脈。それだけでは足りない。が、自分がほかに何で勝るだろうと考えると全く心当たりがない。どうしても馬場を手に入れたいのだが。近藤は、この時間に馬場が刑事部屋の前の廊下を歩いていることを思い出した。こんな時間に彼女がこんなところに用があるとも思えない。きっと能勢が気になっているのだろう。


 外から誰かが歩いてくる音がした。近藤に、飛び出していって想いを告げる勇気は、ない。忙しなく辺りを見回した。すると今まさに煙草を吸いに行こうとする石倉を見つけた。


「班長」


 近藤は石倉を呼び止めた。


「この署の女性事務員、美人ぞろいですね」


 自分でもかなり無理があるとわかった。冷や汗が出る。だいたい美人ぞろい、でもなんでもない。馬場以外に、どこに美人なんていただろう。


「そうだなあ。大いに賛同するよ」


 なんと石倉は食いついてくれた。近藤は石倉のストライクゾーンの広さに内心で驚嘆した。「長身で才色兼備の馬場女史、ふっくらボディが魅力の高橋女史、そばかすがチャーミングな」と石倉は喋り続けている。石倉がバツ三の理由がわかった気がしたがここは素直に感謝しておこう。と、ここで石倉が。


「ところで近藤君はだれが好みなんだい」


 丁度、馬場らしき人物の足音は部屋の前辺りだった。近藤は内心沸き立つのを必死で押さえ不自然がないよう細心の注意を払い言った。


「俺は、その。馬場さんに好意のようなものをもっているんです。しかし。能勢と仲がいいでしょう。先輩ならば能勢を応援してやろうと思うんですがね、こう、男としては引き下がれんのです」

「へえ、若いねえ。ま、ぼくはどっちも応援するけどね」


 どうやってだよ、という言葉は飲み込んだ。

 石倉が喫煙所へと去った後、近藤は体中から沸き上がるむずむずとした感覚を楽しんでいた。我ながらに上手くいった。役者になれるかもしれない。今なら恋する乙女が頬に手をやる気持ちも解る気がする。と、同時に。これでは不十分じゃないかと不安になった。今、馬場の中に「近藤」と「能勢」という選択肢があるにしよう。これだけでは確実でない。あとは、馬場の中で「能勢」の評価が下がるように事を運ばなければ。


 すると、目の前を同じ班の茂谷が通った。近藤は思わずにんまりとした。自分の中にある黒い策略を止められはしなかった。


「茂谷か」

「ちーす。近藤さんなんか疲れてるっすね。犯人はあのコケシ男っすか」

「ん、ああ。少しな」


 近藤はあえて茂谷を注意しなかった。「コケシ男」という言葉が妙に気に入った。目の前の茂谷は能勢の悪口を得意げにばら撒いている。いい調子だ。


「あれもな、もう少し人付き合いというものをすればいい」

「ホントっすよね。挨拶はしないし目は死んだ山羊だし。あ、ほら。廊下とかですれ違うとき露骨に避けてくるでしょ。マジあり得ねえって話っすよね。大人だろって話しっすよ。あーあ馬場さんはアレの何処が気に入っちゃったんだろう」

「俺にもわからん。あの調子だから刺されて離婚するんだ」


 近藤は俯き腕を組むふりをして、茂谷の顔を観察した。満面の笑顔の後「マジッすか」と嬉しそうな声を出していた。成功だ。念のため茂谷のような人間の好物もまいてやる。


「ああ、悪い。今聞いたことは忘れてくれ」

「了解っす」


 茂谷は今にも踊りだしそうな様子で去っていった。どんな人間にも使い道はある。それに、自分は真実しか言っておらず、また能勢に秘密にするよう頼まれたわけでもないのだから責任は負わない。近藤は、首筋を掻いた。デスクに戻って茶を一息に呷った。


 午前の仕事が終わる頃、隣のデスクからスマホの着信音がした。いつのまにか能勢がいる。意図せず画面を見てしまった。「おばさん」とある。しばらくの間があって、女の声がした。


『もしもし、えっと、諄琉。お正月なんだけど帰ってくるわよね。それと、』


 能勢はおそろしい形相で電源をおとした。また無糖の珈琲を飲んでいた。手が震えている。もしかして、能勢には親がいないのだろうか。見なかったことにしようとするも、秘密の暴露をした罪悪感が沈黙は不自然だと騒ぎ立てる。


「どうした。顔色がわるいぞ」


 近藤は今できる最大限の笑顔で、穏やかに言った。能勢はこちらを一瞥もせず返した


「いえ、何もありません」


 その後、署内で能勢の悪評が広まっていると知った。バツイチだけでなく尾びれ背びれで「妻に暴力を振るった末に捨てられただめ男」「離婚の原因は能勢の好色」という話がまとまってしまっていた。さらには「若くしての刑事課転属は石倉のコネ」という話まで出回っている。近藤は話の拡散速度に身震いをした。


 まさか、こんなことになるとは。いや。頭の片隅でこうなることを望んでいたのではないか。近藤は頭を押さえた。違う。「親切な人」である近藤がこんな発想をするわけがない。近藤は丁度通りかかった署員を捕まえて訊いた。


「能勢の。この噂出所は何処だ」

「知りゃしませんよ。あんたも先輩だからってさあんな下衆庇ってやる道理はないでしょうよ」


 真っ先に実感したのは、安堵だった。ふうと息を吐こうとした近藤の肩を触ったものがある。近藤は振り返り、固まった。


「近藤さん。私なんかを庇ってあなたまで損をすることはない」

「あ、いや、あの、お前事実無根なんだろ」

「一時の遊びですから。逆に私でも役に立っていることになりますね。皮肉です」


 近藤はぎくりと仰け反りかけた。凝視した能勢の目に、感情というものを見出すことは出来なかった。近藤は去っていく能勢を見送り、そっと視線を落とす。床にあったシミをただ眺めていた。

 今更になって近藤は能勢の若さが気になり始めた。あれほど有能ならと納得しかけていたものが、簡単に崩れ去った。まだ二十二歳の刑事。まして転属してきた当時は二十一歳だった。すると、能勢が何らかの「褒められたことではない手段」を取ったとしか思えなくなった。


 デスクに戻ると、近藤はサンドイッチをかじった。口に残ったのをお茶で胃に流し込み、横目で能勢を見た。

 能勢はパソコンに向かい仕事をしているように見える。しかし手は動いておらず、虚ろな黒瞳が何を見ているのかは検討もつかなかった。小声で昼休みだぞと言ってみたが彼は動かなかった。近藤はどうにも居心地が悪くなり席を立つ。廊下に出ると茂谷がまだ能勢の悪評をばら撒いていた。茂谷は目ざとく近藤を見つけると、その体型でよくもと思うほどの速度でにじりよってきた。


「ちーす。そういや、なんかアイツここへきたの石倉班長のコネらしいっすよ。図体も態度もでかいくせにやってること小っさてか。まじ草」

「なんだ草って」

「え、知らないんすか。ウケるって意味で」

「そうじゃない。その言い方はないだろうと言いたいんだ」


 近藤は茂谷を睨みそうになった。いや、もう睨んでいるかもしれない。茂谷が驚いたような顔で近藤を見て言った。


「え、だってまじのやつだったら言われて当然のやつっしょ。それにアイツの話始めたの近藤さんじゃないっすか。それともあれっすか。自分はキレイでいたいっすか。ああ、近藤さんって自分好きっすよね。意外とみんな、そういうの気付いてるっすからね」


 近藤は押し黙った。「お前だって能勢が来たことで期待の若手の座を奪われた腹いせがしたかっただけだろう」とは言い返せなかった。反射的に能勢がいないことを確認してしまっている自分に気付き、咳払いをする。

 茂谷は冷笑を浮かべ去って行った。


 近藤は意味もなく署内を歩き回った。何故だかじっとしていられなかった。午後の仕事が始まる寸前になってようやっと仕事場に戻るも気分がよくない。茂谷のことだから、もう近藤の噂も流しているだろう。先に噂話の餌食となった能勢がどんな目に遭ったかを思えば早退してしまいたかったが、帰ることで噂が真実であると認めたような体裁になるのではと考えると決心がつかなかった。

 刑事部屋は拍子抜けするほどいつもどおりだった。近藤は立ち尽くす。横を茂谷が「ちーす」と言って通り過ぎたが、そのほかに何かが起こりはしなかった。

 それでも立ち尽くしていると石倉が近藤の肩を掴んだ。


「どうしたんだい。顔色が良くないねえ」

「いえ、あ、その」


 近藤は口をもごもごと動かした。一度周囲を確認するとトイレにでも行ったのか茂谷の姿はない。今なら茂谷が余計な噂を流していないかが確認してみるのにいいかもしれないと考えた。慎重に言葉を選ぶ。


「あれです。署内で、あの、噂話なんてのが流行っているでしょう」

「ああ、能勢君のだね」

「それです、それです。なんというか好ましくはないと思いましてね。ほら、あの、ああいうのって。陰で他にも餌食になってる人だって居るかもしらんわけですし」

「君は本当に優しいんだねえ。僕もね、能勢君の件に関しては良いとは思わないんだ。けどねえ。僕も今回は当事者にされちゃってるしね。余計なこと言ってややこしくはしたくないんだよね」

「そうですか」


 石倉の性格なら、近藤に関する良くない噂があれば正直に教えてくれるはずだ。もともと口が軽く噂話に目がない茂谷のことだから、注意されたのが悔しくて言いがかりをつけただけか。そもそも茂谷に恨まれることをした覚えもない。近藤はひとまず自分に関する悪評が出回っていないことに安心した。すると再び能勢に対する不審と下世話な好奇心が首をもたげてきた。


「石倉班長、そういえば噂の件本当なんですか。その能勢と以前から知り合いというのは」

「まさか。それに皆だって本気でこんな小さな署の班長ごときのコネなんて思ないよ。そんなのは自分が警官やってりゃどれだけ現実的じゃない発想かくらい解ってるしね。面白くなりそうなら何だって良かったんじゃないかな」

「だとしても。恥ずかしい話、皆がそういう話をしてしまうのも解る気がするんです。能勢はあまりに若い。彼の親は警察のお偉いさんか何かですか」

「まさか。完全に努力の結果だよ。どっちみち、職質夜叉なんて物騒な二つ名があったくらいだし配転も時間の問題だったんじゃないかなあ」


 近藤は腐った。駅前交番の職質夜叉の話は聞いたことがある。しかし、それがあの能勢だったとは。


「あの能勢が自分から人に話しかけたというんですか」

「それが僕らの仕事じゃないか」


 石倉が嘘をついているようには見えない。安心した一方で何処か残念だと思っている自分に寒気がした。



 翌朝、近藤はいつもより早く家を出た。道場に顔を出そうとも思えなかったが、できれば能勢に出くわしたくはなかった。が。エントランスに入ってすぐ、エレベーターの前に不健康そうな猫背を見つけてしまった。ため息が出る。近藤は、自分の間の悪さを呪った。それから、何故こんなに早く出勤してきたんだと能勢に腹を立てた。

 さらに間の悪いことに、能勢が振り返る。近藤はしぶしぶ彼に声をかけることにした。


「おお、今日はやけに早いな」

「近藤さんも」


 これ以上会話を続けようにも、言葉がなかった。

 エレベーターを降り刑事部屋の前に着いてすぐ、丁度横を通りかかった者たちが、露骨にひそひそとやる。他部署の者まで混じっていた。話の内容は丸聞こえだ。あまりの胸糞悪さに近藤は前へ一歩踏み出す。しかし噂の始まりが自分とあってそれ以上のことはできなかった。その時、能勢がかなり大きな音で舌打ちをした。近藤が恐る恐る彼の顔を覗き込むと、口許だけでにぃと不敵な笑みを浮かべている。近藤は震えだしそうな膝を押さえ、すぐさま視線をそらした。それから、能勢の手が拳を握ったままがたがたと震えていることに気付いた。


 本当は驚くほど傷つきやすい人間が見栄を張っているだけなのか。そう思うと、今度は能勢が急に哀れに思えてきた。

 近藤は、もう一度能勢の顔を見た。

 能勢は急に無表情に戻ると踵を返し、自販機で珈琲を買って、去っていった。

 これで、勝者は近藤だ。よっぽどの物好きでなければ馬場も能勢を選ぶことはしないだろう。近藤は自販機の取り出し口を見つめていた。笑おうと思ったができなかった。自分は、どうかしていた。追いかけて謝ろうか。いや、そんなことはできない。


 埋め合わせといえば妙だが、せめて能勢にもっと優しくしよう。しかし。その埋め合わせは結局近藤の評判をあげるだけだ。近藤は、これ以上何も考えないようにした。



          *



 馬場はため息をつき、無駄に明るいパソコンの画面を眺めていた。

 あれから能勢は目を合わせてくれなくなった。署内ではよそよそしく、そうかと思えば以前にも増して近くにいる。それでいて、話しかけようとした途端に逃げてしまうのだ。家へ来ることもなくなっていた。どうにも集中できない。


 いきなり押し倒してきた能勢のことを嫌うならまだしも、彼に話しかける機会を探しているなんて妙ではないか。もし、自分の友人が同じ状況だと聞かされたら「下心だけの男に違いないんだからよしたほうがいい」と言うだろう。それが、いざ自身に起こったこととして考えてみると、能勢のことを悪くは思えなかった。これが好きということか。もしかしたら自分は、普通じゃないのかもしれない。


「ね、噂聞いた」


 隣のデスクから同僚が身体を乗り出してきた。噂、というのは能勢のことなのだろう。馬場は、皆の言うことがどうにも信じられなかった。あの気弱が人に暴力を振るうなんてできるわけがない。でも。あの夜には急にあんなにも荒々しかったではないか。

 能勢には人より衝動性というものがあるのかもしれない。しかし彼の衝動性の肯定は噂の肯定にもなりはしないか。


「今大事なところなの。後にして」


 馬場は頭をかきむしった。


「いいじゃない。耳は暇でしょ。あの根暗がさ」

「ごめんなさい。本当に後にしてくれないかしら」

「じゃ、こっからは独り言。本当にスクープなのよ。あいつね、バツイチで」

「まさか」


 今度は馬場が身を乗り出した。同僚がにんまりとする。


「ほんとよお。なんでも奥さんに暴力振るってたんですって。かわいそうに。そりゃ刺されて離婚ってのも納得よねえ。一人じゃあんなによれたネクタイのくせに。ほら、女の人への取調べも横柄って聞くじゃない。そうそう、ソッチの方も暴力的なんですって。だからあんなにトイレ近いのよ。よからぬ病気を、拾ってきちゃったのね」


 げらげらと黄ばんだ歯をむきだしにして笑う同僚に、腹がたった。同時に食い入るように話を聞いていた自分を恥じた。顔が赤くなる感覚がある。馬場はおもわず立ち上がった。


「なに、トイレなの」

「そんなところ」

「ならもう一つ。近藤さん、きっとあなたのことが好きよ。やたらあなたのこと見てるもの。うらやましいわあ」


 今朝のことを思い出し、ますます気分が悪くなった。馬場は廊下へ出る。とはいえ、何かをする当てがある訳でもない。仕事を進めたいが、それでもあの同僚の隣に戻りたくなかった。気付いたときには刑事課の前を歩いている。馬場は急に悲しくなった。自分は何をやっているんだろう。少し早いが昼ごはんを買いに行って時間をつぶそう。弁当があるけれど、丁度今、足りない気分になったところだ。


 と。廊下の先に見覚えのある猫背がある。馬場はすぐさま後を追った。真後ろに移動し、声をかけようとする。が、何と言ったらいいかわからない。彼が振り返ることを期待したが、下を向きとぼとぼとした様子では望み薄か。ひとまず挨拶だけでもしてみようか。しかし、ぎくしゃくしてしまったらどうしていいのか解らない。これじゃあ立派なストーカーよ、と馬場は内心で毒を吐いた。成すすべなく能勢の背中を見つめる。


 ここで馬場はあっと声を上げそうになった。ジャケットの左わき下が不自然に盛り上がっている。能勢は男子トイレに入ったが、馬場は迷わず彼を追った。個室のドアを閉められる前に足を挟みこんで止める。


「上着の下に隠しているもの出して」


 能勢の肩が大きく跳ねた。微かではあるが、既に酒の臭いがした。能勢は、そろそろとビールを一本取り出す。馬場が正面から充血した目を見つめると、さらにもう一本。能勢の目はまだ細かく震えていた。馬場はそっと彼の右手を握り言う。


「本当にこれだけ」


 すると内ポケットから紙パックの日本酒が出てきた。馬場は身震いした。これは誰かに報告したほうがいいのか。さすがに個人の問題として黙認してしまうには無理がある。が、報告してしまった場合。最悪、能勢は退官することになるだろう。馬場は何も言えず能勢をみつめていた。能勢がゆっくりと口を開く。


「誰にも言わないでください。僕はまだ、辞めたくない」

「だめよ。自分で制御できてないじゃない。いけないって思わなかったの」

「わかってる。でも、これがないと具合が悪いんです。それに僕は休んではいけない。警察官でいなきゃいけない。もう僕一人の夢ではなくなってしまったんです」


 眩暈がする。馬場は、能勢が何を言おうとしているのか解らなかった。解らないまま、どうにか「あなたはもう戻って」とだけ言った。能勢の背中がふらふらと遠ざかっていく。

 馬場は自分が酒を抱えて男子トイレに立っていることを思い出した。誰かに見られる前に移動しなくては。この酒を、どう隠そう。また、ゆくゆく能勢に返すべきなのか。



 馬場は上着を気にしながらデスクに戻った。同僚の目を盗み、タオルをハンドバックに入れる。署の備品だが後日洗って返そう。タオルの中身は潰したビールの缶と平たくした日本酒のパックだ。中の酒は女子トイレに流した。洗剤もまいて窓を開けておいた。臭いが消えなくとも、持ち込んだのが能勢だと知れてしまいさえしなければ良い。


 能勢のため、なんて言ってみたところで、もう引き返せないことをしてしまった。馬場は、身震いする。それからあの後、能勢がどうしたのかが気になりだした。今は昼休み。酒を買いに行ってしまったとしたらどうしよう。とりあえずは椅子に座ってみたものの落ち着かない。その時。エレベーターのあたりが騒がしくなった。中から出てきた近藤が能勢を背負っている。馬場は立ち上がった。


「近藤さん。彼、どうしたの」


「倒れた。熱があるようだがよくわからん。まあ、意識はあるし緊急という様相でもなさそうだから俺が医者へ連れて行くことになった」


 馬場は罪悪感を自覚した。酒を飲ませれば正解だったとは思わないが、飲ませなかったから能勢は倒れたのだろうか。また、近藤が医者に連れて行って能勢になにかしらの診断名がついた場合。近藤はどう行動するだろう。


 馬場は「親切」といわれる近藤が嫌いだった。時々ぞっとするほど冷ややかな目で能勢を見ているから。午前中にたまたま聞いてしまった近藤が馬場を好いているという話も、なんだか不自然だった。自意識過剰かとも考えたけれど、どうにも近藤は馬場がいることを知っていて聞こえるように喋っていたと思えてならない。確証こそないが、近藤を信用できなかった。

 何かの拍子で能勢の職場での飲酒未遂が知れるようなことがあったら、近藤は上に報告するだろう。きっと一警察官としてではなく、冷ややかな内心で。


「私が連れて行くわ」

「しかし」

「もし事件が起こったら近藤さんは必要な人材よ。でも事務員なら他にもいるし、少なくともあなたほど急な仕事に見舞われることはないわ」


 近藤は嫌々という様子だったが、丁度石倉が近藤を呼びに来ることで能勢を馬場に預けていった。馬場は、果たして自分のしようとすることが本当に事務員の仕事なのか自問した。また、倒れたのが能勢ではなく石倉や近藤だったら自分は同じことをしただろうかと迷った。もしかしたら事務の同僚だった場合でさえ送らなかったかもしれない。

 能勢は、軽かった。



「もう少しよ」


 馬場は背中にぐったりとよりかかってくる能勢に声をかけた。官舎ではない一般アパートの二階。角部屋で、能勢の足が止まった。


「ここなの」


 彼は頷くも、鍵を出そうとはしなかった。かわりに「もう、大丈夫です」と弱い言葉だけが返ってくる。馬場は思わず大きな声を出した。


「嘘。ちゃんと寝たところを確認しなきゃ安心できない」


 能勢はしばらく黙っていたが、観念したようだった。玄関の戸が開く。すぐに能勢は馬場の側を離れトイレだと思われるドアの向こうへ消えた。馬場は、何故彼が戸を開けるのをためらったか理解した。


「大丈夫なの」


 ドアに向かって声をかけつつ、洗濯物の山を乗り越えて彼のベッドへ向かった。横になる手伝いをしてやる以前の問題だった。ベッドの上はよれたスーツや本であふれかえり、下には珈琲やビールの空き缶がごろごろしている。頭を抱えたくなった。彼は普段どこで寝ているのだろう。せめて人が横になれるくらいにと本を端に寄せる。スーツをかけてやろうと思ったらハンガーがない。馬場はスーツも端に寄せることにした。無心で手を動かし続けるうちに丸かった掛け布団が姿を現す。一度手を止め、能勢の方を確認しようとした。


 すると。入ってくるときには気付かなかった妙な缶が、冷蔵庫の上にあることに気付いた。馬場は、なんとなくそれが何だか解った気がした。見なかったことにしたいが、確かめずにいられなかった。


 粉ミルクの缶だった。

 馬場は悲鳴を上げないように口許を覆った。ゆっくりと台所に視線を移す。だめ押しのように哺乳瓶を見つけてしまった。吸い口の色は褪せている。寒気がした。能勢に子供がいるという話はきかない。いや、子供がいたとしてこんな部屋に置いておくだろうか。馬場の頭の中に恐ろしい仮説が浮かんだ。違うと思いたかったが、能勢に押し倒された日のことを思うと妙に納得がいってしまった。これを使用しているのは、彼本人だ。


 優しい人なら誰でも良かったの。

 思わず口にしそうになる。どうしても、この場にはいられなかった。


「ごめんなさい、そろそろ戻らないといけないみたい」


 馬場は自分の身体を抱き、ふらふらと部屋を飛び出した。外へ出て、玄関の戸を閉めると急に力が入らなくなった。戸へ背中を預け、上腕を強く握る。痛みよりも寒気が勝ってしまって悲しかった。

 どれくらい、そうしていただろうか。大学生くらいの男が階段を上がってきて馬場の隣で立ち止まった。


「あの、この部屋の人の彼女かなんかですか」

「ええ」


 反射的に答え、馬場は少し後悔した。いつ自分が能勢の彼女になっただろう。それに初対面にこんなことを聞いてくる場合、続く言葉はきっと良いものではない。


「その、こういうの言ったらなんですけど。どうにかしてくれません。絶叫したり物音立てたりするの。夜中とか外うろうろしてることとかあって。怖いっていうか」


 馬場は何も言えずに男の顔を眺めていることしかできなかった。まさか能勢がと思う。でもそれは馬場が能勢の暗い部分を見なかったことにしたいだけではないか。「とにかく近所迷惑なんで」それだけ言い残し、男はすっきりとした顔をして隣の部屋に引っ込んでいった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ