五章 妄執
能勢古都子は久々に長男の顔を見た。高卒で警察官になって以来家に寄り付かず、父親の葬式も途中で抜けて帰ってしまった薄情を責めてやろうと思っていたのだが、そんな気分も消し飛んだ。よくよく見ればなかなかに男前ではないか。
古都子は自分にも夫にも似ないという理由だけで長男に暴力をふるっていたことをめちゃめちゃに後悔した。こんな顔に育つならもう少し優しくしてやればよかった。それでも、あの子だって抵抗しなかったではないか。それに、もう時効なはずだ。
しかし。こんなにしっかり彼を実子として見つめたのは何時以来だろう。高校生のときは家に居たはずだ。とすればたったの四年でこんなに顔が変わるだろうか。何故、こんないい男に気付けなかった。
古都子は頬が変な風に緩むのを実感した。長男が、酷く冷たい眼でこちらを見ている。
「なにつっ立ってんの。入んなさいよ」
誰がなんと言っても、こいつを腹からひねり出したのは間違いなく古都子だ。授乳もしたしオムツも替えた。子供たちの養育費の為に働いたのは自分なのに欲しかったワンピースを我慢したこともある。たとえ今あのワンピースが手に入っても、もはやそれが似合う歳ではなくなってしまった。
「お帰り。あんたの好きなのあるからね」
言ってから、しまったと思った。彼が何を好いているのか、全くわからない。そういえば笑った顔も思い出せない。
古都子は軽く頭を押さえ後悔を追い払った。若い男なんて、高い肉でも与えておけばまず間違いないだろう。だいたい、肉が嫌いな人間なんている訳がない。
古都子は鼻歌まじりに台所へ向かった。リビングのソファに次男の輝琉が寝そべっている。こちらは昨日帰ってきたのだが、暇さえあればスマホでゲームをしている。
輝琉は長男にはあまり似てなかった。どちらかというと線の細い顔つきで幼少期から愛らしかった。成績も長男ほどではないにせよ優秀だったし、欲しがったものを買い与えたときは男でも恋に落ちかねないくらい愛らしい笑顔を見せる。今でもアイドルの試験を受けさせれば余裕で合格するに違いない。
「輝琉、ちょっと手伝って」
「うっせ。俺今忙しいから」
たかがゲームではないか。あれだけ大切に育ててやったのに何故、こんなだらしのない若者になってしまったのだろう。もしかしたら大学に良くない友人でもいるのかもしれない。古都子はフライパンに牛肉を叩き込んだ。
「なに。めちゃいいにおい。今夜肉なの。やったね」
長男のほうは、そうそうに二階の部屋に引っ込んだまま出てこない。物音さえしない。それに、彼は人でも殺しそうな昏い眼をしていた。
冷蔵庫から作り置きしておいたコーンポタージュを引っ張り出す。背伸びをして棚の上にあったパンの袋を掴んだ。それからふと手が止まる。
二卵性とはいえ、なんで息子二人はこんなに似ていないのだろう。長男に輝琉のような愛らしさがあったなら。また、輝琉がもう少し長男のように世間的にまともな若者になってくれたなら。息子たちがこれでは教師としての面目もまるつぶれだ。自分の子さえどうにも出来ない無能になってしまう。こちらは日々、よそ様のクソガキにババアと言われながら面倒くさい保護者を相手に頑張っているというのに。頭が痛くなってきた。
出来上がったのをそれぞれ皿に盛り付けていく。輝琉のほうへせめて手伝って欲しそうな眼を向けてみたが、それに気付くほどできた息子ではない。長男は頼めば手伝ってくれるだろうが、あの眼を思い出すと呼びに行く気にはなれなかった。
「輝琉、お兄ちゃん呼んで来て」
「自分で行けば」
「もうご飯だからゲームやめなさい。そうだ、呼んで来てくれたらお肉大きいのにしてあげる」
「まじか。わかった」
輝琉はスマホを握ったまま立ち上がり、おおきく欠伸をしていた。階段のほうへ行き、下で大きな声を出した。
「兄ちゃーん、メシだってー」
「もう。ちゃんと二階まで呼びに行って」
「へいへい」
しばらくして輝琉が降りてきた。彼の後ろに長男がいる。素直に降りてきたということは、なにも古都子が憎くて人殺しのような眼をしていたわけではないらしい。古都子はひとまず安心した。
「ほら、席について。冷めちゃうわよ。ね、みんなで。いただきまーす」
途端に輝琉が音を立てて肉にむしゃぶりついた。長男は、無言で肉を見下ろしている。古都子は口の中の肉を舌で左端に追いやり、じっと観察する。食べた。
長男はこちらに気付くと、にんまりと笑った。実齢よりもだいぶ老け込んだ印象だった。背中に嫌な汗が伝う。古都子はフォークを落とした。が、どういうわけか身体の奥底が熱く潤みはじめたらしい。古都子は慌てて足を閉じ、額を押さえた。
理由はすぐにわかった。
長男の笑い方は、亡くなった夫と全く同じだった。古都子は肉を頬張りながら夫との夜を頭の中で再生していた。そっと声に出さず珠生さんと呼びかけてみたとき、古都子は呻き声を出しそうになった。夫の笑顔が、頭の中で完全に長男の顔に重なった。前にも似たようなことがあった気がするが思い出せない。それでも別に良かった。
今夜、こいつを襲う。
自分でも馬鹿げた発想だと思った。が、いけないことだと思うほどにふつふつと湧き上がる何かがある。考えてみれば、夫の事故から一年になる。私だって生きた女なのだから仕方がないと思ったとき、古都子は自然と笑顔になった。
目だけで長男の様子を確認する。彼は机を見下ろしたまま、もそもそとレタスを食べていた。ついでに輝琉の方を確認すると、彼はとぼけた顔で古都子の方を見て言った。
「母ちゃん、肉おかわりある」
「ないわよ」
長男は自分の皿にあった肉を輝琉の皿に移動すると、黙って席を立った。
「ごちそうさまは」
古都子はハッとして大きな声を出した。返事はない。ただ台所から皿を洗う音だけがしていた。
夜になった。古都子は時計と輝琉を交互にみた。あと三十分ほどで日付が変わる。先ほどから何度も輝琉に寝るように呼びかけているのだが、全く寝てくれる気配はなかった。大学生にもなればちょっとの夜更かしくらい口うるさく叱る必要もないのだが、今日ばかりは寝てくれないと都合が悪い。
輝琉はソファに寝そべりイヤホンをしてスマホのゲームをやっている。余程大きな音で聴いているのか呼びかけても返事さえしない。熱中しているようだし、輝琉の性格ならば隣でブルドーザーが作業していても気付かないだろう。昔からそういう子だ。
古都子はもう待てなかった。一応は長男が起きていることも想定して、足音を殺し階段を上った。途中で警察官になるような男が足音を殺したからと言って気付かないわけがないと背筋を冷やしたが、だからといって途中から足音を立てるほうが不自然だ。
階段を上がってすぐの長男の部屋は、ドアが閉まっていた。しかし、僅かな隙間から、部屋の電気はついていることが判った。
古都子はそっと人差し指の腹でドアを押した。長男が中学生の時に理由はなんだったか忘れたが殴りあいの大喧嘩をし、その時に金具も取れてしまったので音を立てずノブを下げなくても簡単に開けられる。
長男はベッドの上で仰向けに寝ていた。そっと近付く。起きる様子はない。古都子は余計な音や衝撃を起こさないように細心の注意を払いつつベッドに登った。
帰ってきたときと同じ服のまま熟睡していた。いつのまに飲んだのか、かすかに酒の匂いがする。思い切って馬乗りになってみたが、長男は起きなかった。古都子はいそいそと長男のベルトを緩め、ズボンの止め具に手をかけた。
瞬間。あの昏い瞳が開いた。
頭が状況を理解するよりも早く、古都子の身体は弾き飛ばされベッドの下へ落ちた。
「またなのか」
低く、静かな声だった。
「またって何よ。違うの、これは」
さすがに違うと言っても何がか古都子自身にもわからなかった。「また」という単語が頭のなかでぐるぐると回り始める。ぼんやりとだが、股間をかばいつつ尻丸出しで逃げていく少年の背中が浮かんだ。七年前の大喧嘩の原因をはっきりと思い出した。
「あんたは、おれに何をしたのか覚えてもいないのか」
覚えてる、と言いたくなかった。実際に忘れていたし、忘れてなんかいなかったと嘘を吐き通す自信もない。長男が、こちらを睨んでいた。今までの昏い眼なんて比にならない。悪鬼というにふさわしかった。古都子は思わず鬼、とつぶやいた。
「そうだ。あんたはおれに鬼の子は鬼ヶ島に帰れといった」
「嘘よ」
さすがに声が震えた。
「大事な子供にそんなこと言う母親が何処に居るというの」
「目の前さ」
言いがかりも甚だしい。少なくとも古都子にそんな記憶はない。暴力こそ振るっても、あれは古都子なりの愛だったし、そう言いたかった。わかりやすく顔面が熱くなる。頬がぴくぴくと引き攣った。それに芝居がかった口調にも腹が立つ。自分が正義で古都子は悪だと断罪してくるようではないか。
「あんたは無責任だ。あんたが読んでたの。『こどものおもちゃ』だったか。いじめられっ子がいじめっ子に言った台詞に酷似したのがあった。どういうつもりで吐いた」
「知らないわよ」
「…………」
「なに、あたしが悪いって言いたいの。昔のことでしょ。被害者ぶんなよ、女みたいに。あたしを怒らせたあんたが全部悪いんでしょうが」
「認めないか。覚えてないか」
「黙れ。あんたはいつもいつもいつもいつもいつも」
「あんたが黙るべきだ。それと。おれの首を絞め『あんたのような子が居ると神は改心させるために母親を早死にさせるからあんたのせいで死ぬ』とまくし立てたとき。気持ちよかったか」
「…………」
「おれの膝を噛んだとき。おれは自分でもげたおれの肉をゴミ箱へ捨てた。それでもひとかけ見つからなんだ。食ったのか」
「黙りなさい」
「まだだ。おれの名は諄の一字でイタルと読める。琉の文字を付けたのはなぜか聞いたことがあったな。あの時あんたは愛琉の琉だと言った。もしおれらが女だったら万理愛と愛凜にするつもりだったとも白状した」
「……忘れたわ」
「しかも家族計画には兄弟は二人、年にして二つ違いと言った。おれらと愛琉は年子だ。そのことを問うた時。期待の一子が死んで職場はいびりがあり辛かったが嫌いなセックスを頑張ったあたしは偉いとぬかした。不妊でもないのに薬を使ったとも」
「ああ、もう、うるさいわねえ。黙って聞いてりゃ。あたしだって人間よ。思ったら言いたいことを言うし忘れもするわ。何か文句あるかしら。あんたは抵抗しなかったし養ってだってやってた。何が不満なの」
長男は黙って古都子に背を向けた。
「あーはいはい、そうですよ。どうせ全部あたしが悪いんですよ。はいはい、ごめんなさいねえ」
長男は、何も言わなかった。
古都子は肩で息をしながら逃げる気と怒鳴った。あたしの親のほうが怖かったと叫んだ。しかし長男は振り返る気配もなく歩き出した。腹の虫がおさまらなかった。
古都子は部屋を出ようとした長男を追いかけた。長男は部屋の入り口にあった荷物を拾い上げた。帰る気だと理解した瞬間、耐え難い頭痛が襲い掛かる。こいつには、死んだ父親に対する恩義というのがないのか。
古都子は長男の巨躯に体当たりをかまし、素早く首を絞めた。途端に、長男の首許が赤く盛り上がり始める。蕁麻疹、と解るや否や明確な殺意が沸いた。
「ふざけんな。悪魔、あんたなんて産まなきゃ良かった。輝琉だけでよかったのよ。金返せ。あたしの城から出てけ」
長男の口許が静かに歪む。苦痛、ではない。微笑っている。古都子はさらに力を入れた。親指を動かして、しっかりと頚動脈を押さえつける。体力がないわけでもないくせに抵抗してこないのが不気味だった。
「ずんるいじゃん。この三歳児。脳手術でもしたら」
古都子は思いつく限りの罵倒文句を浴びせた。長男は無抵抗のままわずかに身体を震わせた。古都子の下で唾を吐き散らす。額に血管が浮いていた。まだ、あの忌まわしい微笑は張り付いている。見開かれてもなお昏い瞳が無感動に古都子を捉えていた。さらに、力をいれる。
「何やってんだよ」
突如、大きな声がして、古都子の身体は何者かにはじきとばされた。輝琉だ。今までに見たことのない顔をしている。古都子は「怒ってるの」と言おうとしたが、声がかすれて言葉にはならなかった。
はっとして長男のほうを見る。長男は仰向けのまま動かなかった。殺してしまった、と思うと背筋が冷える。慌てて輝琉のほうを確認する。彼は引き攣った顔で長男を見下ろしていた。この反応は、死んでいるやつだ。古都子の頭は真っ白になった。
死体を隠す。どうやって。これは私が悪いのか。今まで長男に注いできた金と時間はどうなる。これでも愛をもって育ててきた。それを壊したのは古都子かもしれないが、長男にも問題があったはずだ。掌を見れば汗がじっとりと浮き上がっている。
古都子はたまらず馬鹿馬鹿と叫びながら逃げ出した。しかしすぐに冷静になり階段脇に身を潜める。もし輝琉が警察を呼んだらどうしよう。古都子は部屋を覗き込んだ。
輝琉がスマホで何かしようとしている。古都子は叫びそうになって自分の口を覆った。それからやかましい鼓動が気になりだしてそろりそろりと胸まで手を下ろした。
もうおしまいだ。目を閉じる。それから自分の子が死んだというのに愛琉の時ほど悲しんでいない自分に気付き身震いした。悲しもうにも、長男との思い出が見当たらない。また辛うじて家族の記憶に長男を見つけても彼の表情が思い出せない。先刻の長男の憎悪に歪んだ顔を思い出す。今まで一緒にいた時間は全部嘘だったと言うのか。すると再び長男に腹が立ち始めた。あんな顔をして何故、やり返してこなかったのだろう。何故、笑ったまま首を絞められていたのだろう。不気味な子。
古都子は立ち上がった。死体だって構うものか、頭を蹴っ飛ばしてやる。
すると、部屋の中から輝琉の怒鳴り声がした。
「何だと。兄ちゃんは俺なんかと違って背が高い。何をやらせてもできる。顔も良きゃ頭もいいし女みたいな顔なんて言われもしないんだろ。今日だって母ちゃんは兄ちゃんのほうばっかみてた。俺は。何か買ってくれたって、殴られなかったって、それだってあんたみたいに期待されたことなんかない」
長男が、生きている。一瞬は安堵した。が、今度はとんでもない恐怖心が古都子を支配した。あの昏い目が脳裏にはっきりと浮かぶ。古都子はへなへなとその場に跪いた。開いたドアから見える室内を成す術もなく眺めていた。大人しいとばかり思っていた輝琉が長男をめためたに殴っている。古都子はまたショックを受けた。輝琉まで自分に不満があったのか。古都子は輝琉が解らなくなった。
彼は、長男にむかって怒鳴っていた。
「親父の一周忌もしないで帰るんかよ、この人でなし。あんたは葬式もちゃんと出なかった。いくら恵まれてたって人の気持ちもわかんないクズだ。自分カッコイイとか思ってんだろ。幸せ者はあんただ」
いつのまに起き上がったのか長男は壁を見つめていた。輝琉が、もう二、三蹴りつけている。輝琉が、輝琉じゃない。幼少の記憶がはっきりと迫ってきた。母と、母をなぐる父。幼い古都子は怯えてひたすらに気配を消していた。同じだ、と思った。今度は輝琉に腹を立てたが、責めることはできなかった。自分のほうが長男に酷いことをしていたことくらいは解っている。もしかしたら輝琉も被害者だったのか。それでも、古都子だって愛されたかった一人の子供だった。古都子だけが責められるとなると、やはり納得はいかない。また、長男を助けに入ろうにも気まずさが先に立ち、どうしたらいいのか解らなかった。長男も古都子の顔なんて見たくないと思っているに決まっている。
中から長男の冷えた声がした。
「お前は。あれほど嫌っていた父親に手を合わせてやる自分は寛大で正しいと言いたいのか」
「何だってんだよ。俺はフツーに」
「年子。愛琉。何のことか、お前の哀れなお母様に訊いてみるといい。所詮、おれらは替えが利く」
家族なんて幻想だったのか。あの気弱な夫でさえ子供に嫌われていた。完全に動くタイミングを逃してしまった古都子は二人に謝ることも立ち去ることも出来ず固まった。どうして長男は輝琉に愛琉の存在をばらした。そんなことをしたら輝琉に嫌われてしまうかもしれない。違う。いつから大切な愛琉は「バラしてはいけない」存在になったんだろう。愛琉も長男も輝琉も同じ我が子だったはずだ。古都子は迫り上がる違和感に声もなく涙を落とした。
今更「産み方は少しあれだったかもしれないけどあなたは愛琉のかわりじゃないのよ」なんて言ってもどうせ長男は信じてくれないだろう。
名前に「愛」か「琉」の字を残そうとしたのも代用品だと思っていたからではない。生きることがかなわなかった姉の名を二人の弟が継いで生きる。まだ若かった古都子はロマンチックだと思い、深く考えなかった。ロマンチックだと思うのが古都子の価値観なら、その名づけ方に違和感を覚える価値観も存在するということに気付いてもいなかった。
例え軽率と責められようと、親心と罪悪感が忘れない決意だけで済ましてしまうのを善しとさせてくれなかった。
何か生きた証を残してあげなければ愛琉は本当に遠くへ行って消えてしまう気がした。
薬も使った。確かに古都子は不妊ではない。他の女性より子宮が再び子を宿せる状態に戻るまで長い時間が掛かるのは本当だが、当初の家族計画通り二つ違いで出産するには問題のない身体だった。
それでも子を産むと言って休みを取った手前、死なれたとなると職場に戻り辛かった。嫌味を言われるのが目に見えていた。
愛琉が死んだのは医者のせいと産婦人科に抗議の電話をかける母親にも嫌気がさした。
欠片ほどではあるが、子を失った可哀想な母親として同情されるのは心地よかった。愛琉を失った悲しみや、自分が母だったばかりにこの子は死んだのではという苦しみを忘れさせるように皆が優しい言葉をくれるから。赤ん坊を抱いている同世代の女に対するどす黒い感情もその時だけは少し和らいだ気がした。
そんな時、ついに母の嫌がらせ的抗議に根負けした医者が薬を使うことを提案してきた。この誘いは疲弊しきった古都子の脳に甘く響いた。身体への負担なんてちっぽけな問題に思われた。
双子を授かり通院を重ねれば、何度も不妊治療を受けているらしい人を見た。その度に胸の奥にかすかな痛みが走ったが、膨らむ腹を撫でてはどうにか耐えた。この子たちは、死なせない。
ところがいよいよ出産が近付いたころ、夫が急にオーストラリアに出張することになったと言い出した。古都子は見捨てられたような気持になった。それでいて気弱な夫の事だから断りきれなかったんだと自分に言い聞かせた。こんな片田舎の小さな銀行がオーストラリアに何の用事があるのか理解できなかったが、仕事ならば仕方がない。夫は英語がとても上手なのだから適任だと考えることにした。
二人が生まれるまで、古都子は沢山の悲しみに耐えた。長男が言うように、愛琉が生きていたら息子二人は生まれなかっただろう。
だが、それは要らなかった子供ということではない。
産声を聞いたあの日、二人揃って男かとがっかりしなかったといえば嘘になる。でも長男と輝琉が生まれてきたときには本当にうれしかった。愛琉が死んでしまった生後三時間が過ぎて、一日経って、それでもちゃんと生きていてくれたのが嬉しかった。特に輝琉と違い発育が不十分で保育器へ入れられていた長男が戻ってきたときは、自分のいる場所が病院であることも忘れ歓喜のあまり叫んだ。
しかし。双子の子育てはとんでもなく大変だった。片方が泣けばもう片方も泣き出すし、授乳やオムツの交換も二人分。夫の母は協力的だけれど頼りにくく、自分の母に息子のことを言ったらおまけであの父が出入りするようになるかもしれない。古都子は聖女じゃない。いつまでも純粋な愛の夢にはいられなかった。
ふと、隣で何かが動く気配があった。長男がのっそりと部屋から出てきた。彼は、昏い目でちらりと古都子を見下ろしたが何も言わなかった。古都子は彼の赤くなってしまっている首を見た。それから視線を下ろし彼が失禁していたことに気付いたが、かけるべき言葉がわからなかった。
「あんさ」
気付くと輝琉が目の前に立っていた。古都子は身を固くする。自分も殴られるかもしれない。愛琉のことを聞かれるかもしれない。
長男に愛琉の話をしたのは彼がまだ幼い時だった。愛琉は星になったと言う古都子に確か長男は「お姉ちゃんに会いたい」と言った。もし、時期や状況が違ったなら、もっと上手に説明できたなら、長男を苦しめることもなかったのかもしれなかった。
もし、今輝琉に愛琉の話をすることになったら上手に説明できるのだろうか。そんな自信はない。
輝琉はゆっくりと口を開く。
「警察も救急車も呼ぶなってさ。兄ちゃんが馬鹿で良かったな」
古都子は泣き崩れた。輝琉が立ち去った後も、その場を動くことはできなかった。
朝一番で、長男は帰ってしまった。古都子はどうしようもなく見送ることしか出来なかった。やがて、輝琉まで帰ると言い出した。「法事はまだでしょ」という自分の言葉さえどこか白々しく感じられた。輝琉は昨日の荒々しさが嘘のように、いつもの愛らしい顔に戻って言った。
「ごめん、大学レポートあるの忘れててさ」
「そんなこと言ってなかったでしょ」
「あのさ。なんでもかんでも母ちゃんに言わなきゃだめなわけ」
突如、輝琉に昨日の冷たさが戻ってきた。古都子は小さく悲鳴を上げそうになった。しかし。このまま黙って輝琉まで手放したくない。
「違うのよ。でもね。あ、この間の朝ドラ。カップ麺だったでしょ。余っちゃって。せめて食べてきなさい。その前はウイスキーだったかしら。こっちも余ってるの。輝琉お酒は飲むの。あ、そうそう北海道のお菓子も」
「母ちゃん。俺、そういうのまじで要らんから」
古都子は去っていく輝琉の背中を怖くて追えなかった。玄関の戸に抱きついた。もう、家族が家族として集まることはないのかもしれないと思うとたまらなく虚しかった。
古都子は叫びたかった。それなのに世間体が頭の端にひっかかって声の出せない自分が恨めしかった。
空はどこまでも明るく晴れ渡っていた。