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  作者: 桂田武史
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四章 荒廃


 馬場は、右手にさげた袋の中で倒れかかった牛乳パックを左手を使って起こした。それから顔を上げて、固まった。今日は非番で会えないと思っていた能勢がいる。彼はぼんやりとした様子で開いた遮断機の前に立ち尽くしていた。しかもよく見ると左袖が赤く汚れている。加えて、ここは人通りが少ない。

 と、遮断機がかんかんと音を立てて閉まり始めた。

 馬場は手提げを放り出し、慌てて能勢の腕を掴んだ。能勢は、おそろしく酒臭かった。


「馬場さん」


 能勢はこちらを確認し驚いたように呟いた。馬場は何と言葉をかけるべきか迷った。それからすぐに先ほど居た場所からは見えなかった能勢の右手に花束があることに気付いた。へなへなと崩れ落ちる。能勢が馬場を見下ろし、それから顔ごと視線を動かすような動作をとった。数メートル先に置いてきた手提げに気付いたのかもしれない。


「僕が、死のうとしていると思ったんですか」


 馬場は一瞬迷った。が、嘘を言っても仕方がない。


「ええ。ごめんなさい」

「いえ」


 馬場はゆっくり立ち上がってスカートについた土を払った。電車が目の前を通り過ぎていく。


「その花。この間ここで自殺した女子大生に」

「いいえ。男子大生です。彼は十三日に。……誕生日に、ここで女に殺された。刑事を目指していた、めげない、本当に優しいやつだった」


 馬場は能勢の背中をさすった。こんな所で二人も亡くなったかしらと気にはなったが、今はそんなことを考えている場合ではない。能勢が男子大学生というなら、きっとそうなのだろう。

 能勢の左手が激しく震えている。手の甲を、血が伝っていった。


「僕は。愁みたいに強くなれなくて、頑張れなくて。だから警察官になれたとき初めて勝ったって思って、僕が警察の話ばっかりしたから、愁の気持ち考えなかったから」

「落ち着いて」


 馬場は水を買いに行こうとした。しかし。よく考えたらまだ自殺未遂の線は消えていない。ここで自殺した者と能勢が親しかったのなら、むしろ後追い疑惑が濃厚になりはしないか。ならば彼から目を離すのは危険だ。


「ひとまず家で休んでいって。すぐ近くだから」


 能勢は無言だ。馬場は祈るような気持ちで言った。


「お願い、休んでいって。その怪我、手当てするから」


 能勢は慌てた様子で左腕を隠そうとした。馬場は、その左腕を反射的に捕まえてしまった。確かに刃物の傷口だった。病気がもう治らないと判ってから自暴自棄になった弟を思い出し、気付いたときには能勢に抱きついていた。



          *



 近藤は、取調室で額の汗を拭った。当初の手助けという意識は消し飛んだ。能勢が今、取調べをしている。


「私じゃありません」


 女が叫んだ。まだ二十代と遊んでいたい年頃だろうに髪は黒く、声も優しい。どうにも子供を虐待死させた親には見えない。女は半泣きになりながら必死の弁明をしていた。が、能勢は態度悪く長い足を投げ出し、聞く耳持たずという様子だった。能勢が小さく、乾いた息を吐く。素人も熟練もすっ飛ばして異様だった。同席の女性警官が今にも掴みかかりそうな姿勢で能勢を睨んでいる。近藤は叶うものなら退席したかった。

 女がひとしきり話し終えぐったりとうなだれたとき、能勢がゆっくりと口を開いた。


「つまり、きみの子は殺されるために生まれた。今も殺され続ける訳だ」


 女が叫ぶと同時に、近藤も音を立てて立ち上がった。女性警官もだ。もう、我慢ならない。相手の尊厳を無視した態度だ。それに、女が故意にやったと決め付けている。


「お前、一度外せ」


 存外低い声が出た。机をがんと叩く能勢の首根っこを掴み、外へ放り捨てた。振り返った目は吸い込まれるように昏かった。少し酒のにおいがする。近藤は大きく息を吐き、振り上げかけた拳を辛うじてひっこめた。引き攣った顔のまま部屋に戻る。女性警官が、助けを求めるような眼でこちらを見ていた。近藤は笑おうと試みた。出来なかった。

 咳払いを一つ、女の前に座りなおす。女に、能勢が居なくなったことを告げると堰を切ったように泣き崩れた。どうにも申し訳ない。というのも能勢は今、隣室で待機しているはずだ。


「その、すみませんね若いのが」


 そういった自身も三十の半ば。だが、そんなことを気にしている場合ではない。女がくしゃくしゃの顔で近藤を見ている。近藤がぎこちなく笑いかけると、なんと自供を始めた。


「その、本当なんですか。やっていないことは正直にやっていないと言ってください」


 言ってから近藤は変な顔をした。女は首を横に振るばかりだ。図らずとも「怖い刑事と優しい刑事」を演じたことになる。もし能勢がいなかったら事故だと判断していただろう。

 被疑者の見た目で判断するという過ちを犯したのは、自身の未熟だ。解っていても、認めたくなかった。今回は偶然だ。能勢のような態度で取り調べに臨めば、いつか冤罪を生むかもしれない。

 近藤は額の汗を袖で拭いながら、隅の洗面台を見た。あれの小さな鏡はマジックミラーになっている。あの反対側で能勢がどんな顔をしているか。想像もしたくなかった。



 昼になった。午前のこともあってどう能勢に話しかけていいのかわからない。ここ数日の間に何かあったのか。


「あ、えっと、そのなんだ」


 それから以前にはなかった能勢の怪我に気付いた。左の手が袖口から甲にかけて包帯で覆われている。指にまで包帯は巻いてあるようだ。


「突き指でもしたのか」

「ええ」

「医者には行ったか」

「必要ありません」

「もう冷やしてなくていいのか」


 近藤は何の気なく能勢の左手に手を伸ばした。すると能勢は右の手で左手をかばい、ものすごい形相でこちらを睨んでくるではないか。


「なんだ、えっと、そんなに痛むのか。医者へ行ったほうがいいんじゃないか」


 心配して損をした気になった。それでも、自分より十以上年下相手にムキになっても仕方がない。何より「親切な人」である近藤が職場で大声を出すわけにはいかない。

 近藤は茶を一口だけ飲み、咳払いをした。

 能勢はしばらく近藤のほうを向いていた。が、近藤がこれ以上話しかけてはこないと判断したのか立ち上がった。


 弁当のようなものは持っていない。どこかで食べてくるつもりかもしれないが、昼休みもそう長くはない。なにより半年近く過ごす中で能勢が何かを食しているのを見たことはなかった。

 近藤は前もって用意していた空の缶ジュースを掴み、ゴミ捨ての体裁でさりげなく後を追った。以前から彼が昼に何をしているのか気になっていた。

 昼飯を抜いているのであれば無理にでも食わせた方がいい。身体が資本の仕事だ。それに、もし能勢が倒れでもしたら近藤が面倒を見ることになりかねない。


 更に、今日はとっつかまえて問いただしてやりたいことが山ほどあった。身体から酒の匂いをさせたまま出勤していいと思ったのか。その酒はいつ、どこで、どういう理由で飲んだものなのか。先刻の取調室での態度はどういうつもりか。

 が、いざ話しかけるとなると決心が付かない。あの凍てついた瞳がはっきりと頭に浮かぶ。つばを飲み込めば胃が痛んだ気さえした。


 自分で言えないのなら石倉班長なり係長なりに言えばいいのではないか。が、すると自分が密告者のようでありどうにも具合が悪い。能勢の立場もなくなるだろう。大切な、まだ刑事になって一年に満たない後輩の、たった一度の間違いではないか。今日まで大きな問題行動もなかった。自分が一言注意すれば、今回はそれでもいい。

 と、真横を馬場が通った。近藤は思わず眼で追った。ふと、自分がストッキングの足ばかり見つめていたことに気付き、少し反省する。やはり密告者のような真似はできない。そんなことをしたら馬場に合わせる顔がなくなる。


 が。そもそも変ではないか。何故、ここで馬場が出てくる。彼女は直接は関係ないはずではないか。もしや自分は馬場に何か特別な感情を持ち始めているのではないか。後輩が馬場に好意を寄せていると知っているのにも関わらずか。近藤は頭を掻きむしりたくなった。

 ふと顔を上げると、能勢は遥か前方でトイレに消えた。近藤は慌てて後を追う。それから、空き缶をにぎりしめトイレに駆け込む不自然に気付き強く手を握った。スチールの缶が少し凹んだ気がする。


 能勢の姿はなかった。かわりに一番奥の個室が閉まってる。近藤は足音を殺し、近付いた。聞き耳を立てている自分が馬鹿らしくなりかけたとき。嗚咽の声と共にびしゃびしゃという音を聞いた。

 思わず近藤は逃げ出した。自分の席について漸く自分を恥じた。能勢に何と言うべきか。酒をやめろ、医者へ行け、なにか悩みがあるなら聞く。どれも違う気がした。自分の行動が露見するのも怖い。何も個室を覗いて能勢を確認したわけでないと自分に言い聞かせるも叶わなかった。彼が昼食をとらないのも得心がいってしまった。

 隣でどすんと音がする。能勢が長い足を投げ出し、椅子に座っていた。


「先ほどの女についてですが」


 話しかけてくる。近藤は曖昧な笑みを浮かべた。能勢の顔をまっすぐには見られなかった。



          *



「はい、どなた」


 馬場は部屋の戸を閂をかけたまま少し開き、外を見た。驚いた。能勢がいる。こんな夜遅くにどうしたのだろう。


「少し待ってて」


 馬場は一度戸を閉めると軽く服を正してから閂を外して能勢を中に招き入れようとした。


「あ、いえ。すぐ帰ります。その、昨日。僕が紛らわしいことしていたばっかりにごめんなさい」


 能勢がビニール袋を差し出した。中身はトマトと生卵だった。


「いえ、こちらこそごめんなさい。それに、これ。手提げを放り投げたのは私なのに。なんてお礼したらいいか」

「気にしないでください。では、これで」

「上がっていって。包帯かえるから」


 すると能勢が驚いたような顔をした。馬場は微笑する。


「傷口は清潔にしておいたほうがいいの」

「手馴れているんですね」

「ええ、まあ」


 弟も自分の癌がもう手術不可能と知ったとき似たようなことをしていたから、という言葉は飲み込んだ。ここで能勢に弟の話をする必要はないだろう。すれ違うとまた能勢は酒臭かった。


「またお酒を飲んでいたの」


 馬場はリビングにつながる戸をあけようとした。それからすぐ、昨日は気にもしなかった弟の遺影のことを思い出した。遺影、といってもフォトフレームにはいった写真にすぎず仏壇があるわけでもない。また、あまり顔の似た弟でもないから写真を見たら能勢は変な誤解をするかもしれない。


「あ、ちょっと待って」


 馬場は先に部屋に入って弟の写真を伏せた。それからこれでは余計に怪しいと考え、あわてて抽斗に突っ込んだ。本当ならばバスタオルを入れる場所だ。心の中でしっかりと弟に謝ってから馬場は言った。


「どうぞ」


 能勢をソファに座らせると救急箱を開いた。包帯を巻きなおしているとき、妙に冷静になる。本当に弟なのに隠す必要なんてあっただろうか。そもそも能勢が「変な誤解」をしたとして、すると何故自分が困ることになるのだろう。

 能勢がいきなり悲鳴をあげた。馬場ははっとする。


「ごめんなさい、きつかったかしら」


 馬場は大きく息を吸い、しっかりと考えることにした。自分が能勢に好意を持っているとして、その事実自体は理解できる。むしろ、これが好意でないとしたら他の何になるというのだろう。自分が能勢を好いていると断定しても嫌ではなかった。問題はいきさつのほうだった。

 もともと保育士を目指していたのに警察事務員になることを選んだのも、署で散々に言われていた能勢に声をかけてみたのも、警察官になるという夢を叶えることもないまま癌で亡くなってしまった弟の存在が大きい。


 弟は能勢と違い上背があるわけでもなく顔も十分人並みで、素直以外に目立った長所もなかったが仲は良かった。気弱で、どこか幼い。能勢を見たとき、直感的に似ていると思った。

 日々能勢と接しているうちに僅かな仕草にさえ類似点を探すようになっていたし、実際に似ていた。見つめたまま「ありがとう」と言えば目をそらしてしまうところ、部屋のすみっこが好きなところ、ほんの小さな物音にわりと敏感に反応するところ。あげればきりがない。

 しかも悪いことに、弟が生きていたならば能勢と同い年だ。


 能勢は包帯に包まれていく腕をじっと見つめていた。こんなところまで同じだなんて。

 馬場はさらに考え込んだ。

 仲が良かったのに、一緒に暮らしていたのに、自分は弟がもはや助からない命になるまで気付いてやれなかった。それでいて家族が希望を捨てないよう努力しているのに自暴自棄な態度をとる弟に腹を立てた。そうして突き放しているうちに弟は急変してあっけなく死んでしまった。本当は彼が一番悔しいのだとわかっていたのに姉として何もしてあげられなかった。


 要は贖罪だ。

 猛烈に申し訳ない気持ちになった。弟にも能勢にも悪いことをしている気になった。ミツルとイタル、そんなに似ているわけでもないと思っていた二人の名前でさえ似ている気がしてきた。

 踏み切りで能勢を見たとき、彼を決して離すまいと思った。それも一日が経ち冷静になってみれば、能勢をだったのか亡き弟に似た男をだったのか自分でも解らなかった。

 が。最初の理由がどうであれ今後もし能勢に嫌われるようなことがあったらと思うと耐えられない。


「どうしたんですか」


 能勢に言われて馬場は自分が泣いていたことに気付いた。


「いいえ、なんでもないわ」


 正直に弟のことを話したらきっと嫌われてしまう。馬場は曖昧な笑みを浮かべた。能勢は戸惑った気配こそあるものの何も言わないでいてくれた。

 手当てはもうすぐ終わってしまう。あとは能勢の怪我が自傷行為とは別のものに見えるように人差し指と中指を割り箸で固定し巻いてやれば完成だ。手を動かし辛くなることに関しては同意も得ている。


「どうもすみません。面倒をかけてしまって」

「いいえ」


 事が済むと、能勢は立ち上がった。玄関のほうへ行く様子はない。かといって時間も遅ければ引き止める用事もない。玄関に案内したほうがいいのかもしれないが「玄関はあちらです」などと言えば「帰れ」と言っているように聞こえる。それに、帰って欲しくない。

 五分ほど互いに何をするでもなく見つめあった。先に動いたのは能勢だ。


「ああ、もうこんなに遅い時間になるんですね。今日はありがとうございました」


 能勢は玄関のほうへ向かう。


「あの」


 馬場は後ろから呼び止めた。もしかしたら何らかの理由で能勢も帰りたくないのではないか。


「お酒。身体は大切にしてくださいね。特に肝臓と胃はだめにすると本当に辛いの」


 馬場はこんな言葉しかいえなかった自分の臆病を呪った。能勢は素直に頷くと腰から長身を折り曲げて一礼し出て行ってしまった。

 馬場はしばらく立ち尽くした後、慌てて玄関の戸をあけた。せめて見送りたかったが、暗闇に能勢の背中は見つからなかった。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 高村薫とまでは言いませんが、佐々木穣先生の書く警察小説にも似た雰囲気で記される人間関係。 いやー本当に読ませます。 近藤刑事の人間らしい小狡さ、馬場事務員が持て余す感情…それらが見事に伝わ…
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