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  作者: 桂田武史
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三章 袂別


 愁士朗はごみ溜めのようになった下宿で目を覚ました。すぐにセルフネグレクトと呟きにんまりと笑った。股間を確かめるまでもなくまた自分はトランスのまま日付をまたいでしまったのだと理解した。

 身体を起こそうとすると腰から肩甲骨の辺りにかけて内側から鈍痛が起こった。愁士朗は起き上がるのを諦めため息を吐く。なにか臓器でもだめにしたのかもしれない。身体が熱くなって、冷汗が出ていた。


 ベッドから右腕だけ出し、枕元をあさってテストステロンの錠剤が入った瓶を取る。

 男性ホルモンの摂取を始めてから、声が低くなり始めた。男性ホルモンに胸を凹ます作用はないらしいが、心なしか胸が凹んだ気さえしていた。陰核と呼ばれていた部分は肥大化し、覚醒すれば硬く大きくもなり勃起もする。クリチンというやつだ。今では最大で五センチほどにまでなり、その気になればおそらく挿入もできるだろう。他のトランス男性についてネットで調べてもここまでのサイズに育つのは希らしい。錘をつけた紐で引っ張ったり、よくわからないサプリメントを飲んでみたりと色々試した甲斐があったのかもしれない。

 が。それでもなお愁士朗はオスではなかった。


 自分は他のトランス男性より恵まれていると知ったときには奇跡を起こして完全なオスになってやるとはりきったものだ。だが、予想以上にホルモン摂取の副作用は辛かった。

 それでも止められないのは一度見た希望を手放したくないからかもしれない。身体がメスになっていくのを認めたくないのかもしれない。平らな胸だって中性的な顔だって他のトランス男性より恵まれていてもトランスはトランスでしかない。男と女、漢字にしてしまえばたった一字の壁がもどかしい。男にも女にもなりそびれた自分が汚いもののように感じて辛い。差別されれば悔しく、多様性なんて言葉で腫物でも触るように優しくされれば惨めさが増すばかりだ。

 普通の男と同じがいい、が一番難しいとは。


 横を向こうと身体を動かすと視界に火花が散った。あまりにも情けない。少し笑った。瞬間、頭頂部がずきっとする。


「いてえ」


 中途半端に変声期を迎えたしゃがれた声が出た。

 今日は大学を休もうと決め、眠ろうとする。その瞬間にサボりという言葉が頭の中を横切った。それに、このままでは落第してしまう。


「俺は本当に体調が悪い」


 もちろん、独り言に返事してくれる人はいない。愁士朗は腐った。体調の不良は嘘ではない。けれど、自分なんかより具合が悪くても頑張っている人はおそらく星の数ほどいる。自分のような出来損ないのトランスはここで頑張らなかったら本当に無価値な人間の形をしたごみになってしまう気がした。

 頑張り続けることでしか、自分が人間であることも証明できない。どんなに差別的な言動をぶつけられたとしても。

 身体を起こす。腰をさすりながら壁に背をあずけた。足の裏が痺れ、歩けそうにもない。本当ならホルモン摂取はちゃんとした医療機関でやるべきだった。

 いや、違う。あれはトランス男性をオスにすることを目的としない。オスになれないと決め、オスの形をした何かにするために存在する。しかも保健適応外で高額だ。

 不調がすべて服薬によるものかはわからない。それでも結果を急ぐばかりに目安量を無視して服薬したのがいけないのは間違いなかった。


「やっぱ寝る」


 横になる。眩暈と耳鳴りが加わった。これでは例えオスになれても健康診断で引っ掛かってしまい、おそらく警察官にはなれない。愁士朗は枕元にあった参考書を床に叩き落した。表紙の『今年こそ決める』の文字が目に入り涙がにじんだ。

 捨てきれない夢を隠し、諦めのつかないまま就職活動をする。まさか警察官になるために手術費を稼ぎたいから踏み台にさせていただけます、とは言えなかった。下調べまでして面接に臨んでもしどろもどろになってしまうのは、そのへんの疚しさからかもしれなかった。

 その面接のたびにぶつけられる心無い言葉にも言い返せない意気地なし。他人の言葉ごときに負け、身体に負け。ついになけなしの男としての意地さえ折れてしまったのか。

 つらい言葉は耳の奥にこびりつき、ふとした拍子に頭の奥深くで再生される。頭を叩いても引っ掻き回しても消えてはくれなかった。


 アソコはどうなってるの。

 うちの評判に関わるし、受け皿じゃないから。

 頭が病気の人が入れると思ったわけ。ナベじゃなきゃ採用したのにもたいない。自分で生きづらさつくって何が楽しいんだか。

 戸籍変更したら一度退職してもう一度面接からやりなおしてくれるなら考えないこともないけど。別に君の性癖とかきいてないから。


「うあああああああああ」


 愁士朗は絶叫した。好んで不自由を抱え生まれてくる馬鹿があるかと壁を殴った。行き場もなく暴れまわる怒りと裏腹に、絶えず自分を観察するもう一人の自分が落ち着くべきだと責め立てる。みっともなく感情を垂れ流して何が変わるというのか。

 首に手をやり怒りに任せて絞めることで声を殺した。ひりつくのどの痛みとともに、徐々に冷静さが戻ってくる。

 そっと手を放し、口元の涎を拭った。


 相手にだって悪気はない。吾身でないから解らない、それだけのことだ。それは何もあらゆる差別の問題だけに限った話ではない。きっと愁士朗も含め、人間なんていうものは自覚しているよりもずっと頭が悪いものなのだ。

 どうせ馬鹿なら、女装して警察官採用試験を受けてしまおうか。

 無理だ。女装が苦ではないならこんなに追い込まれたりはしない。

 それに、警察学校時代の風呂やトイレはどうする。身体がメスでは男性のそれは使えない。とはいえ女性のそれは例え女性に興味のないゲイであっても男は使用できないのだ。トランスだからといって男の自覚がある者が侵入していいとは思えなかった。しかも愁士朗の恋愛対象は女性だ。

 理解のない社会が悪い。バレなければ問題ない。そう吐き捨ててしまいたかった。

 しかし、その発想は取り締まる側にはふさわしくなく、ゆくゆく自分の仕事に誇りをもてなくなるだろう。


 それでいて薄々、何故警察官を目指しているのか見失いそうになっている自分にも気づいていた。自分は夢にすがることで必死に生にしがみついているだけではないか。能勢に負けているような気がして腹が立っているだけではないのか。

 苦しんでいる人を救いたいという志。だが世間は苦しんでいる愁士朗に冷たかった。差別してきたのも人間だった。

 そもそも人間を救うことに意味があるのか。誰かを擁護することは相対する立場にある別の人間を切り捨てることだ。単純に正義という言葉だけでは救うという傲慢を正当化できなくなっている自分が、ひどく汚れて映った。


 全てが馬鹿らしくなってきた。

 やはり、もう死んで終わりにしたほうがいいかもしれない。

 十三日。偶然にも、金曜日。信心深くない愁士朗でも皮肉な笑みが浮かぶ。今日で二十二歳になった。何も成せなかったばかりか自分の存在さえもみ消されたままに。

 ふと、最初からトランスでない普通の男に生まれた人生を想像した。


 トランスなんかでなければ、親に愛されただろうか。

 すぐに否定が浮かんだ。もしシス男性でも、子供に暴力を振るう親の元に生まれてしまったことには変わりない。もちろん、死者の代用品だ。あの愚かな大人たちが息子に息子のための名前を付けたかさえ怪しく、おそらくは姉の名を由来にしたものを選んだだろう。


『そうしたら、この人生も天罰になる』


 能勢の言葉が頭をよぎった。少しだけ気持ちが解った気がした。同時に、おそらく自分が正しくオスであったならクラスで遠巻きにされていた能勢と仲良くなったりはしなかったろうと思った。

 能勢と愁士朗が出会ったのは高校生のときだった。この頃愁士朗はトランスであることを隠していたし、当時は学校というシステムの下女装するしかなかった。愁士朗の名を誰かに教えていたことはなかった。呼んでもらえない名前に意味があるとは到底思えなかった。


 せっかくつけた男の名も「トランス男性」や「キチガイ女」の名と認識されるだろう。どのみち愁士朗の名に足跡はなく、卒業証書に記載されることもない。いつか全てが済み男性として生きられたなら使う予定の名を、いたずらに晒したくはなかった。

 何故、それを能勢に教える気になったのか。今になってはよく覚えていないのが可笑しかった。

 初めて二人が会話したのはアウトドア部の部室だったかもしれない。それでも天気の話のような、強制的に居合わせた二人が気まずさを回避するために形式的に行う会話ごっこの意味合いが強かったと思う。当時の能勢は愁士朗より背が低く、長い前髪で目が見えなかった。夏でも長袖で、よく首や膝の後ろに怪我をしていた。どうやってこんな変な場所を怪我したのか気にはなったが、話しかけてロクでもない事情を掘り当てたくもない。だから同じ部活でも愁士朗は話しかけなかった。


 それが、二人は文化祭のクラス展を作るにあたって同じ分担にされてしまった。能勢が同じクラスに居るとは気付いてさえいなかった愁士朗は思わず「うげっ」と言いそうになったほどだった。



          *



 愁士朗の前をジャケットを脱いだ男子生徒たちが横切った。あのなかに自分とは逆で本当は女の子が居るかもしれないと思ったが、だからといって何かがある訳でもなかった。


「花岡さん、看板まだ」

「あ、ごめん。ちょっと待って」


 愁士朗は絵の具のついた筆を掴んだまま、目の前の男のつむじを睨みつけた。確か同じ部活の能勢だ。床に座り「おばけ屋敷」の隣に白装束の女を描いている。


「だーから、なんで幽霊に足描くんだよ」

「亡霊には足あるよ。僕がそうだから」

「は」


 愁士朗は能勢から看板を奪い取り、幽霊の足を白い絵の具で塗りつぶした。ダンボール製の看板が少しくしゃっとした気がする。


「お前のせいだから」


 能勢は何も言わずに愁士朗のほうを見た。長い前髪の間からのぞいた目はぞっとするほど黒かった。言葉に困って固まる愁士朗の隣を、運動部で他の者より早く準備から抜ける連中が丁度通りかかって言った。


「じゃあな。レズ岡。ちょっと美人だからって調子乗んなよ貧乳」


 愁士朗は女たちを睨みつけた。野郎にモテたって欠片も嬉しくない。

 それにしても、いい気なものだ。クラスで浮いているものを一まとめにしようという安直な発想といい。途中離脱の件だって、あの女たちが部活に真面目に取り組んでいる姿なんて見たことがない。


 翌朝、教室に入ると女たちが遠くから愁士朗を見てひそひそとやっていた。自分の席に向かうと、机の上に花が供えてある。盛り塩まであった。塩を床に落とすとマジックで書かれた文字が出てくる。


『花オカマき菜』


 結局女扱いかよと腹が立った。ため息が漏れる。こんなつまらないことするために家から塩を持参する暇があるのなら、もっと別の楽しみを見つければ良いものを。どんなに望んだって普通の幸せを得られない者だっているのだから。

 教室を見回す。目が合うと女たちは少し退き、なによと言った。

 途中で能勢の机の上に汚いずぶ濡れの雑巾が置いてあるのにも気付いた。


「あれ、トイレに落としたやつでしょ」

「まじで」

「いや。プレゼント的な。ほら、あいつモテなさそじゃん。せめて女子トイレの水だけでも的な」

「ウケるー」


 愁士朗はわざと聞こえるように舌打ちをした。自分をトランスたらしめている女性器も目の前の女たちも死んだ姉も不潔に思えて仕方なかった。やがて現れ雑巾を何も言わずに片付けだした能勢も、いじめに気付いて黙認どころか加担する教師もみんな歪で、自分なんかよりもよほど化け物のように思われた。もし今不審者が侵入して彼らを根絶やしにしたとしても涙の一滴も出ないだろう。なんなら自身が殺されたとしても一向に構わない。

 放課後になって、今度はダンボールで墓石を作る作業に入った。


「ねえ」


 能勢が話しかけてくる。愁士朗は露骨に嫌な顔をしてみた。自分に話しかけるメリットが能勢にあるとは思えなかった。

 自分に関われば能勢もいじめられる。無視をしてやろうとした。が、よく考えたら能勢は既にいじめられている。

 愁士朗は顔を少しだけ能勢のほうに向けた。


「どうして花岡君は黙ってるの。僕はね、怖いんだ。ずっと、ずっと。でもそろそろ限界で痛くて」

「お前なんかと一緒にすんなよ。だいたいあたしは女だ」


 女と言った瞬間から不快だった。だが、トランスとばれればレズ扱いより酷い目にあう。学校でトイレに行けなくなるかもしれない。


「嘘だよ。女の子はスカートの下にトランクスなんか穿かない」


 愁士朗は能勢の頭を蹴り飛ばした。能勢はもそもそと何か言い訳をしているようだったが無視した。スカートが盛り上がるから下にスパッツやズボンをはいてはいけないという謎の校則がこんなところで災いするとは。

 床にどかっと胡坐をかく。正面からのぞき込んでやると、能勢は怯えた顔のままうっすらと笑っていた。



          *



 愁士朗は咳き込みながらもう一度身体を起こした。出会ったときから変わらず能勢は変なヤツだ。笑ったらわき腹が激しく痛んだ。そういえば頭を蹴り飛ばしたことについて、しっかり謝っていなかった。鼻水をかもうと思ったらティッシュはもうない。諦めてまた横になった。リュックを引きずって手元に寄せスマホを取り出す。


『もしもし』

「よお。今仕事か」


 電話の向こうで能勢が動いた気配がある。


「頷いたって解んねえって」

『ごめん』

「で、仕事」

『ん』

「そっか。今夜飲まね。いつもの店」

『待って。愁、誕生日おめでとう』

「別にめでたかねえけど。ありがとな」


 愁士朗は電話を切り、身体を起こすとテストステロンの錠剤と市販の鎮痛剤を飲み込んだ。



 店に着いたとき、能勢はすでに到着していた。店の前で直立不動の姿勢をとっている。他の客たちが能勢を露骨に避けていた。ため息が出る。こういうときは先に店に入ればいいものを、あの馬鹿正直はそれができない。

 能勢は愁士朗に気付くと、のそのそと近付いてきた。暖簾をくぐる。


「なあ、初めて俺が自分の名前言ったときのこと覚えてるか」

「ん。なんか愁怖かった」

「あんとき頭蹴ってごめんな」

「だっけ」

「だよ。笑うからお前、怖かったよ」


 座敷席に通される。愁士朗が先に座った。


「俺よりチビがいるって思ったのににょきにょきデカくなりやがって」

「わざとじゃない」

「知ってる」

「愁いつも怪我手当てしてくれたからうれしかった」

「お前ぜったい詐欺とかひっかかるわ」


 店員を呼びつけて日本酒とビールを頼む。能勢が「煮魚」と付け足した。ぼんやりと能勢の顔を見ていたら何故だか妙に腹が立ってきた。確か二人の夢が同じ警察官だと知ったとき能勢は「刑事ドラマがカッコイイから」と言っていた気がする。

 愁士朗は能勢に気付かれないようにそっとため息を吐いた。頭の端では何かになりたい理由に重いも軽いもないことは解っている。


「愁は僕なんかより強い人。愁は、僕たちみたいに辛い目にあってる子供を助けたかったんだよね」


 愁士朗は何かと間の悪い能勢を睨みつけた。


「助けたかった、てなんだよ。何で過去形なんだよ。俺はまだ諦めてなんか」


 いないとは言えなかった。この後死ぬ予定とはもっと言えなかった。言ったらきっと能勢は止めようとする。すると決心が揺らぐ自分というのも理解している。が。今止めてしまったらいつ決心がつくのだろう。死んでも死ななくても、例えオスになれたって、この体調では望んだ未来など到底手に入らないというのに。卒業アルバムと称して同学年三百余名に女装写真をばらまかれた不名誉な過去だって消せはしない。「仕方がない」というのが正しいとは思いたくもなかった。

 愁士朗は能勢の前に運ばれてきた煮魚を奪い取った。


「ごめん」

「うっせえ。ほんとは交番に拾った金届けたときカブトムシくれたのがうれしかっただけなんだよ。しかも一円玉だぜ。初めて俺が男だって気付いてくれた気がして」

「…………」


「んだよ。魚は返さねえからな。で、お前はどうすんの。来月帰るのか」


 能勢は斜めに頷いた。


「どっちだよ」

「……帰る」

「大事なのはお前がどうしたいかじゃねえの」

「わかんない。僕は、どうしたらいい」

「俺が知るか。けど嫌だったんだろ暴力振るわれてさ。小さい頃とか女装させられてたんだろ。帰らなきゃだめってことはない。あんな馬鹿親」

「それは違う」


 愁士朗は急に大きな声を出した能勢に驚き口を閉じた。励ましてやろうと思ったのにと腹が立った。一方で励ましてやらなくても能勢は自分の頭で考えることができる人間であるのは知っていたし、自分も感情に任せて大きな声を出していたかもしれない。

 能勢の親も愁士朗の親も自分の感情を優先しがちな馬鹿親だ。少なくとも愁士朗はそう確信している。だからといって境遇が似ているというだけの理由で能勢の親まで馬鹿と言っていいと考えたとしたら、自分は親の傲慢となにが違うのだろう。愁士朗は謝ろうとした。が。


「ごめん」


 先に能勢が戸惑ったような顔で言った。謝罪の機会を取られてしまった愁士朗は黙って次の言葉を待つしかなくなった。


「確かに僕はあの人たちを親だって思えないし思いたくない。でも。馬鹿なんて言ったらあの人たちが可哀想な気がして。あの人たちがしたことは親としては間違ってる。それでも多分おばさんも子供の頃は被害者だったんじゃないかな。よく自分の親のほうが怖かったって言うよ」

「……それでお前は許せるの」

「許せないから、許さないんだと思う。だけど姉さんの一件については僕も悪かったんだ。僕は姉さんにも女にもなれないし女装させられたら嫌だった。でも愛されたかったからって姉さんの分も頑張るって出来もしないこと言って気を引こうとした。あの人を増長させたのも、もしかしたら姉さんの代わりにするって選択肢を与えちゃったのも僕かもしれないんだ。多分姉さんにならないし弟みたいに女装が似合わないし、おばさんになつかないから可愛くないって暴力をふるったんだよ」


 愁士朗は黙って煮魚を能勢の前に戻した。愁士朗はトランスゆえに自分は女じゃないと早いうちから姉になることを放棄できたのかもしれない。一方で能勢はトランスじゃなかったゆえに男に生まれた自分を責め続けた。おそらく、今も。


「お前、刑事向いてないかもな」

「ん。時々自分でもそう思う」



 踏み切りに着いた頃には、すっかり酔いは醒めてしまっていた。九月にしては妙に温かく、珍しく空にはっきりと星が見えている。愁士朗には、それが憎かった。こんな人生なら最後まで三流映画のように雨で終わってくれれば良かったものを。

 愁士朗はスマホを取り出した。つい今しがた別れたばかりの能勢に電話しようとしている自分に気付いてため息が出た。


 今日死ぬことに意味がある。

 今の愁士朗にとっては唯一つのささやかな復讐だった。

 自分の生まれた意味を探し続けた。姉の代用品でない自分がいると信じた。トランスから初めて本当にオスになった男になると誓った日から道理なんて考えるのを止め、思いついたことには片っ端から手を出してきた。


 それでも今日までメスに負け続けてきた。

 それならもう、いい。もはや身体も保たない。ならばメスと心中してやる。たとえ世界の皆が死んだのは女と主張したとしても愁士朗は死をもって「自分は女に殺された」と主張し続ける。これこそが生まれた意味だ。能勢なんかに電話しても、仕方ない。だいたい、死の直前に電話を受けたとなれば能勢は酷い自責から抜けられなくなるに違いない。


 目の前を電車が通り過ぎた。

 終電までもう時間がない。愁士朗は震える足を引っ叩いた。

 愁士朗が己の身体一つどうにもできない無力に打ちのめされている間にも能勢は遠くへ行ってしまう。目指したものは一緒だったのに。境遇だって似たり寄ったりだったのに。身体能力もオスとしての能力も頭の良さや見てくれも勝てなくて、今日は人徳までも負けていたと思い知った気がした。

 それに。また身体に夢を奪われる瞬間だって近付いてきている。


 先刻と反対方向から列車の光が見えた。愁士朗は大きく息を吸うと目を瞑って走り出した。

 憎かった。全てを奪ったメスも無責任に子を産み暴力を振るう馬鹿親も死んで逃げた姉も。憧れた職の、まだマイノリティや障がいのある者を受け入れない閉鎖した部分。なれない夢ばかり選んで、諦めてほかの道へすすむことさえもできない自分の性格が。どんどん自分より高みへ進んでゆく友人でさえ。

 愁士朗は、慟哭した。


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― 新着の感想 ―
[気になる点] 上手く代替え表現は思いつきませんでしたが、 >せっかくつけた男の名がトランス男子の名に貶められることを怖れていた。 トランス男子の”名”よりも相応しい表現があるような気がしました。こ…
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