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  作者: 桂田武史
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一章 分岐


「よ」


 愁士朗は遅れてやってきた能勢に銀杏の皿を差し出した。相も変わらず整った顔をしている。同じ男としていささか引け目を感じるが、男とはいえトランスジェンダーでオスになりそこなった自分はそもそも同じ土俵にさえ立つ権利はないのかもしれない。

 そう発想すること自体、自分自身が一番この体に対して差別的になっている証拠だという気がして苦笑した。


 困難というものは種類がどうであれ受け入れることは難しく、立ち向かおうとした者ほど「受け入れるべきであり、受け入れられるべき」という風潮に疑問を呈するのかもしれない。

 受け入れないことを選ぶのが救いというわけでもないが、個人の意思を尊重してくれるほど困難も暇ではないことだけは確かだった。

 愁士朗は銀杏を一つ口へ投げ入れた。


「ビール」


 能勢は店員の顔も見ず注文をし、座敷のすだれを下ろした。


「ビール、好きだよな」

「だいたい何処にでもある。愁は日本酒しか飲まない」

「あー、げっぷが出なきゃ実はなんでもいいんだけどな」


 愁士朗が笑うと、能勢もつられて笑う。


「な、それより刑事課に異動したんだって。良かったじゃん」


 能勢はジャケットを脱いだ。愁士朗は箸たてから割り箸をひっこぬき、能勢の前に置いた。能勢が魚の煮つけを食べ始めた。


「意外とデスクワークばっかり」

「いいんじゃね。死人がでるよか。肉いるか」

「今日、出た。肉はいらない」

「嫌いだっけ」

「ん」

「で、事件はどうなったのさ」


 店員が無言でビールを置いて出て行った。


「結局違う班の担当だったし犯人も自分から出て来た。詳しいことは言えない。というより多分もうニュースになってる」

「そっか」


 愁士朗は自分から警察の話題にしたにも関わらず、警察の話題ゆえに悲しくなりかけている自分に気付き慌てて日本酒を呷った。一緒に刑事を夢見たはずなのに自分だけが置いていかれている。せめてトランスでなかったなら今頃男警にはなれていたのだろうか。いや、高校時代の体育の成績を思い出すとどのみち望み薄か。

 きっとこの痛みは男警への道のりが険しい悲しさより、すっかり警察官になってしまった友人への嫉妬だ。


「愁は試験受けるの」


 警察の採用試験だ。申し合わせたような間の悪さに言葉が詰まりかけるも、笑顔で繕った。


「いや、とりあえず普通に就活するさ」


 隣の能勢が言葉もなく悲しそうな顔になったのが耐えられなかった。


「大丈夫だって。診断書とったし手術もタイでやりゃ八十万で済むってさ。国内より断然お得。おまけに技術もダンチだぜ」

「そんなに……」

「ばーか。今年のうちに小説で新人賞とるからいいんだよ。そしたらお前なんて追い抜いて、そだ、部下にしてやる。おい能勢、捜査報告はまだか。なんつって」


 嘘だった。トイレや警察学校の風呂のことを考えれば男性器の形成術も受けたほうが良く、するとあと二百万はいる。とても試験の年齢制限の三十歳までに稼げるとは思えなかった。

 アルバイトをするも給料は生活費に消え、だめ元で買っている宝くじも当然当たらない。理由が切実であればあるだけ心も折れそうになる。


 小説の新人賞も賞金目当てなんて不純な理由だけで取ろうと思ってほいほい取れるはずもなく、本気で小説家を目指している人々を想うと自分のしていることは潔くないように思われた。

 手術が間に合い男性として採用されても、警察学校に在籍して最初の一カ月は基本的に外出許可が取れないというが本当であれば、別の問題が首をもたげてくる。ホルモン注射を受けるには通院が必要だからだ。通院を避けるため錠剤や塗布タイプの薬を使うにせよ持ち込み可能なものに含まれるかは怪しく、うっかりしまい忘れでもしたら正体を同期の人間に知られてしまう恐れもあった。

 筋力だけなら努力で幾分か補えたとして上背ばかりはどうしようもなく、正体が知れてしまえば戸籍変更の有無にかかわらず普通の男性としての生活は保障されなくなる。


 逃げては何にもならないと夢に向き合うたび困難の大きさを改めて知る。

 目が覚めてオスになっている奇跡を起こすか諦めて女警にならない限りは絶望的だ。

 十七のときに自分をおそった挫折が再び迫っている。しかも今度は進学のように撤退の体裁を取った遁走は許されない。

 愁士朗は泣き出す前に考えるのをやめようとした。まだ終わったわけではない。百パーセントなどと言い切れるものは存在しない。耐えて粘れば勝機はあると信じたかった。


「ところでさ。お前のほうから飲もうなんて珍しいじゃん。なんかあったのか」


 すると今度は能勢が泣きそうな顔になった。


「父さんの一周忌。おばさんが帰って来いって言うんだ」

「いつ」

「十月」


 まだ半年も先だ。それを今から凹んでいるのか。愁士朗はぼんやりと十月の自分を想像したが、漠然と奇跡でも起きてオスになっているかもしれないと思うに留まった。それよりも頭に引っかかった単語がある。


「おばさんって、あの」


 能勢は力なく頷いた。愁士朗は机の下で強く拳を握った。

 愁士朗と能勢の共通点は年齢や男ということ、刑事を夢見ていたことだけではない。

 二人には生まれてすぐに死んだ姉がいる。そして、二人ともその死んだ姉のかわりに当初の家族計画を無視してこの世にひねり出された。死んだ者がなければ生まれてくることさえなく、また死んだ姉の名を由来にした名前を与えられた。そうして生まれた家は、どちらの場合も心安らげるとは言い難い場所だった。


 愁士朗は自分が生まれた「奇跡」をどうしても美談にはできなかった。自分がトランスだからかと悩んだ時期もあったが、そうでもない気がする。

 能勢も同様らしい。だからこそ実の母を「おばさん」などと呼ぶ。

 なんとなく、理解できる気がした。

 実際「おばさん」と呼ぶとき能勢の声は驚くほど穏やかだった。

 そんな能勢があからさまに落ち込んでいるということは相当まずい事情があるに違いなかった。


「無理に帰ってやんなくたっていいだろ」


 愁士朗は、能勢の肩に触れた。能勢はわずかに震えていた。

 おそらく能勢は親の暴力による報復を怖れていると推察できた。その心情はおおいに理解できるし、体力的に喧嘩をすれば自分が親に勝てるように成長したってそういう問題ではないのも理解している。簡単に親か自分を切り捨てられるのなら、わざわざ半年も前から頭を抱える必要もない。

 能勢の場合、親を傷害で捕まえてやろうとすれば一般人より手順が解っていそうなものだが、おそらく彼にはできないだろう。愁士朗は自分で切りそろえた短い髪を乱雑に掻きあげた。


「僕は、姉さんになるべきだった」

「んな訳ねえだろ」

「客観的には間違ってるって解る。でも」


 愁士朗は黙って次の言葉を待った。


「僕が生まれてきたのが悪かったというのか。所詮人間なんて生まれが全てだっていうのかね」

「辛いなら無理するなよ」

「何が辛いって言うんだ。人はどうせ死ぬ」

「嘘つくなよ。お前、辛いときなんか昭和みたいになるもん」


 能勢は泣きそうな顔のまま壁を見つめていた。それからがっくりと机に突っ伏した。


「何か事件でも起こって帰れなくなればいい。そんなことは願うべきでないのに。それに最近になって父さんが僕を殴るのを思い出す。暴力をふるったのはおばさんだけだったはずなのに。それだって高卒までは養ってくれていて、信じない僕が悪いのか」

「ああ、もう。今日は飲んじまおうぜ」


 愁士朗は店員を呼びつけてビールの追加を頼んだ。実際、人間は生まれが全てだと思う。本人に責任がなくても一度落ちてしまったら二度と這い上がれない。そういった致命的な欠陥は確かに存在する。

 それでも。

 こんな悲しい答えに行き着くのは自分だけでいい。能勢まで同じ地獄に居てくれと願う資格はない。

 ビールを飲み込んだ。すぐにげっぷが出た。


「にげえ」

「おばさんは、十四の年に僕を襲った」


 顔を上げた能勢は、驚くほどに無表情だった。愁士朗は一度ジョッキを置く。高校入学後すぐに出会ってから一度もきいたことのない話だ。襲う、というのはそういう意味ととらえて良いのか。


「あれから僕は役立たずになったんだ」


 愁士朗は真面目な顔のまま能勢を見ていた。が。内心で能勢がこの話を打ち明けたのは信頼からか、愁士朗もオスとしては不能であると判断した故なのかと迷わずにはいられなかった。能勢も、それ以上は何も語らない。友人の苦痛を知り、それでいて同じ不能でもトランスよりはマシだろうと考えた自身を否定できなかった。


「年号、変わるな」

「ん。でも、何が変わるんだろう。相変わらず苦痛はあるし、人は死ぬ。犯罪もあって、でもやる側にも理由があるんだ」

「どうだろうな」


 動物は生きるのに必死だ。罪を憎んで人を憎まずなんていうけれど、罪を罪と解ってやらかすのは人間くらいだろう。そもそも何を罪とするかというものさし自体人間が作ったものだ。罪を憎むというのは、人を憎むということだ。その点、能勢は甘すぎる。

 愁士朗はふと、自分が死ぬことを考えた。


 おそらく性同一性障害の診断書も役には立たず、女の扱いのまま葬られてしまうだろう。死んだ姉を由来につけられた異性の名前で、姉と同じ墓へ入れられる。いい図体をして一人称が「僕」の友人は自分の所為だと思い込んで苦しむだろう。

 それでも。自分の体で手一杯な自分と対照的に、警察官としての人生や男性としての人生を歩んでいく友人を眺める羽目になるなら死ぬのも悪くないかもしれない。


 能勢だって努力をしているはずだ。それでもなお、いまだ頭の端には「ほぼ同じ境遇でもトランスか否かが明暗を分ける」という考えがこびりついている。この感情が無視できないほどに肥大化してしまう日は必ずやってくると直感していた。

 で、あれば何故距離を置かないのだろう。潔癖ぶったところで半端な自分を見た気がして悔しさと嫌悪感がこみ上げる。

 いい加減、飲みすぎた。


「あーあ。俺、親を殺してえな」


 本心か確認するまもなくぽろっと言葉が出た。


「僕は。僕が姉さんを殺した犯人になりたい」

「どうしてさ」

「そうしたら、この人生も天罰になる」


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