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  作者: 桂田武史
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九章 十字


 朝礼の途中、近藤は屋上でおやと思った。能勢のあの不健康そうな長身が、今日は見当たらない。


「では、本日も」


 きょろきょろと首を動かすわけにもいかず、それでいて禿げ上がった署長の額を眺めているほうが落ち着かない。もぞもぞとしていたら叱責された。とりあえず近藤は、はいと威勢だけはよく返事をした。良くない予感が頭を占拠する。能勢の凍りついた昏い瞳を思い出し身震いした。


 朝礼が終わってすぐ、近藤は馬場を捕まえた。近藤が能勢の名前を出した途端に彼女は解りやすく動揺した。二人の間に何があったと馬鹿正直に斬り込むのはあまりに無神経と思われたが、他にどうしようもない。かえって半端な沈黙が変な空気にしたのだと内心で吐き捨てた。

 馬場は平静よりも瞳を大きく見開き近藤を見た。彼女は弱い声でただ、能勢を今朝方病院の前に送り届けたとだけ言った。


「それだけか」


 平淡な声は、近藤のものではない。いつの間にか現れた能勢が口許に卑屈な笑みを浮かべて立っていた。端整な顔つきが、かえって深い陰をつくっているように思えた。近藤は先輩でありながらじりと後退しかけた自分に焦り、能勢を睨みつけた。能勢の歪みは目に見えて増大する。


「そんなに私を病人の置物にしたいかね」


 怒気を感じられない声。先輩である自分に向けられた言葉遣いとも思えず、また昏くも純粋と思っていた能勢の言葉とも信じられなかった。近藤は立ち止まったまま阿呆のように口をあけていた。衝撃を受けたのは近藤だけではなかったらしい。隣にいた馬場が壁に凭れかかり頭を抱えていた。


「彼、自分のことを私と言ったわ。僕じゃないの」


 近藤はどうしていいのか解らなくなった。能勢があの図体で僕というなんて想像もできない。それに心の片隅で能勢には馬場に何かするような度胸はないだろうと高を括っていた。それが、どうにもそうではないらしい。

 近藤は動けない。

 この妙な空気を作り出した犯人は、珈琲の缶をゴミ箱へ投げ入れ廊下の角へ消えた。近藤は事件の知らせが入るまで呆然と立ち尽くしていた。



 現着した時、すでに遺体は運び出されていた。近藤は車窓から顔を出し現場の廃ビルを見る。男の死体が一つ。現状では自殺とも他殺ともとれる、とのことだ。機捜が引き上げてくるのが見える。近藤は後部座席の能勢に行くぞと言った。後部座席の能勢は、動かない。

 近藤は身体を捻り、能勢のほうを見た。


「…………」


 能勢は小声で何かつぶやき、自分で髪を引き抜いていた。近藤は固まる。恐怖が背中を這い上がった。これを何もなかったことにしていいのか。車内で待機させ、仕事も辞めさせたほうがいいかもしれない。しかし。車内に放置している間に何かやらかさないとも限らない。


「おい、能勢」

「……近藤、さん」

「行くぞ」


 結局、見なかったことにして車をおりる。落ち着こうと顔を上へ向けてみた。そうしたら不気味な廃ビルにかえって不安にさせられた。


「まったく大晦日に。にしても。こりゃあ、先に死体を棄てたやつが一人くらいいても驚かんなあ」


 にんまりとしてあごを撫でている石倉をにらみつけた。しかし近藤も全くの同意見だ。行政やら何やらにも都合というものがあるのだろうが、それにしたってこんな建物を残しておくとは。逃亡犯の居城、薬物売買の現場、などと言われたら納得してしまう。


 むき出しになったセメントの壁を眺めていたら、足元に冷たいものが跳ねた。雨漏りだ。近藤はひっと小さく悲鳴をあげた自分が俄かに恥ずかしくなり周囲を確認した。そして蒼くなった。

 能勢が、いない。

 慌てて外へ出ると、屋上を見つめている能勢が目に入った。近藤が声をかけても反応がない。近藤は半ば腹を立て、能勢の肩を掴んだ。


「近藤さん。屋上のさくが壊れているんです」

「ああ、それくらい俺も気付いていた」


 近藤は鼻の頭を掻いた。能勢がこちらを見る様子はない。慌てて付け加えた。


「まあ、それにもう機捜が発見しているはずさ」


 すると、能勢がゆっくりとこちらを見た。少し開いた口許にぞっとしない微笑が張り付いている。近藤は半歩退いた。能勢の昏い瞳がゆっくりと細まっていく。やめてくれ、とは言えず近藤はポケットに手を突っ込み、中でハンカチをこねくり回した。


「まあ、あれだ。今からその屋上を見に行くぞ」


 近藤は能勢にフットカバーを投げてやった。能勢は右足に装着するのに手間取っている様子だ。手伝ってやりながら、ふと考える。


 足の不自由な能勢と結婚する人があれば苦労するだろう。まして能勢は背が高い。倒れでもしたら介護にはとんでもない力が要るだろう。おまけに、精神的にいかれている。ここで馬場の顔が浮かび、近藤は腐った。馬場を射止めるのは自分のはずだ。馬場のほうからその気になるように仕向ければ、なにも後輩から奪ったことにはならない。それに、いつ馬場が能勢のものになっただろう。これと先輩であることとは全く別の問題なはずだ。


 二人は非常線をくぐり、歩行帯の上で腕を組んでいる石倉の横を通り抜けた。屋上への階段は見た目よりもろくない。コードの出た監視カメラはひび割れ、どう見ても死んでいた。

 錆び付いたドアを開け、屋上へ出る。空が高く蒼かった。昨夜の雪は殆どが溶け冷えた空気だけが残っている。ここが事件現場なんかでなければ、そして隣に能勢なんかがいなければ実に良い気分だったろう。と、近藤は変な顔をした。能勢をここまで連れてきたのは自分だ。

 能勢は西側の端に立ち、下を覗いていた。近藤ははっきりと彼を突き落とす想像をしたことに気付き、軽く頭を振る。


「どうだ」

「ただの劣化みたいです。断面が錆びていますから。もう一箇所、北側も同様でした」

「そうか。やはり自殺か。こんな暗い路地に」


「いえ、他殺でしょう。その、被害者の持ち物にスマホはなかったんですよね。最期まで誰かに止めてもらいたかったりしないものかと。すると西の路地に飛んだのも変です。北から飛べば人々のいる街が見えるのに」

「根拠はそれだけか」

「すみません。ただ私だったらそうするのにと思っただけです」


 近藤の中で、能勢の仮説が妙な説得力を持ち始めた。車の中で茫洋と引き抜いた自らの髪を眺めていた様子を思い出した。何か呟きかけたような形のまま固まった口許も。


『その子供には、足がない』


 近藤は身震いし、ふらふらと階段を降りた。そこに、石倉が声をかけてくる。「どうだい」という短い言葉が頭の中でぐるぐるし、反射的に能勢がいないことを確認していた。


「自分は他殺と考えております。何故なら」

 本当は能勢の意見、とは言えなかった。

「へえ。鋭いじゃあないか」


 微笑した石倉に背筋が冷えた。



 この日は解散になった。帳場が立っても大丈夫なように服をたたんで紙袋へ入れる。妻が居たときには、ついぞ彼女の苦労を気にかけてやらなかったと後悔した。まして自分は仕事熱心が災いしたような、古いタイプの刑事でもなんでもない。警察官を隠れ蓑に、深く考えず気の向くことをしていた。そんな勤務態度では優秀になんてなる筈もなく。結局自分はヒーローにでもなった気にさせてもらっていただけだった。最近は特に有能な能勢を見ていると自分の無力を痛感して頭を掻きむしりたくなる。


 ……能勢。

 手が止まった。近藤は昼間のことが妙に気にかかった。現場の屋上を眺める能勢の一種恍惚に似た歪みが鮮明によみがえった。たまらず暗い街へ飛び出す。年末の喧騒が不快だった。石倉に電話をかけ強引に彼の住所を聞き出すも、留守だった。


 頭の中に能勢の皮肉な笑みが浮かぶ。それから別れた妻、最後に誰より鮮やかに浮かんだのは馬場の顔だった。途端、近藤は思案する。能勢を気にかけていない訳ではない。彼は可愛い後輩だ。それでも。もし馬場を手に入れんとするならば最も邪魔な相手だ。男は顔じゃないと言っても、実際にそうだろうか。あの顔は反則だと思う。おまけに上背もある。収入についてはまだ自分が勝っているだろうが、職が同じである以上なんとも言いがたい。それに、なんと言っても能勢は若い。あれを相手に自分が勝てるとは思えなかった。もし能勢が自分から居なくなってくれるとしたら有難い話ではないのか。だが、あれだけ有能な能勢が一年で配転になるだろうか。と、すれば。

 能勢がいなくなるというのは、死んでくれと願うということなのか。


 自分でも否定できなかった。

 近藤は頭から黒い願望を追い払おうとした。しかし。能勢が休み時間、トイレで吐いていることは知っている。昼の車内を思い出した。あれは、病気だ。

 さらに、屋上での様子を思い出した。存外、能勢は死にたがっているのではないか。ならば近藤が止めても無駄だろう。そもそも止める資格なんてものがあるのだろうか。そのほうがこちらにとっても都合がいい。


 いや、違う。近藤は乱雑に髪を掻きあげた。自分は先輩で、能勢は後輩。死なせていいはずがない。確かに能勢は異常だ。なにか不味い状態にあるのは間違いない。先輩ならばはやくこれを捕まえ引きずってでも医者へ連れて行く義務がある。そうだろう。近藤は大きく頷いた。もしかしたら能勢は昼の廃ビルに向かったのかもしれない。近藤は人波に逆行し走った。


 大通りをはずれ、セブンの角を曲がったところで馬場に出会った。

 途端に先ほどまでの決意は吹き飛んだ。何も能勢が今から自殺をするなんて誰が決めただろう。そう思い込んでいること自体が失礼ではないか。


「こんなところで。奇遇ですね」

「あら、近藤さん。丁度良かったわ。ねえ、能勢さん見なかった。電話もつながらないの」


 近藤は曖昧な笑みを浮かべた。またあいつかと舌打ちしたくなった。ポケットに手を突っ込みしどろもどろになりかける自分が情けない。ポケットの中にスマホがあることに気付いたが、いくら馬場のためでも能勢なんかに電話しようとは思えなかった。能勢を探していることも黙っていよう。能勢を見てはいないのだから知らないと言ったところで何も疚しいことはないはずだ。


「さあ。今日は俺のほうが先にあがったからなあ。まだ署に居るんじゃないか。そうでもなければ買い物にでも行ってるのかもしらん。一人暮らしだからな」


 それから何故能勢が家にいない前提で喋っているのかと焦って付け加えた。


「もう家は見てきたか。一人暮らしだとすることもなくてテレビを見たりするからな」


 すると、今度は喋りすぎている気がして落ち着かない。馬場のほうを確認すると彼女はあごに手を当てて静かに聴いていた。それから近藤が完全に黙るのを待ったのか、間をおいて居なかったと答えた。胸の奥にくさくさと刺さるものがある。馬場は能勢の家を知っているが、近藤の家は知らない。さらに。馬場は今自分と喋っているのに、目の前にはいない能勢のことを気にしている。


「急いでいるの。ごめんなさいね」


 近藤は慌てて馬場の手を掴んだ。


「何をそんなに。あいつだって大人なんだ」

「彼、自分のことを大切にしないの。本当はちゃんと休ませたほうがいいんだわ。それなのに私ちゃんと彼が受診するのを見届けなかった。嫌われたくなかったのね」


 馬場が、泣いている。可哀想なくらいに取り乱している。彼女をこんなに苦しめているのは能勢だ。腹が立った。


「俺も探そう。心配になってきたからな」

「ありがとう」


 近藤はちゃっかり馬場を抱き寄せた。いいにおいがする。馬場はびくっと身を硬くした。戸惑った顔まで美しい。馬場はもぞもぞと身体をひねっているが近藤の鍛え上げた筋肉の前では意味を成さないようだ。

 その時。後ろのセブンから能勢が出てきた。能勢はこちらに気付いていた。近藤は自分の中に罪悪感と同時に勝ち誇ったような喜びがふつふつと湧き上がるのを実感した。


「能勢さん」


 馬場が大きな声を出した。能勢は僅かに目を見開いたようだった。何も言わず立ち止まると、一度ゆっくりと目を閉じた。近藤は、かける言葉を探した。しかしこういう場合、中途半端に何か言えば墓穴を掘ることにならないか。

 近藤は馬場を抱きかかえたまま能勢を凝視する。彼は大きく息を吐き出すとのそのそと立ち去ってしまった。


「私の思いすごしかしら」


 馬場が震えた声で言った。酷く早口だ。近藤がふと力を抜いた瞬間、さりげなく近藤の腕を払っていた。


「そうだろう」


 近藤はもう一度抱きつきたいのを堪える。このまま引き下がりたくない。能勢の去ったほうへ馬場が行かないように分厚い身体で行く手をふさいだ。


「それよりこの後は何か用事はありますか」

「いいえ。でも今日はもう遅いわ」

「でしたら送らせてください。こうも人が多いと色々危険だ」

「気にしないで」

「まあ、遠慮せずに」


 しばらくの間をおいて、馬場は何も言わず足早に歩き出した。近藤はそっと半歩前を行く馬場の手を捕まえる。気にかかっていた能勢の生存確認もできたことだし、もう良さそうだ。安心した。一方で、少し残念とも思った。近藤は慌てて考えを追い払った。

 そんなことより。馬場を送っていくということは彼女の住居付近、運がよければ住居の前まで行けるということにならないか。一線を越えてはいけないし、住居を知ったからといってすぐさま何かあるわけでもないのだが妙に高鳴るものがある。近藤はネクタイを正した。



 十分ほど歩いたときだったか。近藤はふと足を止めた。あたりが騒がしい。先刻までの喧騒ともまた違った様子だった。近藤と馬場は申し合わせたように騒がしいほうへ歩き始めた。額に汗が出る。早まった鼓動が不快だった。


 街中を行くうちに、誰かが飛び降りたのだという話が聞こえてきた。頭にがんとした衝撃が走った。能勢だと直感する。瞬間、体中から冷えた汗が噴出した。死体を確認したわけではないと言い訳するも叶わなかった。

 近藤は震えながらも昼のビルへ向かう足を呪った。

 人だかりのあるビルは、確かに昼の現場だった。


 近藤は馬場の手を掴んだまま人混みを押しのけて前へ出た。現場でなれた鉄くさいにおいがする。失策に気付いたときにはもう遅かった。馬場が短く悲鳴を上げた。

 血溜りで宙を仰いでいるのは、確かに能勢だった。隣で震える馬場はどうやら能勢を下の名で呼んだらしかった。馬場の声を聞いたからなのか、能勢の首がずるりとこちらを向く。口許にはぞっとしない笑みが張り付いていた。


 近藤は今にも崩れ落ちそうな馬場を抱きかかえた。目の前で能勢は幾度か身体をぴくつかせ、終には動かなくなった。

 あの昏い瞳が無感動に二人を見つめていた。


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