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  作者: 桂田武史
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序章 黒瞳


「仕方がなかったんだ。あいつがいたら俺は幸せになれない。こうするしか」


 近藤は机をがんと叩き、目の前に居る男をにらみつけた。男は身じろぎもせず、真顔のままこちらをみていた。太いやや尻上がりの眉。細いあごの上で薄い唇が静かに閉ざされていた。整った顔つきがかえって余計な殺気を生んでいるのかもしれない。

 最も異様なのは黒すぎる瞳だった。丸い形も下がった目じりも台無しにして鋭い、と言うしかない。眼が合った瞬間、近藤は慌てて付け加えた。


「あいつは父親なんかじゃない。あんな男は死んで当然だったんだ」


 男は、動かない。かといって、こういう置物だと言われても納得できない迫力があった。


「もう、休憩にしよう」


 近藤は声が震えないよう気をつけながら言った。動かない男より先に立ち上がり、額の汗を拭う。男、能勢が二十一歳の若さで何故一係に配属されてきたか解った気がした。

 これから先この取調室で能勢に出くわすこととなる、まだ見ぬ被疑者たちに俄かに同情した。たまたまとはいえ、とんでもない後輩を任されたものだとため息を吐く。これから当面はこの練習に付き合わなければならんと思うと気が滅入る。


 能勢という男は、愛想こそないが存外平凡かもしれなかった。職場の人間は怖がって近付きもしないが、それ故か近藤には懐いた様子だった。近藤が指示をすることならば能勢は従う。近藤には、それが素直に嬉しかった。自分だけが野生の臆病な獣を飼いならしている優越を得た気がした。これなら後輩というのも悪いものではない。周りの人間が能勢を「根暗」「若さがない」と言うのもさして気にならなかった。むしろ能勢の面倒を見るほどに周囲から妙な同情をされ「親切な人」という肩書きが出来上がっていくのは嬉しい誤算だった。


「そいつはまだ置いておけ」


 声をかけると能勢は素直に資料を手放した。同僚たちが、こちらの様子をうかがっている。


「飯、食わんか」


 近藤は能勢の隣に腰を下ろし、少し笑って見せた。


「いいえ私は」


 能勢はもごもごとした口調で答える。いいえ私は、とくれば続きは「食べません」なのだろうが近藤は気にしなかった。

 コンビニの照り焼きチキンサンドを取り出す。一つを手に取ると、もう一つは能勢のデスクに置いてやった。


「デスク、もう少し片付けたほうがいい。そのほうが頭もすっきりするからな。それにしても、だ。外はすっかり改元ムード一色だったぞ」


 近藤はついでに飴玉をとりだし、いくつか「平成」の文字が見えるように並べてみた。能勢が一度飴玉を見つめ、照り焼きチキンサンドを経由して近藤の顔を見る。近藤はにこりとし「次は何になると思う」と言ってみたが、能勢は「見当もつきません」と小声で言い、さっさとパソコン作業に戻ってしまった。


 近藤はため息を吐き、照り焼きチキンサンドを回収する。それから少し迷って、飴玉を掴むと能勢のポケットへ突っ込んだ。能勢は一瞬こちらを向き、ぺこりと頭を下げた。

 昼の時間になれば、廊下を事務員たちが通る。仕事をしているとお茶をくれることもあった。

 突如、能勢が作業の手を止め背筋を伸ばした。何事かと近藤も背を伸ばす。それからすぐ、茶を運んできた馬場茉莉花に気付いた。黒髪ですらりと背の高い女だ。それでいて決して貧相な体つきではない。声もまたほどよい高さで優しく、所作もしなやかだった。


 隣の能勢をちらりと見れば、彼は生真面目な顔のままパソコンで「あ」を大量生産している。

 近藤はにわかに彼が気の毒になってきた。今のところ馬場に告白して良い返事をもらった男は誰も居ない。彼女は男に興味がないのではと噂されているくらいだ。


「今夜飲まんか」


 近藤はばしっと能勢の肩を叩いた。予想よりも大きな音がする。せっせと鍛えた筋肉が原因かもしれないと思うと能勢には申し訳ないが誇らしかった。

 能勢は静かに立ち上がり、何も言わないまま部屋を出て行った。右足を少し引きずっていた。近藤は追わない。追ってやる義務があるとも思えなかった。かわりに入れ違いで現れた班長の石倉をつかまえた。


「班長。能勢は足が悪いんですか」


 石倉は腕を組んで黙り込んだ。


「班長」

「……別れた奥さんに刺された後遺症だそうだ」


 近藤は思わず身震いした。本人に訊かなくて良かった。また、別れた自分の妻の顔を思い出して変な顔をした。幼い娘にも、しばらく会っていない。


 一日非番を挟んで、近藤は事件現場にいた。通報から時間が経ち、遺体も運び出されたにも関わらず野次馬が減る気配はなかった。雨だというのにご苦労なことだ。一番に現着してしまったばかりに彼らの対応を任された制服警官の顔にはそろそろ疲労が見える。久々にデスクワークから解放というわけだが喜ぶ気にはなれなかった。ブルーシートの外へ抜けヘアキャップを外した後も血の臭いが鼻から消えてくれない。近藤は一般人に背を向けているのをいいことに、露骨に表情を歪めた。こればかりは慣れるものではなく、また慣れてしまうかもしれないと想像する自分がおぞましくもあった。


 一方、隣の能勢は腹が立つほどにけろりとしていた。先刻、遺体を前にしたときも無表情のまま見下ろし、嫌悪というものを示さなかった。死者への敬意かとも考えたが、どうもそういう様子でもなさそうだった。

 能勢の目は昏いまま、静かに揺れている。


「少し休まんか」


 近藤は額の汗を拭うふりをして軽く頭を押さえると、振り返って言った。能勢は無言で頷いた。

 非常線の外へ出る。自販機で温かい茶を買うが飲む気にはなれなかった。何か買ってやると言うと能勢は珈琲を選んだ。


「渋いな。ところで遺体を見るのは初めてだろう。辛くはないか」

「いいえ」


 能勢は珈琲を一息に飲み干した。


「雨で血が薄まるのを見ていました。私の父も轢かれて死にましたし初めてではありません。平気です」

「その、すまん」

「何故ですか。父は棺桶に入ってきれいにしてありました」

「そういうことではない」


 近藤は慌ててお茶を口に含んだ。能勢がふざけているようには見えない。さりげなく視線を逸らした。いよいよ頭痛が増した気がする。彼の不気味が生まれ持った性格でなく何かしら後天的理由を有していることを願うばかりだ。


「先輩、私たちはこれから動くんですか」

「いや、まだ待機だ」


 非常線の向こうから石倉がやってきた。彼は現場にスマホを向ける集団を睨みつけ、ヘアキャップを地面にたたきつけるとパトカーのボンネットに腰をおろした。


「班長。どうしますか」

「お前は能勢を連れて先に戻るんだ」

「班長は戻らないんですか」


 石倉は顔を上げ野次馬のほうをちらりと見た。


「馬鹿を言っちゃあいかんよ。ケツがびしゃびしゃでしばらく動けん」



          *



 馬場は、署の入り口付近を歩いていた。再生可能な紙の置き場はゴミ捨て場より少し遠い。今は紙束を置きに行った帰りだった。


 ふと外を見るとかなり強い雨が降っている。この空の様子なら雷がなり始めるかもしれない。馬場はなんとなく能勢のことを考えていた。彼はこの四月に交番組から異動してきた。当初は同僚も黄色い声をあげていたが、たった半月で嫌われ者になった。彼が何か重大なことをやらかしたというより、見た目ゆえに期待値が高かったのがいけないのかもしれない。少なくとも女性事務員たちの間では交通課のセクハラ係長や地域課の無気力忖度課長よりも酷い言われようだった。


 馬場はというと、能勢のことは嫌いでなかった。むしろ好きとも言える。挨拶をしてももそもそと何か呟く程度で顔を合わせようともしてくれないのに不思議だ。数日前の彼のパソコンを思い出し、クスリと笑った。


『被疑者 あああああああああああああ』


 あれも資料作成の練習か何かだろうか。今日の昼に覗いたとき彼の姿はなかった。班ごと不在だったから事件なのだろうが、どうにも残念だ。

 仕事場に戻ろうとしたとき。外からずぶ濡れで駆け込んでくる近藤と能勢が見えた。馬場は迷わず二人に声をかける。


「すぐタオル持ってきますね」


 仕事場から見ていた同僚が後ろにやってきて言った。


「近藤さん狙いなの。彼、親切だものね」

「そうじゃないわ」

「じゃ、もしかして根暗のほう」

「やめて、そんな言い方」

「だってそうじゃない。あんなうどの大木。顔だけの男なんてやめたほうがいいわ。まして刑事なんて。数年後には不規則な仕事が祟ってどうせみんな豚みたいになるんだから」


 馬場は会話を続けるのも馬鹿らしくなった。タオルをひっつかみ走る。「刑事たち」よりもよっぽど豚に似た体形の同僚を引き離すのは容易だった。

 馬場はタオルを頭からかぶってもそもそと顔を拭いている能勢を見つめていた。やはり、彼は亡くなった弟にどこか似ている。


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[良い点] 刑事モノのプロローグとして申し分ない雰囲気です。 署内と現場と対比、主要な登場人物の立場がクリアに浮かび上がりました。 [気になる点] 前半部が取り調べの練習であることをもう少し丁寧に読…
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