閑話5
目の前に、何だかもうよく分からない塊がある。
そしてそれは微妙に動いている。
「おい、聞こえているよな?」
あ、大きく動いた。
「んじゃ、行くぞ」
ニックさんがバットを体に芯が通った様ないい構えで振りかぶる。
「またベースボールじゃ使えねぇ宴会芸を出すと思わなかったんだけどよ。外側だけホームラーン!」
バットがその塊にぶち当ると、ベリィと音がなって中身が下から少し見えた。
「『吹き飛べ』だから、なんで私だけこうなるのだ!」
続いて風魔術で剥がれた塊を吹き飛ばし、全身真っ青な外見のルノさんがそこから出てきた。
「いや、無事でよかったですよ。あの鮫に食われて出てこなかったじゃないですか」
「全く、変な粘液に纏われて固まった。とっさに顔を手で覆わなかったら窒息しとるぞ!」
そう目の前にはあの巨大鮫。
牛が飼われていた牧場にあった巨大な石碑が倒されて配合飼料の中を泳ぐ鮫が出現した世界に転移した僕たち。
そこで出現した異形はそこにいた牛と協力して排除したら牛たちが去っていって、本当は牛たちが戦うはずだったかもしれない巨大鮫と僕たちが対峙することになってしまった。
今回の異形がそこまで脅威ではなかったのを取り返すかのように、巨大鮫は大暴れして仕留める寸前にルノさんを飲み込んだ。
ルノさんが散々魔術で抵抗しているのにも関わらず腹の中に飲み込んだのだからとんでもない存在だった。
腹を裂いてルノさんと思しき物体が先の塊だったのだ。
「それよりも大丈夫ですか? 結構怪我してますよ」
「ああ、くそう。私が怪我をするのは昔からよくあるが。かくも何度も残骸だらけの腹の中で撹拌されたら怪我もする。まだまだよくわからん世界を転移しつづけねばならんと言うのに。全くついとらん!」
ルノさんが立とうとした時だった。
「ぐむ?」
不意によろけ、尻もちをついた。
「しまったな」
ルノさんの青い厚手のドレスに赤い染みが付いている。
そしてそれはどんどん大きくなっていった。
「えーと、とりあえず応急処置します! 包帯とガーゼと……内ポケットにルノさんの国から貰って来た傷薬が確か……」
ルノさんは動じない風で足の根元の血管を抑え、止血しようとしている。
でもマズい。これ医者じゃないと……。
見る見る赤い染みが大きくなっている。デカめの動脈を切ったか?
「よし、ルノ。そのままジッとしていてくれ」
ニックさんが再びバットを構えた。
…………動けない。動けない?
え、なんで?
内ポケットに入れた手も、牛用に敷かれたおが屑に立っている足も、首も動かない。呼吸までできない。
これはなんだ? 威圧? 催眠? ……魔術?
僕の体が、全く動かせず止まっている。
ニックさんが何かやった?
ただ世界は突然静かになってニックさんのバットが目の前を通った。
そして、ルノさんの頭部を殴打した。
え?
「よし、上手くいった!」
「『燃え上がれ』 いきなり何をするのだ! 君は!!!!」
最高潮のキャンプファイヤーの如く一気に炎上するニックさん。
「ぐわ! シャレにならねぇよ! この炎はよ!」
地面をレースカーのタイヤレベルの超高速で転げて火を消したニックさん。
やっぱこの人も人間離れしてる。
「なんでこんな火ダルマで平然としやがってる奴がいるんだ!」
「そのマールーより突飛な行動をした君が悪いのだが?」
「怪我が治っただろ?!」
え?
「む?」
軽くすっくと立つルノさん。
「昔コーチから言われたんだけどよ。自分の中に何かを蓄積させると、推測できるんだと。で、それは名前をつけられるんだ。
今、ルノを見てちょっとわかった。
それをバッティングで薄めたんだよ」
ルノさんのドレスの染みはそれ以上大きくならなかった。
「ふむ」
そう言うと、ルノさんは自分のさっきまで大出血していた足に触れ、続いてバッティングされた頭をなでる。
「まず足のケガは熟練の治療魔術でも難しい程瞬時に完治し、バットで強かに打撃されたはずの頭も異常は感じられん。痛みさえない。
信じられんな。
では、ニック。今の話によるとだ。君は私が何を蓄積していたと感じたのかな?
少なくとも私の世界においてはありえない事をやってのけた。
それも魔術の類を使えん君がだ」
「俺も完全にはわかってねぇんだけどよ。
俺は前怪我をバットで打つ事はできねぇって言ったよな」
そういや、言ってたかも。
「でも俺のチームのバッテイングコーチはできるんだ。バットで嘘みてぇに怪我を治しているのを何度も見た。
蓄積された物で悪いヤツをバットで打ったんだ。それだけを打つ事ができれば、痛みも怪我もねぇんだ。でもって、むしろダメージが回復するんだ。
多分、今俺がバッテイングしたのはルノの緊張だ。
なんか、物凄くそれがあるのを感じたんだ」
緊張?
え、全平行世界一そういうのに縁がなさそうな、ありえない不運の塊かつ強行突破至上主義で滅茶苦茶な経歴のメンタルお化けの芋食い虫食い悪食魔王様が?
「ヒトシ」
ゴン!
「口から思考が漏れてる! 何を考えとるのだ!」
「つか、ルノさんの拳骨、硬すぎません?」
「日常的に岩石を殴りつけて体の鍛錬をしているのでね。ストゥの型動作と共にね」
ストゥって、ルノさんの棒術か。
魔術師とは思えない鍛錬だよ。
「何で火とか自在に出せんのに拳鍛えてやがんだよ」
「私の世界の魔術は体力を使うのでね。体は魔術師である限り鍛えねばならん。そして私の様についとらん者は体以外の全ての攻撃手段をなくした時を想定せねばならんのだよ。
お陰で、こやつに飲まれても生還できるのだ」
「それはさておき。
ではニック。
私の緊張が怪我の要因だった、と言う事かな?
自覚はなかったが、それが蓄積され名前を付けられるほどに」
「そうだと思うんだ。
俺らベースボーラーは第一線にいればいる程命が掛かって来る。それでどっかこっか凝り固まるんだよ。
それと、出会ってからずっと命掛けだろ」
……そうだ、そうだった。
激しく環境が変わり続け、異形と戦い続けているんだ。
何て言うか、忘れてた。
「全く……疲労も緊張かね」
「そりゃそうだろ。俺らみてぇなバケモンとは違げぇんだ。いや、俺らでさえも緊張にやられるんだ。
ルノやヒトシは余計にそうじゃねぇのかよ」
「魔王である私を差し置いて自らをバケモンと称するのは感心せんよ。
君は、君の世界においても珍しい存在であってもね。
そう言った苦難を乗り越えし存在は、全ての世界において強いて言えばディアスくらいだ。
“重き荷を下ろし、我は迷いに導きしものを根絶やしにせし者なり”
その知らず内に蓄積してしまった緊張がこの旅の天敵かもしれんな」
「“自己を難所から救い出せ”ってところか」
「まさにそれだよ」
ちょっと聞いておこう。
「ニックさん、僕の場合はその緊張とかあると思いますか?」
あのルノさんが緊張が原因で怪我をしてしまったのなら、僕だってそうなる可能性はある。
ダメ女神から貰ってしまった能力が意味不明な補助があるにしても。
「いや、特には感じねぇ」
「私に緊張があるのなら、ヒトシにもありそうなものだがね」
「それだけどよ。
自分だけでなく相手の状態を察知できるベースボーラーはいるんだ。
下手に緊張や疲れとかを察知されたらそこを漬け込まれるから、それは間違いねぇんだけどよ。
俺はそこまで相手の状態を察知できねぇんだよ」
え?
「それじゃ、ルノさんの頭にバットをフルスイングでぶち当てたのって」
「なんかちょうどいい所にボールが来たからバットを振るったみてぇなもんだ」
「『燃え上がれ』」
うわ! 再びニックさんがキャンプファイヤー状態に!
「怪我が治ったんだからいいじゃねぇかよ!」
最高回転のF1カーの車輪以上の速度で転げまわりながらそう叫ぶニックさん。
な、なかなか消えないな。今回は。
「一か八か過ぎるだろうが! 下手したら君の攻撃で私の頭蓋が砕けていたのではないかな!?」
「いや、行ける気がしてならなかったんだけどよ! いつもそう言う時は最高のホームランが打てんだ!」
「殺されるつもりはないのだよ!」
「殺す気はねぇよ!」
「わかるか! 限度を超えておるわ!」
こうして、ニックさんの消火には少し時間がかかった。
てか、ああいう火だるま状態って呼吸できないって聞くけど、ニックさんはなんで話せるのだろうか?
「肺活量がハンパねぇからしゃべれんだ。息は吸えねぇよ。肺が火傷しちまう」
「そういう問題なんですか?」
「俺らは通常ありえぇバケモンだからよ」
「少しは反省したまえ。ウチのバカ並みに君は頑丈なのだから、それに見合った処罰が必要になるのだ」
「ルノの部下じゃねぇんだから、勘弁してくれよな」
「それはそれとして、そろそろ別な世界に移動しましょうよ」
目の前には髑髏。
この牧場で働いていた人のものだろう。
それが今回、剣が指し示した物だった。
遺体を弄ぶに近い事になるけど、眼窩に剣の柄を引っ掛けた。
その状態で剣を抜く。
いつもの如く、落とし穴に落ちたような感覚を覚える。
すると、目の前に超高速で何かが襲い掛かってきた。




