閑話4
「しかし、厄介だったな。幻覚を見せてくる異形とはね」
「次から次へこれでもかって悪夢を見せられたからよ。目どころか耳も鼻も触感までもバグってきやがった。下手に攻撃したらルノやヒトシに攻撃を当てちまう所だだしよ。感覚を侵してくるピッチャーとの対戦が役に立った。じゃなかったらヤバかった」
「キャプテン・レッドでも難しかったですからね……。ニックさんが一瞬でも幻覚を破ってくれて助かりました」
「そこを突いた訳だが……ニックの威圧は本来幻覚破りのためだったのだな。
それにしても、私がみすぼらしく老さびれ、それを打ち破ったと思ったら、ヘドロの如く体が痛みと共に融解していた。かと思えば蟲やら蛇やらに体が変化していった。危なかったよ。ニックがいなければ危うかった」
「それはそうとよ」
見た事のない、恐ろしい外見の者共が、幻が晴れてもわたしを見据えていました。
ひ……、思わず声のならない悲鳴を上げていますと。
「大丈夫かい? すぐに君を助けたかったが、幻覚に襲われ安全な方向が全くわからなかったのだ。風魔術をもって吹き飛ばすわけにいかなかった。申し訳ない。私たちの戦いに巻き込みたくはなかった」
わたしに、やさしい声をかけて下さり、頭を下げられました。
一番の目上であろう、女の方が。率先して。
「悪かった。怖かっただろ。もう大丈夫だ。あんなモンは絶対現れねぇ。しばらく呼吸に集中していてくれ。そうすりゃ、忘れられる。大丈夫だ」
恐ろし気で大柄な黒い肌の男の方が、またわたしを案じてくれます。
「あの、なんて言えばいいか……。悪い夢を見ただけです。安心してください」
わたしと同じくらいの少年もまた。
このわたしに。
このわたしに。
思わず、わたしの目から大粒の涙がぼろぼろと流れていきます。
ああ、ああ。
いつぶりでしょうか?
あの悪い夢から覚めたばかりとは言え。
わたしを大切にして下さりました。
「ああ、どうしたものか。泣くのも無理はないが……」
「えーと、あった。ルノさんの所からもらってきたガーゼ的なの」
「相変わらず準備いいな、ヒトシ。なあ、大丈夫か。落ち着いてくれよ」
いいえ、違うのです。
「違う、とは?」
あれは悪夢だったのでしょう。なら忘れてしまえます。
ですが、日々受けている折檻と罵倒は現実です。忘れられないのです。
その言葉を聞いたお三方は、なんとも苦いお顔をしておりました。
奥様から、醜い毛虫や汚い豚、ゴキブリと罵られ、ほんのわずかな不手際を見つけてはぶたれています。
奥様はそれはお美しかったのでしょうが、お年を召してその美貌は衰えております。
また旦那様の商売も上手くいっていないようです。
誇り高い奥様にとってそれは許し難いことなのでしょう。
それでまだ若いわたしをいびることで憂さを晴らしているのであります。
この悪夢に遭遇した事で使いから帰るのに遅れてしまいます。
棒を使うのか鞭を使うのか、今どうわたしをぶつのか手ぐすね引いて待ちわびているのでしょう。
それが恐ろしいのです。それで泣いております。
そして皆様のご温情があまりに久しぶりの温もりです。それが大変、大変ありがたいので、
またしても泣いているのです。
「……全く。私の母もかの様な傾向はあるから分かるのだが……。
使っていた奴隷への折檻が行き過ぎていたのでな。
“見よ、粉飾されし体を。其は傷だらけであり汚物が集またりたるだけなり。病に侵され、腐り落ち、脆くも崩れ去り、老さびれて、腐り落ちたる”
そうディアスの言葉を言ったら、激怒されてお互い両手に棒を持っての大喧嘩になった。
それでも続けて言ってしまったのだが。
“投げ捨てられし瓢箪の様に、亡骸の骨の様に、このまま痩せて滅びゆく”
とさらに続け上に
“生まれによりて賢者とならざるものなり。只、行いによりて賢者となりたる”
と言って、母の行為を非難したら以来半ば絶縁してしまった。
他にも多々理由はあるにせよ。
まあそれはさておき、私たちは早々に立ち去らねばならん以上君に何ももたらすことはできん。
だが苦難の中、活路はあるはずだ。耐え忍び整えうるものを整え、見つけ出したまえ。奴隷として売られながら一国の魔王になった者さえいるのだ。
“自己の主は自己なりけり。整えし自らこそが至高の主なり”
これを胸に、耐え忍びたまえ」
青い女の方の言葉でした。
大柄な黒い肌の男の方がおっしゃいます。
「俺はベースボーラー……つってもわかんねぇか。まあ、本気で命を懸けてゲームをやるのが仕事なんだ。
そのゲームの空気に飲まれちまう事がある。さっきの幻覚レベルに精神をやられることさえありやがる。
自分がヤバイと感じたらすぐに呼吸に集中しろ。
お前さんは何も好きな事もやれねぇんだろ。それでも呼吸だけは自由にできる。
呼吸さえできりゃ、自分自身を自由に使えるんだ。
がんばれ。今、生きているんだ。なんとか生き延びろ。生き延びてくれ。
生き延びれなかった奴の分、生き延びてくれ」
黒い男の方の言葉でした。
黒い服の少年は、無言であちこちからわたくしの涙を拭う物を差し出し続けています。
「そろそろ行かねばならん」
青い女の方が言います。
遠くから来た方々は、また更に遠くへ行く道すがらにわたくしに出会ったのでしょう。
ご温情に溢れていても、ここでお引止めする訳にはいきません。
「そうだな。なあ、本気でヤバくなったら、呼吸をちゃんとやるんだ。一秒に一回くらいの細かい呼吸をし続けろ。意外とこれが効果あるんだ。
じゃあ、倒すぞ」
黒い男の方は背負っていた剣を地面に立て、倒しました。
剣は不可思議な軌跡を描き、倒れます。
「って、コイツですか?」
黒い服の少年が、剣が倒れた方向にある蟲を見つけました。
それはこの辺りの水辺で見かける、大きな二つの鋏を持つ、赤い蟲です。
「む、意外に早いな。『沈み込め』」
と青い女の方がそう呟くと、影の中にその蟲の半身が埋まり、その影が晴れると地面に埋まった蟲がいました。
「おら、ちょっと開けろよな」
と、黒い男の方がその蟲を拾い上げ、蟲が全力で閉じているその鋏をこじ開けています。
……力持ちな男の方でも、とてもとても力で開けられるものではないはずなのですが。
その蟲の鋏を無理矢理、剣の柄に挟ませます。
「んじゃ、元気でなぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
「負けるではないようになぁぁぁぁぁ!」
「えーと、それではぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
そう、お三方は地面に落ちるかのように、いなくなったのでした。
手放された蟲は何事もなかったかのように、素早く物陰に隠れ、目の前にはただいつもの光景があるのみでした。
これからわたくしは、帰らねばなりません。
いかに現実離れした悪夢を現で見たとしても、温情のある方々とお会いしたとしても。
見ると、よくよく見ると、ひとついつもと違う光景があったのです。
宝玉があったのです。
吐き出しそうなくらい、七色にも十色にも百色にも見える、蠢く色彩の宝玉が。
それはあの青い女の方が「『飲み込まれろ』」とお言葉のと共に消し去った宝玉でありました。
消し去った宝玉は一抱えほどある大きなものでございましたが、こんな所に小さな宝玉があったのです。
近づき。
わたくしの手が、醜く溶け出します。
近づき。
不意に現れた鏡が、わたくしの顔を醜い頭蓋骨が見える動く死体として表します。
近づき。
わたくしの顔の七つの穴から一斉に蛆が噴き出ます。
それでも近づき、その宝玉を手に取りました。
わたくしの体から発せられた死臭が、蛆で詰まっているはずの鼻を劈きます。
傍らになぜか存在する、鏡はわたくしの顔を腐りゆく螳螂の顔として映し出してきます。
青い女の方も、黒い男の方も、黒い服の少年も。
奥様とお顔を合わせる事が出来たのならば、よかったのでしょう。
何かが変わるかもしれなかったのです。
でもそれはまかりなりません。
この宝玉を手にする事は、やめろ、とは言うでしょう。
ああ。
この宝玉を手にしたわたくしの姿が、一瞬あの青い女の方になりました。
そしてそのお顔は細かい針で穿いた様な、醜い物と変わります。
青い髪のまま少年の顔にもなり、皮膚がずるむけに破け、瞬時に膿が溢れます。
不意に、黒い男の方の顔になり、真っ二つに割れて、形容しがたい粘液があふれ出てきます。
少しづつ、この宝玉の制御の仕方がわかっていったのです。
活路、とはなんでしょうか?
自らを整える、とは何でしょうか?
いつもと違う道を、奥様に折檻される日々において見つけられる気がいたしません。
ただわかってほしい。
奥様にわたくしの苦しみを。




