四十三話 「『飲み込まれろ』」
「『飲み込まれろ』」
目の前にいる青い女が一言呟き、私の体は足元からその言葉通りに地面に飲み込まれていく。
冷たい冷たい地面に。
怒り、嘲り、冷笑。
その女は薄汚い乞食を見るような眼で見下す。
「何よ……、この私が誰だと思っているのよ!! 覚えてらっしゃ……」
「“見よ、粉飾されし体を。其は傷だらけであり汚物が集またりたるだけなり。病に侵され、腐り落ち、脆くも崩れ去り……”」
「何を言って……」
「“老さびれて、腐り落ちたる”」
目の前に鏡を乱暴に置いた。
私が普段、化粧する時に使っている物だ。
それは衝撃と共に砕け、そのひび割れた鏡が私を映し出す。
想像よりはるかに老いた私を。
思わず声を失う。
明らかに私の顔。なのに、なのに、なのに!
「“投げ捨てられし瓢箪の様に”」
萎れて皺だらけの顔が、映し出される。
「“亡骸の骨の様に”」
艶のない白い髪が、鏡に。
「“このまま痩せて滅びゆく”」
死相が描かれた顔をまざまざと見せつけられていく。
「『沈み込め』」
さらに、体が。地面に沈み込んでいく。
一切の抵抗も出来ずに。
体は足元から、腰、胸元、ついには顎先にまで。
地面に沈み込んだ。
目の前に青い女は、腐った卵を見るような嫌悪感と共に見下している。
「私が何をやったのよ!!!」
女は。
「そうか」
と一呼吸。
「うるさい」
と言い。
「『沈み込め』」
私は口元まで地面に沈んだ。
「…………」
もう、呻く事しかできない。一切、まともな言葉を発する事はできない。
辛うじて鼻から呼吸はできる。
地面に転がっている埃が鼻に入りそうになりながら、私は必死に記憶を辿る。
ふーーー! ふーーーー!
豚みたいな鼻息を上げざる得ないこの状況で。
一体何があったのか。
私は高貴だ。
名家に産まれ、高官に嫁ぎ、不自由なく生活できる。
下賤の者共を手足同然に使え、更に劣った奴隷の生死も私の一存で決まる。
そうだ今日は、奴隷の一人を使いに出した。
それが思いの外、戻って来るのが遅かった。
だからいつもの通り、折檻して懲らしめようと、ついでに連座で目についた奴隷を何人か、
棒か鞭で打とうとしていた。
骨を砕いて眠れなくさせてやろうか、血で顔がわからなくなるまで鞭を飛ばそうか、豚みたいな声を挙げるまで殴ろうか、そんな事を考えながら、私の美しい爪を手入れさせながら待っていたのだ。
気配がする。
目の前の鏡。私の半分地面に埋まった顔の上に、男がいる。
大きな黒い肌の男だ。
大きな棍棒を天に向け、構えている。
無表情で。
ぐちゃ。
私の顔が崩れた。
私だったはずの顔が、鏡に映る。
大きな重い棍棒が目にもとまらぬ速度で振り下ろされて。
少し遅れて、激痛が襲う。
ぎゃあ。
その言葉が出るや否や、また棍棒が私の顔に。
衝撃と共に肉と血が飛び散り、少し体が浮いて真っ白な骨だけが鏡に転がっていた。
虚ろな哀れな死骸が口を無残に開けて。
「呼吸しろ」
男の声だ。あの黒い肌の男か。
言葉通り思わず息を吸った。
ガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサ
真っ黒な蜚蠊が髑髏と化した私の顔の七つ開いた穴へ一斉になだれ込む。
息を止めようにも男が言う。
「息を吸え」
その言葉に逆らえず、気持ちの悪い蜚蠊を延々と受け入れ続けてしまう。
声も涙さえも出すことが許されずに。
どれだけ続いたのだろう。
これ以上息を吸えないのに、「吸え」という言葉に逆らえず、何処までも蟲を受け入れ続けてしまう。
鏡には私だろう空虚な髑髏が、雪崩のように駆け込む黒光りする蟲を飲み込んでいく。
「吐け。息を吐け」
男の声だ。
ようやく息を吐ける。そうした時だった。
ブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブ
羽虫が飛び出してきた。
七色にも十色にも百色にもなる蟲が、無限に飛び出してきた。
一匹一匹の羽虫が飛び出る度に激痛が襲い、ついに私の頭は狂い始めてきた。
気が付けば私の体は地面に横たわり、服も何も身につけないまま周囲に人が立ち並んでいる。
それなのにお腹が急に風船の如く突然膨らみ、破裂すると巨大な赤い鋏の蟲がいくつも湧き出しどこかへ散っていく。
熱みを覚えたら、下半身の穴から二対の醜い毛虫が這い出し足に絡みつく。
美しかった自慢の爪は、緑の粘液を噴き出し死体の様な冷たさを、私の頭蓋に突き刺してくる。
人々は助けることなく、ただ見ていた。
呼吸の度に蜚蠊と羽虫を行き来させ、毛虫と粘液に覆われた、無残な死体の私を。
目元に、綿の感触がした。
上質な、綿の。
見ると黒い服の、中央に金色のボタンがある服を着た少年だった。
「もう終わりです。終わりにしましょう」
…………この声。
ぽとん
何か、小さな玉が落ちた音がした。
見ると掌に乗るくらいの玉が転がっている。
ただそれは七色にも十色にも百色にも変容し、奇怪に不気味におぞましく渦を巻いて変化し、吐き気を催させた。
そして、奴隷がいた。
使いに出して、戻って来ず折檻をしようと考えていたあの女奴隷だった。
若く気弱で手ごろだったから、日々の憂さ晴らしにしていた、あの。
なのに。病に侵され、腐り落ち、脆くも崩れ去り、老さびれて、腐り落ちたる寸前になっていた。
奴隷とは言え、まだ若かった女が少し目を離しただけでこうなる事がある?
一体何が?
女奴隷は膝から崩れ、地面の奇妙な玉を頭で砕く形で倒れた。
「早く、医者を!」
そう叫ぶも、さっきまでいたはずの人々は誰もおらず、今いる場所も私の自室だった。
あれは夢だった?
あれだけ痛みと嫌悪感と苦痛に満ち満ちたものが?
「誰か医者を!」
思わず私はさっきまでの事を忘れて走り出す。あの夢は夢だと言い聞かせて。
見ると私の服は、汗と用便でこれ以上なく汚れ果て人前に出れる状態ではなかった。
でも私は医者を呼びに行く。
「わかって下さいましたか? 私の」
あの奴隷が言った事が気になって。




