剣神アイス・バーンズ―3
視界に映る空気の靄が、あらゆる物の息吹をはっきりと描き出す。
大気に含まれる微量の魔素を俺の術式が赤い粒子として映像化し、視覚に投影しているのだ。
左側を見ると離れようとしているアイナが、何かを言おうと口を開きかけているのが見える。
そして反対側である右からは、視界いっぱいに広がる赤い靄を斬り裂き、何かが閃光のように飛来してきた。
キィイイインッと金属の擦れ合う高音が響き渡る。
改めて前方を見ると、アイスが小太刀を片手に先程の位置から微動だにせず立っていたのだった。
「じじい、今のは汚いだろ。孫娘に当たったらどうするんだ?」
ぽかんと口を開け、呆然とするアイナ。
俺の右手には、アイナから借りた刀がいつの間にか鞘から抜き放たれている。
そしてまだ耳に残る金属音の残滓。
アイナには何が起こったかわかっていない事だろう。
「何を言うか、ちゃんと撫でる程度にしてやったじゃろ?」
「っち……」
アイスの言う通り、今の攻撃はほんの触られた程度のものだった。
あれが俺を斬るつもりのものであったならば、今頃受けた刀と共に俺の首は身体から斬り放されていたに違いない。
「お祖父様、どうしてレイルと……?」
「っん、アイナよ、お前もあの時おったじゃろうて。何やボコボコ溶岩が吹き出ておった時、儂と小僧が約束してたじゃろ?」
「約束……あっ!」
暫く考え込んだアイナだったが、はたと気づく。
アイスの言う約束が、何年も前にクルシュの街の危機を救った場面で交わされた物だと思いだしたのだ。
「ですが、あの時のあれはこんな刃を交える等と言ったものでは無かったはず」
「そうじゃよ。あの約束は、これとは別物じゃ。のう、小僧?」
アイスの問いかけに、俺は黙って頷く。
あの時交わした約束、あれはこんなお遊びのような物を仕掛けてくる事を意味していない。
目の前の化物が俺の知っている者と同じだとすれば、俺が自ら出向く時――それはどちらか片方が死ぬまで死合う事を意味しているはず。
「レイル……」
アイナが、心底不安そうな顔で俺を見てくる。
だが今の俺には、そんな彼女を気遣ってやる余裕など微塵もありはしなかった。
いつ何時、アイスが仕掛けてくるかわからない中で、全神経を集中していなければならなかったからである。
「まあ、見ておれ。小僧とのこれは、お前の修行にもなるでの」
アイスの言葉を聞いたアイナが、そっと俺から離れる。
修行と聞いて、アイスが俺を傷つけるつもりはないと思ったのかもしれない。
だが、俺はそんな言葉さえ耳に入っていなかった。
というより目の前の老人のふりをした異形の存在に対して、油断や余裕など毛ほども持てるはずがなかったからである。
浅く息を吐き、僅かに止める。
次の瞬間、今度は左側から風が凪ぐような衝撃が襲ってきた。
「っちい!」
辛うじて、左手に持つ鞘を上げることに成功する。
鞘の面には、薄っすらと地の色を現す擦り跡が一筋残っていた。
「ふむふむ、見えてはいるか。じゃが、やはり反応が鈍いの。余程さぼっていたのか、はてさてどうしたものかの?」
アイスの顔から、薄ら笑いが消え明らかに不満げなものへと変わる。
奴の言う通り、辛うじて魔素の揺らぎから攻撃を察知する事は出来ているが、あまりの速さに対して受け止めるだけで精一杯だった。
しかも撫でると言った言葉通り、こちらの反応に合わせて刃先の速度さえ落としているのが伝わってくる。
「痛みを味わえば、少しはましになるかと思うのじゃが……どうじゃ、小僧?」
無邪気な問いかけ……。
だがその言葉に、俺は戦慄を覚える。
「――虜囚岩峰」
俺の魔法が、自身を取り囲むように岩の壁をせり上げさせた。
しかしその岩も、一瞬のうちに無残な粉微塵の砂埃へと姿を変える。
アイスがその小太刀で、幾千もの斬撃を加え岩から砂へとたちどころに霧散させたのだ。
だが俺も、そんなもので剣神の攻撃を防げるなんて思っちゃいない。
「――鋼雷爆符」
岩の壁の内側を這うように、雷撃の絨毯を敷き詰める。
アイスと言えど、金属の刃先が触れるやいなや痺れる位はしてくれるはずだ。
そしてその一瞬の隙を、俺は狙っていたのだが……。
「小僧、それはあまりに悪手じゃろ……」
アイスの声には、がっかりしたような失意がこもっていた。
俺の周りに貼り巡らせた雷撃の糸が、寸断され散り散りになっていく。
剣神にとってみれば、雷だからといって斬れない物ではない。
焦りが冷静な思考を邪魔し、理解していたはずの事を失念させる。
アイスの言葉通り、俺のとった手は最も愚かな手段だったのだ。
小太刀による刺突が、眉間に迫るのを知覚する。
だがここから挽回できる手段を俺は既に持っていない。
魔走脚による高速移動も、この一瞬では間に合わないだろう。
知覚する事は出来ても、今の鈍った身体では反応する事すら出来ないのだ。
眉間に刃先が突き刺さる、そう感じた瞬間だった。
「まったく、がっかりさせよるわい……」
確かに刃先は触れた。
そう、皮膚をほんの少し押す程度に。
傷一つ着けることなくアイスの放った刺突は、俺の眉間に小太刀の冷たい感触だけを残し引き戻される。
代わりに、いつの間にか持ち替えたと思しきみすぼらしい木彫りの杖で、額を軽く小突かれた。
「はあぁ、どうも話と違うのお……。それとも、お主も違うのかの?」
深い溜め息をついたアイスは、俺に背を向け離れていく。
硬直していた俺は、小突かれた事により尻もちを着いていた。
「はぁ、はぁ……爺さん、悪いんだが俺はあんたの期待には答えられない。だからあの約束はなかった事にしてくれないか?」
「確かに小僧よ、お主は儂の期待を大きく裏切りおった。だがの、約束は約束。これと、あの約束はまた別個のものじゃ」
これだけの力の差を見せつけておきながら、剣神は未だ俺に執着する気らしい。
殺されなかっただけマシだと思いたいが、何故ここまで俺に拘るのか全くわからない。
「なあ、爺さん。あんたといい、レーヴァテインといい、俺の知らない俺の事を知っているようだが、一体俺に何をさせたいんだ?」
この際、ずっと疑問に思っていた事を単刀直入にぶつけてみる。
だが数年ぶりに顔を合わせたら、腕試しのような真似をする人間だ。
とても本当の事を言ってくれる等と期待はしていないのだったが。
「っん? 儂が何をさせたいかとな。そりゃ簡単じゃよ」
「えっ?」
まさか答えてくれるとは思っていなかった俺は、逆に戸惑ってしまう。
しかしアイスは、何の躊躇いもなく続けて言い放った。
「小僧、お主に儂を殺させるためよ」
「はぁ……?」
「ちょ、ちょっとお祖父様。レイルに殺させるってどういう事なのですか?」
黙って聞いていたアイナも、突然のアイスの言葉に思わず口を挟む。
「まあ事情は色々複雑なんじゃがの、結論を言ってしまえばそういう事になるのじゃよ」
「おいおい、爺さん。強くなる可能性のある俺に期待するのは勝手だが、自分を殺させるためって説明が足らなすぎだろ」
突拍子もないアイスの発言に、俺の声も思わず上ずってしまう。
「じゃがのお……。そうじゃ、フレイともう一度会うためには儂が死ぬ必要があるんじゃ。それもただ死ぬだけではなく、お主に斬り殺されねばならんと、フレイの奴もが言っておったんじゃ」
「……フレイと言うのは?」
前に一度だけ聞いた覚えがある。
誰だったか、アイナの事をお祖母さん似だとか何とか……。
「フレイか? 儂の恋女房じゃよ」
「お祖母様! 女神フレイヤ様の事?」
アイナが叫ぶ。
そうか思い出したぞ。
確か以前、アイナの兄のブロムが言っていた。
アイナが祖母に似ている――そう女神フレイヤにそっくりだと。
「それに、小僧よ。お主にとって初めての事でもあるまいて」
「なっ!?」
何気なしにアイスが言った言葉に、俺は思わず絶句する。
一緒に聞いていたアイナにとっては、意味のわからない事だったのだろう。
それとも祖母の名前が出た事で、意識がそちらに傾いていたためさして気にもとめなかったかもしれない。
しかし俺にとって今のアイスの一言は、何よりも俺の思考を混乱の渦に巻き込む事となるものだった。
すなわち目の前にいる現在の剣神は、この時間軸に立ち戻る前の世界で、俺が自分を殺した事があるという事実を知っていると言ったのだ。
それは俺が、見た目通りの俺ではない事を知っているという事を意味する。
つまり剣神アイス・バーンズも、俺が時間遡行によって今の時間軸に戻ってきたという秘密を知る一人だという事だ。
「さて、そろそろ戻らんと。残りの酒を、全てレーヴァテインのあほうに飲み干されてしまうわい」
この爺さん、まだ飲む気でいやがるのか……。
「じゃが、その前にやる事だけは済ませておかんとな……」
「がはっ!」
一陣の風が、俺の身体を吹き抜けた。
立ち去ろうとしてたアイスが、振り返りにんまりと笑っている。
その視線の先、俺は嫌な予感を覚えながら自分の胸を見下ろした。
「っつ!?」
「レッ、レイル!?」
アイナの驚愕に満ちた叫び声が耳を突く。
俺の胸には、その刃先を半ばまで埋没させた剣神の小太刀が突き刺さっていたのだった。




