幼馴染な脳筋―1
目を開けると、そこは見知らぬ天井だった。
いや正確には、はるか昔に見た覚えがある天井だ。そこには木造のむき出しの梁の見える、頭を傾けると大きめの窓から雲ひとつ無い青空が覗いていた。部屋の広さは、この世界の平均的な子供にあてがわれる程のものだろう。簡素なベッドと机一式、それとお情け程度の衣類棚があるくらいだ。
昨日と言って良いのか――俺は遥か未来より時間の流れを遡って、この幼少期の時間軸に戻ってきていた。
「コンッ、コンッ」
暫くぼうっと天井を眺めていると、ドアを叩く音がした。
「おはようございます、レイル様」
声とともに、ドアがそっと開かれる。
そこには十代前半とみられる少女が立っていた。肩口で切り揃えられた黒髪に、メイドの服がよく似合っている。
「……おはよう、えっと、えっ、え……」
喉元まで出かかっているのに、名前が思い出せない。
無表情に俺を見つめていた少女が、ベッドに上半身を起こしている俺に近づいてくる。
「エルシアです。まだお休みでしたか? ですが、レイル様。お召し物をお脱ぎになって下さい。朝食の準備が整っておりますので」
そう、エルシア。
エルシアだった!
確か、俺が生まれるのと時を同じくして母親を亡くし、俺の両親と旧知の仲だったと言う理由で、当家に引き取られたのだったはず。母親が、父カイルの王宮魔道士時代の秘書だったとか何だとか。
俺の内心の焦りをよそに、エルシアがテキパキとベッドを片付けていく。追われるように、俺も服を剥ぎ取られる。白のシャツに短パンという簡素な服へ着替えを手伝うと、エルシアはそそくさと部屋を出て行った。
俺もその後に続き、階下の食卓へと降りていく。朝日に照らされる生家を目にし、多少なりとも感慨深いものがあった。年齢と共に思い出は美化されていたのか、記憶の中ではもう少し大きな屋敷だった気がする。実際は部屋数にして10部屋にも満たない木造建築。一般的な住宅より少し大きめな程度のようだ。華美な装飾が施されているわけでもなく、内装も材木の素材をそのまま。階段の踊り場の壁に、ささやかながら風景画のようなものが飾られている。
両親と自分、そしてメイドのエルシアを含めて4人がこの家の住人だったはずだ。4人で居住するには十分な広さだ。階下への階段を下りながらそんな事を考えていると、一階のロービー付近で父カイルと目がった。
「やっと起きたかレイル、昨日は良く眠れたか?」
「おはようございます、父上」
「さあ、母さんが怒り出す前に食卓に急ごう」
昨日久しぶりの邂逅を果たした父カイル・エヴェレット――彼は、俺達家族が住まいを構えるクルシュの街の管理官であった。管理官とは、その街の領主に代わり実務全般を担う――ようは雇われ店長みたいなものである。若い頃は王都の宮廷魔道士だったという事だが、まあ合わなかったんだろう。この頃の父親を見るに、ただの魔術オタクにしかみえなかったし。
「レイル、ボーっとしてどうした? 早く降りてきなさい」
つい懐かしさからか数秒物思いにふけっていたようだ。
「申し訳ありません、父上」
昨夜も思ったが、自分より年下の父親を見るというのはどうも妙な感じがしてしまう。自分の姿形に慣れないうちは、このむず痒いような感覚を暫くは味わうことになるのだろう。
父親に付いて食卓のある広い部屋に入ると、木の簡素なテーブルに朝食が既に並べられていた。そこへ奥の台所からメイシアと共に母クレア入ってきた。
「レイル、さあ席に着きなさい。折角の料理が冷めてしまうわよ」
「はい、母上」
食卓に揃うクレアとカイルを見て、記憶が蘇ってくる。母クレアは、こんな父のどこが良かったのか――元伯爵令嬢という肩書を持つ母は、息子の目から見ても華やかな金髪を備えた豪奢な美女であった。王宮魔道士として研究を行っていた頃に出来ちゃったらしい。
誰がって?
もちろん俺さ。
そんなわけで、二人は駆け落ち同然で、この辺鄙な田舎街に移って来たとのことだった。世が世なら俺も次代の伯爵様だったわけだ。
伯爵どころか、魔王とまで呼ばれるようになったけど……。
「ほらっ、ぼーっとしてないで早く座る!」
思い出したぞ。母クレアは、結構きつい性格をしていたんだった。そう、このエヴェレット家において真の当主は母親だったのだ。
「はい、母上。申し訳ありません」
俺は言われた通り、すぐに席に着く。
「あら、今日は随分素直ねレイル? いつもこうだといいんだけど、フフフッ」
えっ……俺の5歳の時ってもっと拗ねてたのか? というか5歳児ってもう少しやんちゃなのかもしれないな、もう少し研究しておこう。
そそくさと席に着く、父が正面、母が右側だ。
後ろにエルシアがそっと立っている。
「我等がトーレルの座します恵みある豊穣の大地に、感謝いたします。」
父カイルが短い祈りを捧げる。トーレルはこの大陸で主に信仰される神の一柱だ。大陸にはトーレルをはじめ様々な土着の神が祭られている。そしてここロキ王国に限って言えば、王族がトーレルの末裔を称しているだけに多くの信仰の対象となっている。
「さあ、頂こうか」
父の短い祈りの後、朝食が始められた。後ろに立つエルシアがそっと、ちょうど胸あてに丁度よい布を襟元からかけてくれる。5歳児だしそろそろそんな物は必要ないとは思うが、当時をよく思い出せないうちはされるがままにしておこう。
「なんだ、レイル。まだそんな物をしてもらっているのか? もう来年には神降託宣の儀式だというのに」
神卸託宣――王国に生まれた全ての子供が、6歳になる年に合同で受ける儀式の事だ。この儀式には、魔力量を測定し、王国にとって将来有望な人材を確保する目的を持っている。
「エルシア、父上の言うとおりだよ。もう僕も5歳になるんだ、こんなもの必要ないよ」
「そうですか、レイル様? でも昨日は胸かけをせずに食事をしたところ、クレア様に大層お叱りをうけたばかりでございますよ」
まじかよ、俺って5歳の頃そんな駄目な子供だったのか? おかしいな――神童とか異端児とか建国以来の天才とか、そんな呼び名しか覚えていないんだが。
「レイル、エルシアの言う通りですよ。また汚したら、その服は誰が洗濯をするのか考えてみなさい」
「はい、ごめんなさいエルシア」
対面で父のカイルが、ニヤニヤしている。こいつ、知ってて言ってやがっただろ。
「カイル、あなたもからかわないの。レイルが5歳の割りに物覚えがいいからって、エルシアの仕事を増やしていい理由にはならないのよ」
クレアの切れ長の目が鋭くカイルを睨みつける。その目にカイルの顔は強張り、目を伏せてしまった。やはりこの母親には、逆らわないでおこう。
朝食が済むと、父は執政所へ仕事に出かけていった。
母クレアとエルシアは、何やら洗濯や洗い物で忙しそうだ。
「さて、どうしたものかな……」
一人ぼんやりと、庭先に佇む。間違えてしまった自分の生き方をやり直すため、過去まで戻ってきたが、実際何をしたらいいのだろうか?
しかし、どこでどう間違えたのか分岐点がわからないと、手の打ちようがない。しかるに、まず自分の潜在的な魔法の才能を、誇示すべきではないとは考えていた。
得意な才能が周知されると、決まってその力を取り込もうとする勢力が現れる。それは、権力者であったり、はたまた組織であったり、突き詰めれば国家であったりもするものだ。
目先の問題は、神降託宣かな……。
魔力は――まあ、普通の子供よりは多いが、特別ずば抜けていたわけでもないんだな。昨日の魔狼の襲撃から大体の事は推し量れるが、『|炎矢爆撃獄(フレイム・デス』ならギリギリ一回、同じ炎属性の魔法で貫通力を重視した『鋼炎破矢』なら三回程度までなら持ちそうだった。
「まあ、五歳にしちゃ上出来か」
王宮魔道士とはいかなくとも、冒険者やフリーの魔道士でも『|炎矢爆撃獄(フレイム・デス』すら満足に発動出来ないレベルの者もいるくらいだからな。
「はぁ、それにしても良い天気だな……」
庭の芝生の上で、ゴロンと横になる。
空を流れる雲を見上げながら、小さな手をかざしてじっと眺める。
「魔力が少ないって、こんな感じだったんだな……」
俺の中に、懐かしいような心細いような、何とも言えない感情が湧き上がっていた。とりあえず、今は何もしないでいいこの時間をもう少し堪能しよう。
しかしそう思ったのもつかの間、心地よい陽気に誘われてついウトウトとしてきていた俺の上に、陽の光を遮る影が差し掛かった。
「レイルっ!」
少女の顔が、寝そべる俺を覗き込んでくる。
藍色の髪が、陽の光に透けてとても綺麗だ。
「レイル、約束したわよね?」
「アッ、アイナ?」
「さあ、行くわよ」
そう言うと、アイナは寝転がっている俺の腕を無理やり掴み、引きずらんばかりに何処かへ連れて行こうとした。
「まっ、待ってアイナ! 何処? 何処に行くのさ?」
俺の戸惑いも意に介さず、家を出てどんどん進んでいくアイナに、俺が慌てて尋ねる。すると、アイナは振り返りもせずに、掴んだ手の力を更に強めて言い放った。
「私の家、道場よ!」
「あっ!?」
約束って、昨夜のあれか。
まさかこんなに早く、しかも強引に拉致されるが如く連れて行かれるとは。
「待って、待ってよアイナ。約束は覚えてるけど、母上にも言わずに来ちゃったよ」
そこで初めて、アイナが振り返った。
そこには、美少女には似つかわしくない、とても残念な笑顔が貼り付いていた。
「大丈夫、クレア様にはちゃんと言ってきたから。レイルを宜しくねって、頼まれちゃった」
何をちゃんと言ってきたんだろう?
そして、何を宜しくなんだろうか?
向けられる笑顔に、俺の背筋を悪寒が走る。
「さあ、着いた。急いで行くわよ」
眼の前に、『カインツ剣術指南所』と書かれた看板が目に入ってきた。確かアイナの父親が師範を務める、小さな道場だったはずだ。
「やあ、レイル君。おはよう」
アイナに腕をがっしりと掴まれ、道場の門をくぐろうとした時、一人の青年が声をかけてきた。アイナや自分よりも、大分年上だろう。長身の体格に恵まれた、なかなかの偉丈夫だ。
「ブロム兄様、何よこんな所で!」
アイナが、ブロムと呼んだ青年――確か門下生三十人のうち、三分の一を占める年少者の稽古をつけていた青年がいたはずだ。
「うん、だってさ。アイナが、朝早くからそわそわして出掛けたから何事かと思ってね。なるほどね、レイル君の所に行きたくて仕方がなかったわけか」
ニコニコと話しかけるブロムは、アイナの頭を優しく撫でる。
すると、アイナの顔が真っ赤に染め上がった。
怒ったようにアイナが、ブロムの手を振り払う。
「違うわよ! レイルには借りがあるから、仕方なく迎えに行っただけよ! 私は、そわそわなんてしてないわ」
「そうかい。それはごめんよ、アイナ。でもそれにしては、日も昇らないうちから家を出かける準備をしていたみたいだけど……」
「もういい! 兄様の馬鹿! さっさと行くわよ、レイル」
顔を伏せ俯いたまま、アイナが俺を引っ張って行く。
「ああっ、ブロム先生。それでは、また後で」
「うん、じゃあ道場でね」
ブロムに笑顔で見送られた俺は、引きずられるように道場までやって来た。
朝早い事もあって、まだ稽古に来ている者は誰もいない。
道場の入り口でアイナが、正座をし正面に向かって礼をする。
「ほら、レイルも早くしなさいよ」
俺も、彼女に習って道場に対して礼をとった。
なんとも懐かしい。
ここで、アイナと初めて出会ったのだったなあ……。
「さあ、いいわよレイル。これを使って」
道場に入ると、さっそくアイナが練習用の竹刀を渡してくる。
子供用に短く作られたそれは、軽く重さもそれほど感じられない物だった。
「身体をほぐしたら、さっそく乱取りをしましょ。大丈夫、ちゃんと手加減してあげるから」
竹刀を軽く振りながら、アイナが身体を暖めているようだ。何だかなし崩し的に、ここまで連れて来られたが、仕方ないので俺も竹刀を両手にもって柔軟体操をした。
「レイル、準備はいい? じゃあいくわよ、構えなさい」
アイナが、正眼に竹刀を構える。
さて、まあ適当に相手をするか。
自分としても、どの程度身体を動かせるか試す必要もあるしな。
「んっ、何だアイナ? そっちの坊主は、確かカイルんとこの……」
アイナに合わせ、俺も竹刀を構えいざ乱取りとなった時、道場にふらりと一人の中年の男が顔をだしてきた。無精髭を生やした中年の男は、道着をだらしなく着崩し大きなあくびしながら道場に入ってくる。
「師匠!」
アイナが『師匠』と呼んだ男。
この男の事は、なぜか良く覚えていた。
「カイル・エヴェレットの息子で、レイル・エヴェレットです」
「ああ、そうだったか。この前からうちに通ってるんだったな。わりぃな、忘れてた。あぁ、頭痛え、深酒し過ぎちまったようだな、ゲフッ」
カインツ剣術指南所の道場主、カインツ・バーンズ――アイナの父親で王国内でも屈指の使い手と評判の男だ。そして、恐ろしき者の係累にあたる。
カインツは、頭を擦りながらよろよろと道場の上座まで進むと、そこにどかりと腰を降ろした。
「わりぃな、邪魔しちまってよ。ほら続けていいぜ」
どうやらこの男、俺とアイナの稽古を見学するつもりらしい。再び大きなあくびをしながら、さっさとやれと言わんばかりに手を振っている。
「レイル、悪いけど手加減出来そうにないわ。師匠が見てる前で、手なんか抜けないもの」
アイナの雰囲気が、先程よりずっと緊張したものになっている。父親であり剣の師匠であるカインツの目があることで、稽古をつけてあげる等という和やかな雰囲気では全くなくなってしまったようだ。
「仕方ないね、お手柔らかに頼むよ」
「クククッ、そうだお前ら、ただやりあったってつまらんだろ? 今から仕合しろ。それで負けた方は、勝った方の家来になれや」
「「えっ!?」」
突然酔っ払いが、とんでもない事を言いやがった。
明らかに思いつきで言ってるのが、痛いほどわかる。
カインツの目つきは、未だとろんと寝ぼけているかのように座っているのだ。
「わかりました、師匠」
一瞬驚いたようであったが、アイナがすぐにカインツの言葉を肯定する。
ちょ、ちょっと待て……この父娘は一体何を言ってるんだ?
「行くわよレイル、あなたも本気で来なさい!」
俺が事態を飲み込めず呆然としていると、アイナが問答無用で斬りかかって来た。
「うわっ、ちょっと待って、待って! アイナ、こんな事で良いの?」
「道場で、師匠の言うことは絶対よ。それに私は、あんたに負ける気なんて更々ないわ」
くそっ、剣術馬鹿か何か知らないが、どうかしてるぞこの父娘は。アイナが容赦なく、竹刀の連打を打ち込んでくる。その動きは、とても七歳の少女のものとは思えないほど鋭く、切れのあるものだ。
俺はまごつきながらも、上下に打ち込まれる竹刀の連撃を寸でのところでいなしていた。
「はぁ、はぁ。レイル、何なのよあんた? ついこの前、道場に来たばかりの癖に、どうしてそんなに動けるのよ!」
確かに彼女の言うとおりだろう。しかし、それを言ってしまっては身も蓋もない。アイナだって、同年代の少年少女の中では群を抜いた素質があるはずだ。ただ、俺がそれを遥かに越える素質と、身体の使い方を経験で知っているだけなのだ。
しかし、どうこの場を乗り切ればいいのか? いっそアイナに負けて、家来でも何でも言わせておけばいいのだろうか? どうせ子供の時分の事、いずれどうとでもなるだろうし……。
そんな事を考えていると、ふいに鋭い殺気に射抜かれた。
「っく!?」
つい力が入り、自然と魔力を体に覆わせてしまう。
「おいっ、坊主。てめぇ、本気でやらないなら俺が相手になるぞ!」
カインツが俺だけに向かって、凄まじい殺気を向けてきた。背筋が凍りつくような、嫌な感覚に襲われる。どやらアイナは気づいていないようだ。肩で息をし、俺の出方をじっと見据えている。
「レイル、あんたを舐めていたみたい。でも、これは躱せっこないわよ!」
そう言うと、アイナが腰を落とし竹刀を目線と水平に構える。
一瞬彼女の身体と共に竹刀が消えていくような錯覚に陥った。
「――陰流・一ノ太刀」
突如、目の前に竹刀の切先が現れる。アイナとの距離は、歩幅にして数歩はあったはずだ。しかし、それをずっと視認していたはずの俺の眼は、信じられないことに彼女が突きを放つ直前まで知覚することができなかったのである。
予想打にしない攻撃だったため、俺はほぼ無意識に動いてしまった。竹刀の切先が頬を掠めていく。アイナの身体が俺の方に流れるのに合わせて、俺の持つ竹刀が胴殴りに彼女の脇を薙いでしまった。
「ぐうっ!」
苦悶の表情を浮かべ、アイナが背後で蹲る。
彼女の攻撃があまりにも見事だったため、考えるより先に身体が動いてしまった。
それほどアイナの突きは、鋭く意識外からくるものだったのだ。
「ほお、やるなレイル。おい、どうしたアイナ。こんなもんで終わりか?」
「はぁ、はぁ……師匠、まだまだやれます」
脂汗を流しながら、アイナが立ち上がる。竹刀とはいえ、カウンターで入った一撃は、アイナの身体に相当なダメージを与えてしまったようだ。
とはいえ、彼女の先程の攻撃も、俺が知っていたから躱せたようなものだ。
『陰流・一ノ太刀』――本来であれば知覚どころか、貫かれたことさえ認識できない不可避の一撃。かの剣神の放ったものであれば、どんな結界を貼ったとしても防ぐことは出来なかっただろう。
アイナが放ったこの技は、未熟ながらも今の俺が全力でやっと回避出来るものだった。それを考えれば、この歳で恐ろしい才能だと言わざるをえない。
「くうっ、やあああっ!」
アイナが痛みに顔を歪ませながらも、懸命に竹刀を振ってくる。だが、その動きは先程に比べキレもなく、痛々しいものでしかなかった。
「もう止めにしよう、アイナ。どこか痛めたのかもしれない」
「ばっ、馬鹿にしないで。まだ勝負はついてないわ!」
アイナの動きは、一振り毎にその速度を落とし、既に立っているのさえやっとな常態に見える。打ち付けられるアイナの竹刀は、俺の竹刀に乾いた音を立てるだけとなっていた。
「止めさせて下さい、先生。アイナは、もう限界です」
「止めさせるも何も、アイナはまだやる気だぞ。そいつを止めたきゃ、自分で何とかするんだな、レイル」
この糞オヤジが!
剣術馬鹿なんてもんじゃない、イカれてやがる。
何だか無性に腹がったてきたぞ。
痛みに耐えていたアイナだったが、ついに打ち込んで来れないほどになっていた。なんとか立ってはいるが、その顔は青ざめ竹刀を構えるのが精一杯のようだ。
「はぁはぁ、レイル私はまだ……負けてないわよ……くぅ」
「アイナ……」
気力だけで立っているアイナを見て、俺は心を決めた。なるべく速やかに、そして一瞬で終わらせてやる。
「……ごめんよ」
俺はそう呟くと、一気に脚部へと魔力を集中させ『魔装脚』でアイナとの間合いをつめる。彼女が、痛む体でなんとか反応し後ろへ下がろうとする。しかし、既に遅すぎた。俺の体が彼女の背後へと回りこむ形になると、すかさずその後頭部を竹刀の柄で打ち付けた。
あくまで、最小の力で彼女の意識を刈り取る程度の打撃だ。それにより、アイナの体は力なく横たわっていく。床に彼女が打ち付けられる寸前、そっと体を入れて俺はアイナの身体を支えた。
アイナを抱きかかえた俺は、そっと彼女の額に手を当てる。意識を失っただけで、それ以外に打ち付けたところもないようだ。
そこに、先程まで俺達を半ば強引にやり合わせた張本人が、見下ろすように立っていた。
「レイル、お前の勝ちだな。そいつは、今からお前の家来だ。煮るなり焼くなり好きに使ってやれ」
この男、本気で言っているのか?
自分のしかも七歳の娘を、五歳の子供に好きにしろとは……だめだ、考えるだけ無駄だ。このカインツという男、剣術の腕だけなら王国随一だったが、その性格に問題があったため、王宮騎士団を除隊したというもっぱらの噂すらあったのだった。
「いいなアイナ。今からお前の主は、そこのくそガキだぞ」
ふと見ると、アイナの意識が戻っていた。よろめきながら、俺の腕の中から這い出ると、アイナは痛む脇を抑えながら苦虫を噛み潰したかのような表情で俺を睨んでくる。
そして、おもむろに呟いた――
「はい師匠。今より私、アイナ・バーンズの剣は、レイル・エヴェレットに捧げられます」
はああああぁ!?
もうやだ、何なのこの脳筋親娘……。
その日の夜、月明かりが僅かに差し込む道場の稽古場に、一人杯を片手に暗がりにたたずむカインツの姿があった。杯を舐めるようにちびりちびりと酒を嗜みながら、カインツは昼間の稽古場での一幕に思いを馳せていた。
「くくくっ」
カインツは、静かにほくそ笑む。
面白い。本当に面白いガキだ。
あれは、縮地? いや違うな、かすかに感じた魔力の流れ……魔走脚。
まさかな、あんなガキが使うか。
魔道士並みの魔力操作と、並外れた体術、その両方を兼ね備えた者が初めて会得することの出来る高等技術だ。
俺が、あれを使えるようになったのはいくつの時だったか?
ブロムでさえも、剣技や体術ならまだしも魔力の扱いではまだまだ扱えるものではないだろう……一体何者だ?
いや、なんだ「あれは?」
山に篭ってるじじいにも伝えておくか――いやまだ止めておこう。
こんな面白そうな奴を、あのじじになんか教える事はない。
まず、俺がたっぷり味見してからだ。
「くくくっ……」
カインツは、悪戯が見つかった少年のような笑みを口元に浮かべ、またもう一献手にある杯をあおるのだった。