王都イェルズ
ロキ王国の王都イェルズ。
人口約50万人という大都市は、大陸を東西に結ぶ交易路の中心に位置し、陸上交通の要衝として大いに繁栄を謳歌していた。
その中にあって、王国内より選りすぐられた者にしかその門戸を開かれない王国屈指の最高学府こそが、王立宮廷魔導学園である。
受験資格は、王国内で生まれた12歳から18歳の男女に限られ、その魔力の素質により入学を選考される。
そして、卒業後の殆どの生徒が、宮廷魔道士や騎士団へと進むこととなるのだった。
「んん、ふあああぁ。もう朝か?」
昨夜遅くまで古代魔術書を解読していた俺は、窓からさすほのかな明かりに誘われて重いまぶたをようやくあけた。
「うんっ、うにゅ、むにゃ。レイル、もっと右手の力抜かないと……」
何やら横から、聞き慣れた声が耳に入る。
恐る恐る顔をそちらに向けると、うつ伏せになる艶やかな藍色の髪が目に入ってきた。
すーはーすーはー……見なかったことにして、もう一度夢の世界に旅立ちたい。
そんな事を俺が思っていると、その髪の持ち主が寝返りをうった。
バサッ
藍色の髪の少女――いや、はだけた寝間着から覗くささやかな膨らみは、少女から大人の女性へと僅かにその歩みを進めている確かな証だった。
というか、それどころではない。
何故か俺の隣で寝ている少女――アイナの胸元が、俺の両の眼にばっちりと映っている。
……こっ、このままでは、殺される。
俺は、アイナを起こさないようにゆっくりと息を止めて、彼女をまたぐように寝台から降りようとした。
「うにゅ、ふあああぁ。おはよう、レイル」
目があった。
今まさに、彼女の上を四つん這いでまたぐ、その際中にアイナは目を覚ました。
「おっ、おはよう……アイナ」
背筋が凍りつく。
全身から、嫌な汗が吹き出してくるのがわかる。
「うん? どうしたのレイル? なんで私の上にいるの?」
身動きが取れないでいる俺に対し、アイナがきょとんとした目で瞬きしている。
その眼差しが、俺を通り過ぎ自分の体へと移っていく。
「あっ、あばばばっ……!」
やっと自分の格好に気づいたアイナが、その顔を急速に真赤に染める。
反対に俺の顔色は、反比例して真っ青になっていることだろう。
「あの、アイナさん、これは僕のせいでは……」
次の瞬間、目の前いっぱいにアイナの拳が広がっていた。
「おお、レイル。やっと起きてきたか」
食卓へ赴くと、既にカイルが席についていた。
「おはようございます、父上」
「あらレイル、おはよう。今日も朝から楽しそうね」
「おはようございます、母上」
奥の炊事場から、クレアとエルシアが共に朝食を運んできた。
「おはようございます、レイル様、アイナ様。」
「おはよう、エルシア。アイナ? アイナはまだ部屋じゃないかな?」」
エルシアと朝の挨拶を交わす。
しかし、アイナはまだ自室で着替えているはずだが。
「もう来てるわよ、レイル。邪魔だから、早く席についてよ」
いつの間にか後ろにアイナが立っていた。
背後を取られたことに全く気づかなかった。
最近の彼女の剣の腕を考えれば、当然のことかもしれない。
それにしても、殺気がこもってるんですが……。
「さあ、じゃあいただこうか」
いつのようにカイルの祈りの後、食事が始まる。
今日の朝食は、小麦粉を練った麺を茹でて、それを季節の野菜と植物油でさっと炒めたものだった。
赤や緑の野菜が、食卓に彩りをそえる。
火の通った植物油の香りが、朝から食欲をそそる。
「今日は二人共、王立学園の試験日だったな?」
「はい、父上」
「アイナちゃん、レイルに合わせるからって2年も試験を遅らせて。本当によかったのかしら?」
「クレア様、私のわがままで申し訳ありません。でも、私はレイルを守ると決めた者、2年ばかりのことでそばを離れるわけにはいきません」
「まあ、私たちは嬉しいけどねぇ」
「そうだな、私達夫婦にはありがたいことだな」
カイルもクレアも、二人してにやにやと嫌な笑みを浮かべている。
何がそんなに楽しいのだ。
アイナの言うこととなると、途端に二人共甘くなる。
少しは息子も、甘やかしてほしいものだ。
それにしても――俺たち家族が、ここ王都イェルズに引っ越してきて早くも6年弱の歳月が流れていた。
父カイルが王都に召還され、宮廷魔道士として復帰を余儀なくされたことで俺達家族も共に王都で生活することとなった。
俺とアイナは、当初王都の私学へと通い、俺が12歳になるのを待って王立学園への試験に臨むこととなったである。
その間も、俺たち二人はお互い剣の稽古だけは欠かさなかった。
というより、アイナの稽古に絶えず付き合わされていただけなのだが。
「遅くなるわよ、レイル。試験に遅刻しちゃうわ」
「あわてなくても大丈夫だよ、アイナ」
「なに呑気なこと言ってるの。小さい頃から、そういう所はのんびりしてるんだから」
「さあ二人共、頑張ってらっしゃい」
「まあ、二人共普通にやれば、順当に合格できるだろう。気負わず頑張ってきなさい」
「はい、クレア様、カイル様」
「ありがとうございます、父上、母上」
俺たち二人は、両親とエルシアに見送られ足早に試験会場たる王立学園へと向かった。
「もうレイルったら、やっぱり急いだほうがいいんじゃない!」
俺の手を引くアイナが、前を向いたまま不満を口にする。
今日のアイナの服装は、スカート姿の動きやすい軽装となっている。
先程から、足早に歩をすすめるのに合わせて、ヒラヒラとその裾がまたたいている。
引っ張られるかたちの俺にとっては、大変目に毒だ。
特に最近は、なぜかその絶対領域が侵食されつつある気がする。
気のせいだと言うことにしておこう……。
「もう、遅い。自分でも走りなさいよ!」
つい目の前に映るものに気を奪われ、思考が停止していたようだ。
「でも、アイナが普通に起こしてくれれば、もっと余裕があったはずだよ」
おればかり責められるが、なぜか釈然としない。
王都に引っ越してきてからも、アイナは毎日のように朝に起こしてくれていた。
しかし何度かに一度は、今日のように俺の寝台に潜り込みそののまま寝入ってしまう。
毎度、起きない俺が悪いと責められるが、だったら一緒に二度寝などしなければいいのに。
「まったく、おきないあんたが悪いのよ、レイル!」
「いや、だからって僕が寝ているところに、入り込まなくても」
「聞き捨てならないわね! 入りこんだんじゃなくて、起きてこないから、たまたまそこで二度寝しちゃっただけよ」
「……だから入り込んで」
「なに!」
「いえ、なんでもありません」
こんなやり取りを、もう六年も続けている。
俺も半ばこんな毎日に慣れれつつあった。
それに、時折鼻先をくすぐるあの香り――あれについては、悪い気はしない。
「はぁはぁ、どうやら間に合いそうね」
王立魔導学園の門が目に入ってきた。
王都にあっても、その敷地は有数の広さを誇る。
学園全体を人の倍ほどもある高さの塀で覆い、その正門たるや装飾の施された鉄格子で、数十人が一斉に通れる程の大きなものであった。
敷地内には多数の学舎が建てられ、半ばひとつの街の様相をていしている。
「それにしても、すごい人の数だね」
そう、学園の門には既に多くの受験生でごったがえしていた。
「さすが、王立学園。エリートコースの登竜門ってところよね」
アイナの言うとおりだ。
ここでの成績いかんによって、将来が約束されるのだ。
そのための入学試験には、多くの少年少女が集まるのも無理のないことであった。
俺は、特に出世とかしたくないんだがなぁ。
「賢者様?」
俺とアイナが、門の前でその人の多さに圧倒されていると、ふと俺にむかって呼び止める声がした。
しかし、賢者様って?
「やあ、久しぶり。やっと会えたね」
声の方を向くと、一人の青年が立っていた。
俺よりいくらか年長であろうその青年は、背中までの長い銀髪と長身のすらっとした美男子だった。
「レイル知り合い?」
アイナが問いかけるが、俺とて初対面だ。
だいいち常に俺と行動を共にしているアイナが知らない人物など、俺の知己にいるはずもない。
「お兄様……わたしも、賢者様とおはなし、したい」
青年の背中に隠れるように、一人の少女が顔をだす。
兄と呼ぶ青年と同じ銀髪を腰までのばし、若干線の細いその体型は、まるで今にも消え入りそうな妖精かなにかのようだ。
どうやら先程の声の主は、彼女みたいだ。
「そうだねヒルデ。やっと僕らの憧れの君に再会できたんだ、ちゃんとお話したいよね」
この兄妹――たぶんそうなのだろう――二人はどうやら俺と会ったことがあるらしい。
しかし、一向に思い出せない。
うーん、誰だったかな。
銀髪……ぎんいろの綺麗な髪、銀ぎつね、銀食器、金銀財宝……金、大クイウス金貨!
「ああ! 思い出した。金貨、そう金貨だよ。えっと王都に来たばっかりの頃、城下街で」
「ちょっと、何よレイル。何思い出したって、私にもわかるように言いなさいよ」
記憶がつながった嬉しさにはしゃぐ俺を横目に、アイナが苛立ちをつのらせる。
だが、アイナとてこの兄妹と面識があるのを忘れているだけなのだ。
「アイナ、君だって知っているはずだよ。というか二人で市のはずれで助けた」
「王都に来た頃の市場。助けた……あっ! わかった、あの時の金貨!」
「そうそう、あの時の金貨の兄妹だよ」
俺たち二人は揃って兄妹と、金貨のイメージを繋げて覚えていたようだ。
やっと自分たちを思い出してくれたとわかった青年は、その美しい銀髪をたなびかせ眩しいほどの微笑を口元にたずさえる。
――こいつ、イケメンだ、それも生半可じゃない。
現に先程から、周囲に女生徒らしい学生の視線が集まりつつある。
「ははっ、どうやら思い出してくれたみたいだねレイル君。いや賢者様かな」
「賢者様、わたし……ずっと会いたかった……」
それにしても、さっきから賢者様という呼称を俺に対して使っているようだが、一体何の意味があるのだろう?
大逆の魔道士とか、魔動王などとは前世で呼ばれていたが、賢者という尊称はついぞ聞いたことがない。
しかるに、今の俺はせいぜいクルシュを救ったとされるカイルの子息――エヴェレット宮廷魔道士の息子くらいの認知度だと思う。
その認知度さえ怪しいものだが。
「そろそろ、試験開始時刻になります。受験希望者は、早く受付を済ませて下さい」
門の中から学園の職員らしき人が、呼びかけている。
「おやヒルデ、どうやらあまり時間がないようだ。仕方ない、彼との話はまた今度にしよう。じゃあレイル君、また後で。君なら必ず合格できるはずだからね」
「賢者様、あとで、ぜったい、おはなし……する」
そう言い残すと、青年と少女は門の中へと行ってしまった。
「レイル、私達も急がないと」
そうだ、俺達は入学試験を受けに来ていたのだ。
予期せぬ者たちと再会したことに気を取られてしまったため、つい目的を忘れてしまうところだった。
それにしても、金貨の兄妹か――ほとんど記憶に残っていなかったがあの少女の輝くような銀髪は、さながら大地神トーレルの妻シヴィルを彷彿とさせる。
銀髪には前世にいい思い出はなかったが、今回はそれを拭い去ってくれるようなそんな予感が俺を包んでいた。
これより王都編となります。