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異世界の記憶媒体 −switch point−

作者: 秋月ロト

異世界に行ってみないかなどと声をかけられたので、ああはい、良いですよと気楽に返した。どこから声が聞こえてきたものかは分からなかったが、たまにはいいかなと思ったのだ。

途端にどひゅうんとどこか気の抜けた、とても大きな音がして、僕は何かに吸い込まれた。気がつけば真っ暗で何も見えない。当然地面も見えないが、触ってみたらわりかしすべすべしていて清潔そうだったのでとりあえず胡坐をかいて座り込む。


少しそのままで居るうちに、人は暗闇と無音の世界に閉じ込められると直ぐに正気を失うという話を思い出して、それは怖いなあと思ったので、どこか何かないかとひとまず立って歩き出した。すると直ぐに眼の前が強い光に包まれてきて、思わず手で目をかざしながら歩いていくと、突然賑やかな騒音と共に、屋台村のような世界が飛び込んできた。いやこの表現は正確ではない、正しくは僕が向こうに飛び込んだ、か。


チンドンぱらら、チンドンぱらら。


少しやかましい。お祭りみたいな雰囲気の街を歩いているのはやたら耳の長い人や、合成比率を間違えたのであろう大きく牛よりの牛人間、果ては体長1メートル程度のスライムのようなものまで居る。それぞれ着ぐるみというレベルを超えており、完全に実写だ。いや現実か。まさしく異世界であるなあと一つ感心した。とはいえぼさっと突っ立っているわけにもいかないので少しわき道に移動する。ここで考えねばならぬのはまず言語が通じるかどうかだ。屋台に書かれた文字は明らかに日本語ではなく、かといって英語でもアラビア語の類にも見えない。強いて言えば象形文字のように見える。まず読み書きは不可能と見てよいだろう。但し道行く者共、耳の長くて人間に似ているのは便宜上エルフとする、牛人間はオークとする、スライムはスラりん、ではなくそのままスライムでいいだろう…という彼らはエルフより色が黒く、グレーのジャケットに白シャツ黒パンツという、異世界では浮いているであろう僕の存在にあまり気を払っていない。ということは僕と同じように適当な呼びかけに適当に返し、適当に連れて来られた馬鹿の先人、あるいは近しい外見の者が既に居て、珍しく無い存在ということが推察される。


外見が近しければ声帯も近いことだろう。オークがあの丸太のような太首で人語のような複雑な鳴き声を発することなど出来ないとは思うが、エルフあたりならいけるのではないか。後ほどシャイな僕だけど勇気を振り絞って女エルフあたりに話かけるということで解決するものとする。


さて次に解決するべき課題、これが最も大事なポイントだが、僕はここで何をすれば良いというのだろう。これは参ったことである。大体人を呼んでおいてほったらかしとは何事か。世が世なら直ぐに民事である。何の契約かは知らないが契約違反ではないか。無責任極まりないぞ。退陣だ、退陣だ、原発反対、などと適当かつセンシティヴなぼやきを一人こぼしていると、おーいとなにやら僕に対して駆け寄ってくる女の子が現れた。

「はぁはぁ、遅れて申し訳ございません。」

おお日本語だ。不安が一つ解決した。良かった。人に話しかけるよりは話しかけられる方が常に楽だ。


それにしても大分息を切らしている。こういう時これは演出ではないか、こいつは僕に対しわずかばかりの同情を引くことで心理的優位に立つ為に近くまでソフトクリームでも舐めながらのんべんだらりと歩いてきてたクセに、近くに来てからばたばたと申し訳なさそうに走ってきたのではないかなどと邪推するのが僕の悪い癖だと思う。そんな訳はないじゃないか。女の子はみなマシュマロで出来た絶対聖天使なのだ。見よ、かの白皙の肌を。強烈なる太陽光線を一切弾き返すか如き白き眩しき輝きを。見よ、触れば砕けるような儚さと可憐さに満ちた細き肢体、愛しさ溢れる低き背丈を。そして一点の汚れなき黄金の御髪、ツンと毅然と聳え立つ鼻先、蒼き水晶のような大きく美しい瞳を。耳は横長なのでいわゆるエルフに属するのだろうが、どのような種族であろうと絶対聖天使アブソリュート・セイクリッド・エンジェルがセコイ真似をするはずがない。

「あの。本当に遅れてすいません。…勇者役の方ですよね?」

馬鹿なことを考えていた僕におそるおそる女の子が声をかけてきた。勇者”役”とはまた面妖なとは思ったが昨今のホットトレンド・ワードなのでとりあえずそういうことなのだろうと頷いた。実のところはウィザードリィ派なので名も無き戦士的な感じがいいけれど、せっかくお呼ばれしたのだから贅沢は言うまい。

「良かった!それじゃ早速酒場の方にご案内致しますのでついてきてもらえますか?」

逆らうはずもない。


酒場までの道のりはさほど遠くは無かったが、街の様子は十分観察出来た。いわゆるヨーロッパのような町並みで、道路も家も煉瓦式だ。住民達の種族はおよそ4つほど。エルフ、オーク、スライム、鎧武者。一様にしてスライム以外は衣類のような物を着用しており、通貨でやりとりをしている辺り、人間社会に近いルールが存在しているようだ。武器の類はみな基本的には所持していないが、ところどころで警官のような装備をしたオークや鎧武者みたいなのが立ち番をしている。巨大な建築物は少なく、普段の生活に必要な物は通りの屋台でみな賄っているようである。

極めて平和な、祭りのような雰囲気があるのだが、こんな世界で僕は何をすればよいのだろうか。先ほどは聞き流した勇者役というワードから察するに人間はこの世界に何人か呼ばれ、ドラクエみたいに魔王退治をさせられているのだろうか。もし退治なんかしちゃったりなんかしたら町ぐるみで感謝されてしまうのだろうか。さらにそこで酒池肉林の大宴会なんか始まったりして、そこで僕の英雄譚をせがむ美しい女エルフ達に囲まれてしまったりして、そこで小粋なウィット(死語)に富んだ抜群のトーク力を披露しちゃったりして、そしたら夜には夜には…。


困るな。

全く。いや異世界であれば一夫多妻制もありかもしれない。

やっぱり困らないな。


バタン。西部劇みたいな動くドアを開け放って女の子が酒場へ入っていった。正気に返って連れ立って入る。

「此度の勇者役の方をーお連れ致しましたー」

体に見合わぬ大声を上げる。酒場の中には街で見かけた連中よりも強靭な肉体と厳めしい装備を備えている戦士達が大勢いた。種族はまたもバラバラだが、酒場なのに消化器官も無さそうなスライムまで居るのは驚いた。もしかして戦う気か。踏んじゃうぞ。

ともあれ僕の登場でどことなく静かだった酒場がざわつきだした。

おお今回は時間がかかったな。

一ヶ月ぶりじゃないか?

あまり強くはなさそうだね。

打てればいいんだよ。打てれば。

ヒップってやつ?そこが締まっているかどうかもきっちり見なくちゃいけんませんヨ。

色々ワイワイ言い出している。というか最後の恐ろしい発言したのは誰だ。

「勇者役とはなんですか?」

非常に紛らわしいが、僕はこんなに野太く無作法な声ではない。声のした方を見ると、奥のカウンター越しに、むさ苦しいくらいの髭とロングヘアのこれまた威圧的なおっさんがこちらを見つめていた。

「ははは。まあそう硬くならなくて良い。初めてここにきた連中はみんなそう言うもんだからつい、な。今から全部説明してやるからひとまずここに座ってくれ」

奥へ足を踏み入れたが、見定められるような視線を方々から感じながら椅子に座るのは正直良い気がしない。おいおい小心者だって言ってんだろ、殺すぞ、と、口には出せないが内心で悪態を吐く。

「よーし、じゃアマネ。いつものフリップを頼む。」

おっさんが言うのを待ちかねてたかのように先程の女の子(アマネというらしい。そういえば名前も聞いていなかった)が紙芝居に使われるような板を何枚か、カウンターの上に置いて支えた。


先程のペットショップの愛玩動物になったような気分も大概な物だったが、それを上回る不愉快さを覚えた。ニコニコ気分が一転して地に堕ち、即座に帰りたくなる。


その板に描かれていたのは、どう見ても人がドラゴンに喰われているものだった。

こういったものは精密に描かれているより、幼稚園児が描いたようなタッチの方がより残虐に映る。長い首を持ち、太古の恐竜の様な体躯を備えた緑色の怪物は顔の辺りが妙に大きく描かれており、三白眼と共に凶悪そうな白い牙を人のような五体を持った生き物の胴に突き立てている。大量出血を表す赤色の絵の具が妙に生々しく、ますます僕を不快にさせた。それは絵そのもののセンスだけではなく、被召喚者という己に課せられた役割の正体が、うすうすと察せられたからだ。期待していた展開とは程遠い、むしろ真逆のような役割。

「おおその顔いいねぇ。心底から嫌そうなその感じ、何回見てもそそる物があるね。俺達はここにいる連中の中で一番お前達に近い外見を持つ種族だが、そういう顔はなかなか出来ないからなぁ。」

ニタニタと笑いやがる髭面に苛立ちを覚えてくるが、何とか情報を出来る限り引き出さなくてはなるまい。ここは落ち着いて話を聞こう。

「ええ。まあいきなり呼ばれて、僕からしたら見慣れない方々しかいない世界で自分がこれからこの化物みたいな奴を退治しろとか言われるのではないかと思ったらつい。あまり感情を表に出すタイプではないのですがね。」

「ほほほい。その通りだ。理解が早いタイプのようで助かるね。でもその前にちゃんと事情を説明するよ。あんたの顔がもーっと歪むところも見てみたいからな」

おっさんの耳は長い。ということはエルフの世界にも嗜虐趣味者がいるというわけだ。ファンタジーに幻想を抱くものではない…なんだかおかしな言葉だが…まあそういうことだ。現実のエルフは心優しく、清き森の守護者ばかりではないんだな。考えてみたら僕は既にアーチェに裏切られていた。一角獣に乗らなかったあの女。

「おい、いいか。確認だがアンタの居る世界ではアンタは人間という種族に分類される。そして俺達はアンタ方の定義では耳の長いのをエルフ、それを太らせたような体型で毛が生えているのがオーク、水風船みたいなのをスライム、エルフのような体型の鉄人を鎧武者という風に分類されるんだよな。」

「その通りだ」

おっさんがミルクのようなものをこちらに渡しながら続けた。

「安心しろ。毒はない。アンタをここで殺すメリットは無いだろう?だってこちらとしちゃさっき察してもらったとおり、先程の絵で見てもらった怪物、人間の言葉で言うドラゴンを”退治しに”行ってもらわにゃならんのでな」

「…断る」

退治とは言い様。うんざりしつつミルクのようなものを啜る。

杏仁豆腐のような絡みつく甘さがあり、わりと美味しかった。

「ところが断る権利はアンタには、無いんだよなぁ。というのもなぁ。まあ実に良い昔話があるんだ。死ぬほど笑えるぜ。少なくともこれを聞かされた人間は涙を流して感激したもんさ」

そこでアマネちゃんが一枚目の紙をめくった。するとそこには四つの種族達が描かれており、和やかな雰囲気で暮らしている様子が描かれている。

「この村は昔から四つの種族が暮らしていた。オークが狩を行い、スライムが作物を育てエルフが調理し、鎧武者が家事と警備を行うという具合にな。他の生活必需品はそれぞれの種族の得意な奴らが適当に担当する。いつからこんな暮らしをしてるんだかはよく分からんが、まあ各種族代表の長達によって上手くまとめられていたんだな。俺たちはのんびりのんきにやってこれてたんだ。

ところがある時、どこから来たかは知らないが村の近くの洞窟に、長首の怪物、ドラゴンが住み着いた。」

ぺらり。次はドラゴンが村を荒らす様子が描かれている。

家を破壊し、火を吹き、エルフを食っている。

「奴は村を襲い、暴れまわり、住民を喰い荒らした。奴は半端ではなく強く、各種族の戦士達が束になったところで敵わない。オークよりも力が強く、エルフよりも魔力が強く、鎧武者よりも鱗が硬い奴だ。奴は腹を空かせる度に村人を食べに来る。そのうち奴の魔力に惹かれてか、得体の知れない種族まで洞窟に住み着くようになり、俺達はそいつらの対処までする必要も出てきてほとほと困り果てていた。」

ぺらり。次は各種族の連中が頭を寄せ合っている。下手糞な絵だ。

「そこで村長達は自分たちだけで奴を倒せないなら、異世界の力を借りて奴を倒せば良いと一計を案じた。そこでエルフ達の叡智を結集した末に異世界の生命体、つまりお前達人間の召還に成功した。原理は知らんが、お前らはエルフによく似ているからかもしれんな。しかし、ここで一つ誤算が生じた訳だ」

ぺらり。そこには白シャツと青ズボンの青年のような人物が描かれていた。普通の絵だ。スライムが顔に取り付き、窒息させられかけているのを除けば。

「お前達は弱かったんだよ。力は無いし、魔術も下手、ちょっと傷ついたらピーピー言う。最悪なのは俺達の中で一番弱いスライムにまで負ける始末だ。これじゃドラゴンはいつまで経っても倒せるはずがない。そこでだ。よく聞けよ。ここからが一番の笑いどころだぞ。」

そこで髭は歯をむき出しにして笑いかけた。意外と白い。

ぺらり。そしてまた意外にも、次の絵は一枚目と同じだった。

人がドラゴンに喰われている。いや一枚目と違うのは、喰われているのは一人ではない。紙全体が紅く、死体の山のようなものが築かれるほどに耳の短い五体の生き物…人間が喰われ尽くしていた。

「村が何度も襲われてから、この村では定期的に住人を生贄に捧げていた。まあ当然みな嫌がったからくじ引きで選ばれた奴が犠牲となるようにしてな。…本当にいい顔するなぁお前は。その歪み具合、絵にして飾っておきたくなるよ。

そ。俺たちはその役を人間という種族にやらせれば良いということに気付いたんだよ。仲間は誰も傷つかないし、召還すれば替えはいくらでもいるからな。初めはどうやって人間にその役をやってもらうか色々考えたが、お前らは実に良き馬鹿だ。こちらがいかにも困っている様子で哀れみを乞いて、どうか助けて欲しいとベッタベタな演技をしたら、すっかりその気になってニコニコとその役を引き受ける。終いには自分のことを武勇ある者、勇者だとか抜かしだす始末だ。やあ俺達も最初こそ上手く行くか不安だったが、簡単におだてに乗る人間共を見ているうちに次第に笑いを堪えきれなくなっていってな。だって貴重な生贄がドラゴン以外に殺されないよう洞窟の雑魚は俺達が引き受けて露払いしてやるんだけどな。それを見て気をよくして、なんとなく自分でも倒せるんじゃないかって思うんだろうなぁ。適当に剣を振り回したり、教えてやった魔術を無駄に使ってみたり、そこでカッコいいとかエルフに言わせればもう鼻高々よ。それがドラゴンの前に着くなり俺達に突き飛ばされるとあっという間に絶望して、助けてくれって懇願しながら喰われていくんだぜ。泣き喚いて大騒ぎして、ドーケっていうんだろ?アンタらの先人が死ぬ間際に自分のことをそんな風に言ってたが、語感がいいよな。騙され、踊り狂って死ぬ馬鹿のドーケ!」

そこでどっと酒場の連中が笑い声を立てた。店内が極めて下品な笑い声に包まれる。今すぐ全員ぶちのめしてやりたいが、今の僕では敵わない。悟られないように拳を握りこむ。

「いやぁははは、すまんすまん。とにかくそうやってドーケ、いや人間を送り込んで愉しんでいたんだがなぁ。次第におべっかを使うのも面倒くさくなってきてな。最近ではここで愉しませてもらって、逃げ出すようなら殴りつけて縛って運んで喰わせに行くし、諦めないということなら一応戦い方は一通り教えてやって一緒に行ってやるということにしている。そういう経緯で哀れな犠牲者の人間には勇者役って名前を当てているというわけなのさ。」

ぺらり。今度は紙が捲られ返され、一枚目に戻る。アマネは一礼するとカウンターの奥へ引っ込んでいった。。それを見てまた酒場がざわつき、笑い出す。


あはははは。やっぱりあの顔は良いものだね。

今日こそ勇者役が来ると睨んでた甲斐があった!

ドラゴンもやっぱり旨いのだろうね。人間は。食ったら本当によく眠る。

お前らエルフと違って脂肪の付きがいいものなぁ。

なあ試しにあの男の腕一本、俺たちで味見してもいいんじゃないか。

なに3本も残しとけばいいだろ。俺はあの脳みそを食いたいね。キュッと酢で〆てさ。

男なら白子とかも珍味ではないかネェ。シンプルに塩でいかんか諸君。

それもいいかも知れないな。まあ食べ過ぎてしまったらまた呼出してもらえば良い。


げはは。ハハハ。あっははははハハハはハハハハハハはははははハハハハハ。


「はははは…は。さてまぁ即答はせんでも良いよ。奴にはこの間喰わせてやったばっかりでな。これから一ヶ月は寝ていてくれるだろうが、そこからいつ目を覚ますかはわからん。奴も動くのがおっくうなのか、腹が減ると村に届くほどの大声で鳴くんだ。俺たちはそれを合図に生贄を運びにいく仕組みになっている。それまでに戦うかどうか決めてくれ。それとお前が暮らしていた世界へ戻せるのはエルフだけ。加えてこの村は壁に囲まれ、多数の鎧武者が昼夜を問わずに見張りを行っている。要は逃げ場は無いってことだ。飯と寝床はここで用意してやるから適当に過ごして、戦いを選ぶなら俺たちに言いな。万が一ってこともあるから出来る限りは教えてやろう。」

言いたいことを言い終えると髭エルフは自分の酒を注ぎ、適当につまみを食べ始めた。

周りの連中は僕の回答を待ちつつ、適当に馬鹿話を始めているようだ。


哄笑の渦中で僕は考える。

状況は把握した。

僕の役目は孤立無援、無知無力の勇者。

僕の場所は胸糞悪い絶望の底、糞溜の中の糞。

全く、適当な気持ちで異世界からの呼びかけになんて応じるものではない。

呼ばれた人間は事態の解決など求められていない。

あくまでただの生贄だから勇者”役”。

目の前の髭エルフはおろか、酒場中のオーク、エルフ、鎧武者の戦士も歯が立た無いドラゴンと筋トレもろくにしない、50mを10秒が精々の人間の僕。

彼我の戦力差は蟻と象ほどに圧倒的。

彼を知って、己を知ったところで人間はドラゴンを倒せない。


喰われて死ぬ。


太い牙を突き立てられ、内臓を食い破られ、血を啜られ、骨を臼歯ですり潰される。

生暖かい口腔に体ごと呑まれ、包まれ、唾液で息も出来なくなる。

腐臭漂うノドという、真っ暗闇のトンネルの中、僕の生首がするりと落ちて、

脳も目玉も何もかも、胃液に溶かされご臨終。


そんな映像が浮かび、心の中に黒い染みが広がる。

息苦しさを感じ、汗が滲み出る。

気づけば向こうに残した知り合いの顔を想っている。

思い出が蘇る。なんだこれは、走馬燈のつもりか?


馬鹿馬鹿しい。


そんな気持ちなど振り切らなくてはいけない。

降りかかる災難を前にしてそれらにかかわずらっている暇は無いだろ。


弱気になるな。弱気に。一人だ。一人きりだ。だけど。

適当な判断のせいだ。そうだ。こんなことになるなんて思わなかった。確かに。


だけど。

でも。しかし。それでも。


ドラゴンに黙って食べられるわけには、いかない。

不可能なようであれ、戦わなくてはいけない。

ああ、怖い。周りは味方はおろか、人間すらいやしないのだもの。

例え言葉がわからない外国人であったとしても、居てくれたらマシだろう。

でもここにはいない。居るのはゲームで見たようなモンスターだけ。

優しい人なんかいやしない。

人間と近い見た目のエルフだって、僕を肉の塊程度にしか見ていない筈だ。


自分で全て、なんとかしなくては。


僕は己を奮い立たせる。


僕は人間だ。

もとより勇者なんかではない。

そんなもの思考停止の与太者の代名詞にすぎない。

勇者を名乗っていい連中は作り話の世界だけに存在している。


現実の人間である限りは、命有る限り、地道に戦い続けるほかは、ない。


僕はそっと、沈んでいた顔を上げて告げた。

「分かった。逃げ場は無いみたいだから、その戦いを引き受けよう。」

髭面エルフはにんまりと笑う。酒場は会話が再開したことを察して静まり返る。

「おお潔い返事だなぁ。そういう顔も俺達は嫌いじゃないぜ。なにせ死ぬ間際には歪むのには変わりがない。その落差がまた良い肴になるんだよ。」

全くどこまで行っても見た目通り畜生な連中だ。

「…一つだけ、御願いを聞いてもらえないだろうか。」

でもこちらは人間だから、諦めない。

「おう戦い方のことか?それとも何か欲しいか?

流石にタダで死んでもらうのは気が引けるからなぁ

ババアのエルフなら抱かせてやるぞ?終わってるから出し放題のオプション付き!」

それならお前のかみさんがちょうどいいじゃないか!

いやあマスターのババア抱くくらいなら俺は滴り水通りのババアを抱くね。

あのババアならこないだ死んだばっかりじゃねぇか!

こうクソ暑くちゃ冷たくてちょうどいいだろ?

おいおいお前にはとてもついて行けないぜ!

あははハハハ!ゲハハハはハハハ!ははははははは!


そうだ。こんな下品な奴らとは違う。僕は人間だ。

そして人間である限り、諦めずに戦う方法くらい、いくらでも考えてやる。

「まずは僕をここで、働かせてくれ」


ひとりよりふたり、ふたりよりよにん、よにんよりたくさん。

僕はここで味方。

いや人間を集め、学び、戦い抜かなくてはいけない。


恐らくこの世界を実質的に支配しているのはエルフだろう。

飛び抜けて複雑な言語を話せるということは、人間並みに知性が発達している可能性が高い。象形文字のようなものも彼らが考案した可能性が高い。

そのエルフですら、恐らくデータの蓄積を怠っている。

つまり、僕がエルフの立場で、かつ事態の根本的解決を諦めていないなら、人間を使い捨てにするにせよ、騙してても様々な攻撃手段を取らせて戦わせる。もしかしたら見つかるかもしれない弱点を探り出すために。それをしないということは既に諦めているか、もしくはそもそも発想がないのか、だ。


それなら僕がその役目を果たせばいい。

何時になるかはわからないけれど。なんとかしてこの酒場の主人になって。


この世界の記憶媒体となって、訪れる人間達の戦いを全て記録してやる。

常に戦わされる人間が、”強くてニューゲーム”で始められるように。


その為の知識と資金をここで作り出す。

まずはこのアイデアで勝負してやる。


この胸糞悪い異世界で生き残り、ドラゴンを殺して帰る為に。


「ああ?お前は何を言っているんだ?選択肢は二つだけだと言っただろ?戦わずに死ぬか、戦って死ぬか、だ。これまでで一番バカな発言だぞお前。」

「いや皿洗いでもなんでもいい。死ぬ前にここで色々お金を使ってみたいからさ…」


さしあたり最初の問題はどうやってこいつを説得するか。

まあ何、簡単に言いくるめて見せるさ。人類の為にね。





そうして僕の戦いが始まった。

ああ、僕の名前?そうだな。

こう、カッコイイ、戦う覚悟が込められた感じの名前がいいよな。

どうせ異世界だし、自分で名付けてみよう。

…。

…メモカ。メモカ・スクルージ

人間の記録と資金の守護者ってところかな。さあて頑張ろ。

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