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ソファがギシッと鳴って、魚住が間をつめてきた。結香の左脚と魚住の右脚が触れ合う距離だ。
「な、なんでこっち来るんですか?」いくら和解したからといって、近すぎだろ。
「俺が暗所恐怖症なのを忘れたか?これくらいいいだろ?」背もたれと彼女の背中の間に腕を入れてくる。
そうだった。彼の声が平静だったのと、語られた内容に引き込まれ、忘れていた。
結香はおとなしく、彼が作った囲いの中にちんまり納まった。
魚住がまだ足りないとばかりに、彼女を自分の胸にもたれかからせようとする。
結香はそこまでする必要はないだろうと、足を踏ん張って耐えた。
すると魚住が身を寄せ、ぴとりとくっついてきた。
さすがに突き飛ばすのはかわいそうなので、そのままだ。
「あの頃」魚住がここからが大事だという話を始めた。
「負けても負けても挑んでくる結香を見ていたら、昔の自分を思い出した」
「魚住さんにもそんなときがあったんですか?」意外だ。
「当たり前だ。へこみすぎて、仕事を辞めようかと思ったことだってある」
「私も辞めようかと思っていました」
彼も同じ環境にあったかと思うと、親近感が湧いてくる。
「辞めんじゃないぞ。才能あんだから」間髪入れずの返しだ。
うれしくなってくる。
「魚住さんに励まされて、そんな気は失せましたよ」応える声も明るくなるってもんだ。
魚住が結香ごとソファにもたれ、抱えた頭をポンポンした。まるで、よしよしされる子どもだ。
「結香のひたむきな姿がまぶしくてなぁ……。つくづく傲慢な仕事をしていた自分を恥ずかしく思ったよ。それからだな、結香を意識し始めたのは」
は?意識する、ってどういう意味ですか?認めてくれたとか、そういうことか?普通なら恋愛的な意味合いに取れるのだが、それが魚住だと結びつかない。だって、彼はずっと敵だったから。
「俺が粉かけてたの、ぜんぜん気づいてなかったろ?」
「粉って何ですか?」
魚住が声をあげて笑った。きっとあのまぶしい笑みを浮かべているのだろう。
「やっぱな。他の奴らはみんな気づいていたのに。結香は何かに夢中になると、他はなんも見えなくなるのな?」
見透かされてる。
「それだけ一生懸命なんだから、いいじゃないですか」むきになって言い返した。
「そういう結香が好きだ」
魚住はその言葉ひとつで、またしても結香の度肝を抜いた。
時間やら鼓動やらすべてが止まり、何も考えられなくなる。
「むきになるとこや不器用なとこ、全部ひっくるめて気に入っている。だから、結香と付き合いたい」
結香がまだ混乱から抜け出せないうちに、次なる難題を持ち出してきた。
心臓が外の嵐に負けない激しさで暴れだした。胸を突き破って飛び出してきそうな荒々しさだ。感情はさだまらず、頭は言葉を見つけ出せずにいる。
「な、な、な……な、にを……」完全に言語中枢はまひ状態だ。
「結香にとったら寝耳に水だろうから、今すぐ返事をくれとは言わない。だが、お互い半裸状態でふたりきり。このチャンスを逃すつもりはないから、覚悟しておけよ」
顔は見えないのに、悪魔の笑みが見えた気がした。