8
「どうした?」未だ恋愛ゲーム続行中の魚住が、優しげな声をあげた。
こうして冷静になって聞いてみると、ただの同僚に使うにはふさわしくない声音だ。そんなこともわからないほど彼のペースに流されていた自分の脳天気ぶりに、蹴りを入れたくなってくる。
「どうして見下されているはずの魚住さんに、親切にされているのかわからなくて」思ったままを口にした。ちょうどふたりきりだし、真っ向勝負をするのに嵐の夜はぴったりだ。
魚住からの返事はなかった。
暗闇に目を凝らし、相手の出方を探る。相変わらず窓の外は風が吠え、雨が叩きつけていた。
「見下しちゃいない」やがて闇の向こうから、淡々とした声が返ってきた。どうやら彼も茶番劇に終止符が打たれたことに気づいたようだ。
「ほんとに?あなたに鼻であしらわれていたのは私の気のせいだと?」
闇を切り裂いて、深いため息が聞こえてきた。
「そいつに触れずに先に進めたら、って思ってたんだがな」
自分勝手なことをほざきやがる。だいたいどこに、何を進める気だ。
結香は鼻で笑ってやった。あのときのお返しだ。
「あいにく、私にとっては忘れられない出来事でしたから」
「なら、そいつから片づけよう」
片付ける、ってなんだ?厄介なゴミかなんかみたいに、片付ける、って!
カチンときて、彼のいる辺りを平手で叩いた。手を出すつもりなんかまったくなかったのに、嵐の夜は感情のぶれも大きいらしい。
指の先が、肩だかどこかそこらへんをかすめる。たちまち狂暴な手は、魚住に捕縛された。見えてるんじゃないの?って思うくらい確かな動きだった。
結香は手を引っこめようとしたが、手首をがっちり掴まれどうしようもない。
「あのころの俺は本当に嫌な奴だった。ごめん」
へ?身体が固まった。何、この肩すかし。いや、いや、いや。せっかくリングにあがったんだから、徹底的に打ち合いましょうよ。
「言い逃れしようたって――」
「心から反省してる。もう二度としない」
振りあげたこぶしの前に頭を下げられて、振り切ることもできない。本気で言ってるんだろうか?こんなときに顔が見えないなんて、もどかしい。
「信じられません」出した結論がこれだ。
「だよなぁ。これまでずっと目の敵にしてきたんだ。ちょっと謝られたからって、急に方向転換なんてできないよなぁ」魚住がぼやいた。
これって暗に執念深い不器用な奴、って言ってないか?疑えば、どこまでも悪くとれる。
「よし」なんだか知らないが、魚住が気合を入れ直した。
「確かに最初、お前の仕事を笑った。それは認める」
改めて言われると、あのとき吹き荒れた感情がそっくりそのままよみがえってくる。それだけ立ち直れていない証拠だ。
「お前って呼ばないでください」腹立ちまぎれに抗議した。
「じょあ、結香って呼んでいいか?でもそれは結香の仕事がまずかったせいじゃなくて」
訊いておきながら、勝手に名前呼びを始めた。
「俺が思いあがった馬鹿だったからだ」
「えっ?」
私の仕事ぶりをフォローしようとしているの?呼び捨てに気を取られて、聞き逃すところだった。
「俺はヘッドハンティングされて、調子に乗っていた。周りを見下し、俺がこの会社を盛り立ててやる、っていい気になっていた」
魚住が未だ握っている彼女の手を揺さぶり、結香の敵対心も揺れた。
「毎度、結香を打ち負かし、天狗になった。だけどある日、社長に言われたんだ。『自分の得意分野なら、勝てて当たり前だ』ってな。その通り、俺は自分のやりやすい企画だけを選んで、勝負してた。そして、結香」
彼がまた手を揺さぶった。
「俺に挑戦するのに夢中で、自分に向いているかどうかなんてまったく考えていなかっただろ?」
言われてみればそうだ。いつの間にか仕事は、魚住をやりこめるための手段に成り果てていた。
「そうかも……しれません」認めるのは癪だが、彼の言う通りだ。
「結香の仕事は丁寧できれいだ。俺じゃなく、そういう方向性の企画に挑戦してみろ。きっとうまくいくはずだ」
何これ?私、励まされてるの?
「本気で言ってるんですか?」
「前々からそう言ってるだろ」
魚住がこれまで口出ししてきた企画の数々を思い返してみる。化粧品やファッション、どれも面白さよりも美しさを要求される企画だ。今なら自分が何を見失ってきたのかがわかる。
ということは魚住はずいぶん前に心を入れ替え、罪滅ぼしに励んできたわけだ。それなのに私は怒りに囚われ、彼の話をよく聞いていなかった。
「私、ぜんぜん気づいていませんでした。いろいろアドバイスしてくださってありがとうございました。これからはもう、魚住さんを目の敵にするのやめます」彼には見えないけれど、頭を下げた。仕事を辞めようかとまで思いつめたスランプから救い出されたのだ。当然だ。
「わかってもらえてよかった。これで先に進めるな。こっからが大事なんだ」
過去を謝罪して、終わりじゃないの?
結香には彼が話をどこに進めようとしているのかさっぱりわからなかった。