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「このままじゃ、まずいからな」魚住が結香の肩から落ちかける大きな上着をちゃんと着せながら言った。
「とにかく帰ろう」
それには賛成だ。優勢な立場にいるこいつに、いつまでも大きな顔をされたくない。だが、しかし、この手はなんだ?
結香は突き出されたごつごつした手をじっとにらみつけた。
「行くぞ」いつまでも動かない彼女にしびれを切らし、魚住が二の腕を掴んだ。そのままドアのそとに連れ出される。
「いや、歩けますから」声も身体も固くして、抗議した。
「この暗さでこれから非常階段、下りるんだぞ。首の骨でも折りたいのか?」魚住がドスのきいた声で脅してきた。
はいはい、行きますよ。そんな怖い顔で言わなくてもいいじゃないか。かすかな光源で顔のほとんどが影に沈み、迫力満点だ。
廊下の途中でスマホが暗くなり、魚住が慌てて画面にタッチし明かりを生き返らせている。
ははは。怖いか。ざまあみろ。
「階段の途中でバッテリー切れになったら、一巻の終わりだな」
奴のそのひと言で嘲りは消えた。頼みの綱は彼のスマホだけだ。
「急ぐぞ」
魚住に手を引かれ、廊下を走った。非常階段に続く重い防火扉を開くと、そこは深い闇だった。その先に階段があるかと思うと、深い井戸を覗き込んでいる気分だ。
さすがの結香も、これには唾を呑んだ。このレベルは恐怖症でなくとも怖い。いや。これをきっかけにトラウマになるかもしれない。
隣りの魚住を見上げると、厳しい顔をしていた。結香でも怖いのに、彼にとってはどれほどの恐怖なんだろう。
「あの、朝まで待った方がよくないですか?」なんだかかわいそうになって、言ってみた。
魚住がギロリと見下ろす。
「そんなかっこで、朝までもつと思うか?身体壊すぞ」握られた手にぐっと力が込められた。
「行くぞ」
未知なる洞窟に入っていくみたいだ。階段まで来ると、手すりに手を押しつけられた。
「離すなよ」
「わかった」ここは素直にしたがった。
魚住がスマホを操作し、ライトに切り替えた。さっきより確かな光が辺りを照らす。それでも階段の下は真っ暗だ。
「俺が先に行く。離れないようについてきてくれ」
魚住が足元にライトを向け、階段を下り始めた。
結香も手すりをしっかり掴み、後に続く。下りる階段は5階分。最初は怖々だったが、だんだんとペースをつかめてきた。
魚住は光が彼女の足元にも届くよう、角度を調整してくれていた。そこに彼の思いやりを感じた。
そもそも彼ひとりだったら、どうしていただろう。さっさと忘れ物を回収し、とっくに車で走り去っていたに違いない。それがぐしょ濡れのお化けに遭遇し、助けようとしてくれている。彼にしたらこんな危険を冒さなくても、会社のソファで細々と明かりをつなぎ待機していることだってできたはずだ。それが『身体を壊すぞ』なんて理由で暗闇に足を踏み出した。
非常階段をグルグル下りながら、思考もグルグル回る。頭の中に強張った魚住の顔が貼りついていた。