2
魚住渉は結香と同じくこのちっちゃな広告代理店で働く1年後輩だ。後輩といっても年は5つ上、キャリアとなるとその優秀な腕前を買われ嘱望されてきた身だ。実力は魚住を交えた初めてのプレゼンで思い知らされている。奴に作品を笑われ、目の前で勝利を持っていかれた。
なるほど魚住のコンセプトは独創的で、大胆だ。対してきれいにまとめようとする私の作品は面白みに欠け、スポンサーが彼の作品を選ぶのは当然だった。
それなのに初っ端にせせら笑われたのがあまりに悔しくて、あいつに挑み続けている。連敗記録は今も更新中だ。憐れみの目を向けられ、ますますプライドが傷ついた。他のクリエイターは適度に距離を置いているのに、それができなかった。
そのうち、この企画をやってみろ、あれはどうだ、と仕事に口を出され、頭にくることばかりだ。最近では説教でもしようと考えたのか、呑みに誘われるようになった。もちろんむかつく野朗の誘いなど断ってやった。
だが、それもそろそろ限界だ。自信は泥にまみれ、今では会社を辞めようかと考えている。
そこへこの羞恥プレイだ。とどめととばかりに憎いあいつに、こんな惨めな姿をさらすことになろうとは……。
「おーい。誰かいるんだろ?」足音が近づいてくる。
この空間は衝立で仕切られただけの一角で、近づかれたらすぐにばれる。
「電気が点いてるんだから、いることはわかっているんだぞー」弄ぶような語り口調だ。
なんでこんな台風の日に、いつまでもお前がいんだよ!こっちくんな、馬鹿野朗。
声に出さずに罵った。
「まさか、こんなとこでいちゃつ――」
衝立の間からこちらをのぞき込み、魚住の声が途切れた。
結香は彼を見なかった。ストールの下で縮こまり、心の奥で呪いの言葉を吐き続けた。
こっちくんな。話しかけんな。さっさと帰れ。風で飛ばされた看板が直撃しろ。雷に打たれろ。
「何してんだ!?」声が荒々しくなり、ズカズカと近づいてきた。そして、よりにもよって隣りに腰を下ろした。
結香は仰天して、立てた膝に埋めていた顔をあげた。
均等の取れた印象的な顔の男がすぐそばにいた。サラサラの髪が雨に濡れて光り、広い肩を覆う上着にも散っている。長く太い腕が彼女を囲うように、左手はソファの背に、右手はローテーブルの上だ。いつもは涼やかな目が、ギュッと寄った眉の下でジロジロと彼女の様子をうかがっていた。
「びしょ濡れじゃないか。何があった?」
顔をのぞき込み、テーブルにあった手が彼女の前髪で光っていたしずくを払った。
結香はひっと身を引いた。慌てて目をそらし、雨宿りしてるだけ、とつぶやく。
魚住が手を引っこめ、ため息をついた。
「台風なのに、なんで外をうろついたんだ?」
「うろついてない!」彼の言葉にいちいち腹が立つ。
「帰ろうとしただけ。帰れなかったけど」後は尻すぼみだ。
魚住がまたため息をつき、沈黙した。
外の嵐はますます勢いを増し、風圧で窓ガラスがドンと鳴る。どこか遠くでガランガシャンと何かが破壊される音がした。
魚住は未だそばにいて、思案顔だ。
「そっちこそ、うろついてるくせに」なんとも気まずくて、結香は小声で言い返した。
「俺は忘れ物を取りにきただけだ。寒いんだろ?」
結香が返事をする間もなく、上着を脱ぎだした。下に着た黒いTシャツがあらわになる。
「いりません!」上着をかけられそうになって、身体をそらして断った。たとえ凍死しようが、こいつに情けをかけられるのはごめんだ。
「いいから着とけって!やせ我慢すんな」
今まで聞いたことのない厳しい語調に、反抗心がすくみあがった。すぼめた肩に大きな上着がふってきた。魚住の防水性の上着は、薄いのに驚くほど熱をため込んでいた。身体中があたたかさを求めて上着の中にもぐり込む。ついでに彼の視線からも隠れた。
ああ。これからどうしたらいいんだろ?台風が止むまでこうしてなきゃならないの?これからの数時間を想像したら、気が滅入ってきた。
「俺、車だから、送ってってやるよ」
隣りで魚住が突然立ちあがった。どうやら気まずいのは向こうも同じだったようだ。
彼に頼るのは理念に反するけれど、このまま数時間を過ごすことに比べたら決意を曲げる方がましだ。
「ありがと」顔は隠したまま、彼には絶対言いたくなかった言葉をいやいやしぼり出した。口が腐りそうだ。
そしたら噴き出す声が聞こえ、目だけ出してにらんだ。
魚住はソファの横に立ち、笑いをかみ殺そうと苦心していた。口にこぶしを当て、目尻にしわを寄せている。
彼の笑顔は素敵だ。大嫌いな奴だが、笑顔が無駄にいいのは認める。もしかしたら、こいつはこの笑顔でスポンサーをたらし込んでいるのかもしれない。
魚住が肩を震わせながら、応接スペースから出て行った。
あんな奴に送ってもらいたくない、と敵愾心がごね始めた。だが意地を張って残り、風邪でも引いた日にはそれ見たことかと呆れられ、さらに不愉快な思いをするだろう。
結香は仏頂面で手荷物をかき集め、衝立の外に出た。
突風がまたドンッと窓を揺さぶる。そして部屋は真っ暗になった。