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登場人物紹介
橘結香 広告代理店勤務 24歳
魚住渉 5歳年上の後輩 29歳
「うへ~、最悪」
橘結香は会社のエントランスに飛び込み、濡れたパンプスを見下ろした。パンプスどころか髪も上着も濡れ、スカートからは水がしたたっている。確かめてはいないが、雨は下着にまでしみているだろう。
振り返った外はすでに日が落ち、猛烈な風と雨が叩きつけている。台風15号は勢力を落とすことなく上陸し、地上を混乱に陥れていた。
こんな日はシャワーでも浴び、安全なベットにこもっていたいものだ。だから帰ろうとした。そりゃあ、ちょっことみんなより会社を出るのは遅かったけど、それでも雨はなく、ちょっと風がきついかな、って程度だった。
それがだ、乗るはずの電車は遅れ、あげくの果て運休ときたもんだ。タクシー乗り場には電車を当てにしていた客が殺到した。
その間にも台風はじわじわと近づき、雨をともなって暴れ始めた。並ぶ人々の傘をなぎ払い、誰かの傘を空高く吹き飛ばす。傘はもみくちゃにされてひしゃげ、4斜線道路の向こう側に落下した。
それを見ていた人々は身の危険を感じたのだろう。わらわらと列を離れて駅構内に非難した。
駅の中はそういった人々で混雑していた。ある者は電話をかけ、ある者は床に座り込んでいる。
結香はどちらもしなかった。電話をして迎えにきてくれる相手はいないし、カオスと化したこの場所で台風をやり過ごす気にもならない。少し遠回りになるが、安全なアーケード街を通って会社の近くまで戻った。そこからはアーケードはないが、会社は通りを渡ってすぐだ。
台風をなめていた。
彼女の傘は4車線道路を半分も行かないうちに嵐の餌食になり、命からがら残りの横断歩道を渡りきった。
そして、この有様だ。なんとか死守していたはずの頭もずぶ濡れで、傘の残骸を持ってエントランスに立っている。駅の構内に座り込んでいた人たちの方がよっぽど状況把握に長けていたわけだ。
結香はとぼとぼとエレベーターに乗り、会社が入っている5階のトイレにこもった。
鏡の中の女は見られたものではなかった。髪はべったり頭に貼りつき、化粧は見る影もない。化けの皮がはがれた素顔は疲れ切っていた。
結香は手と顔を洗い、少し湿ったハンカチで拭いた。髪や服も拭ってみたが、ハンカチでどうなるものではなかった。
「さぶっ」
結香は会社の応接用のソファに丸まり、抱えた膝をさらに固く引き寄せた。いくら夏とはいえ濡れた服は体温を奪い、むき出しの膝に鳥肌が立っている。濡れて気持ち悪くなったストッキングは脱いだものの、そこは会社、服はそのままだ。着替えようにもそもそも制服がないためどうしようもなかった。
結香は冷房対策用においていたストールの下で身を縮めた。
「お疲れ!」
突然ドアが開き、太い声が響き渡った。
ここから入り口のドアは見えないが、誰が入ってきたかは明らかだ。こんなに最低最悪で凍死寸前なのに、疫病神はまだ満足していなかったようだ。この世で一番嫌いで憎たらしい魚住渉を見物人によこしやがった。
先日8月25日の台風15号は九州に上陸、横断していきました。嵐が過ぎるのを待ちながら、思いついたストーリーを短編にしてみました。(実際の台風は朝方上陸したのですが、そこはフィクションの世界、都合のいいように使わせていただきました)