普遍者は存在するか?
普遍者は存在するか。
中世ヨーロッパの普遍論争とは一体何だったのか、その現代的な意味とは何か、自分なりに考えてみたので、ここにまとめてみる。
普遍論争で問題の争点となっていたのは、文字通り「普遍者」が存在するかどうかということだった。では、普遍者とは何か。
例えば、銅という金属がある。それらは、十円玉だったり、銅鍋だったり、神社の屋根などに使われている。あるいは、鉱石として地中に存在するのかもしれない。とにかく実在するあらゆる銅は、そうした個別に存在する物質としての銅だ。
「普遍者」とは、そうした個別の銅ではなく、銅を銅たらしめる「銅性」とでも呼ぶべきものだ。金属であり、電流を通し、重さを持ち、光沢があり……、そうした銅としての性質そのものを普遍者とみなす。
我々は、言葉を話すときに個別の銅を話題にしているだけではなく、普遍者としての銅を題材にしうる。「一般に銅は電気を通し、酸化すると緑色になり……」という性質は、個々の銅の話をしているのではなく、それら個々の性質を背後で裏付けている普遍的な何かを話題にしているはずだ。もし個物だけしか話題にできないのであれば、我々の使用できる言語の幅は驚くほど狭まってしまうだろう。
では、そうした普遍者は実在しているのか。それとも、言語を使用する上で仮定されるものに過ぎないのか。
普遍論争の一方の側……「実在(実念)論者」は、明らかに普遍者が存在するという立場をとった。普遍者は、我々の住まう地上よりも一段高いところに存在しているのだ、と。
彼らにとって、地上のもの全ては神がお創りになったものでなければならなかった。まず、神は地上の設計図をお創りになり、それから実体をお与えになった。その設計図の側が「普遍者」であり、実体の側が「個々の事物」であるということだ。神が存在し、創造行為を行ったのなら、普遍者は絶対に存在しなければならないのだ。
だが、「実在論」と対立する「唯名論者」は、そこに矛盾の匂いを嗅ぎ取っていた。普遍者が存在する? どこに? それはどうやって個々の事物とつながっているんだ? 様々な疑問が思い浮かぶ。
だが、ここでは焦点を一つに絞ろう。
人間という普遍的性質が存在するとする。それは、個々の人間(アリストテレスでも、習近平でもなんでもいい)の一部分なのか、全体なのか。
全体と考えてしまうと、明らかに矛盾に陥る。個々の人間の全体が、ただ唯一の「人間性」に収斂されてしまうのなら、人間に個性は無くなってしまう。ただの概念おばけになってしまうだろう。
では、個々の人間の一部分だけが「人間という性質」なのだとしたら矛盾は防げるだろうか? 例えば、目や肌の色や学歴などの個性は、「人間という性質」からは除外される。だがそうすると、「人間という性質」以外の部分は「人間」では無くなってしまうのではないか。
……、普遍的性質の実在を素朴に認めてしまうと、このような矛盾にぶつかることになる。
その矛盾を解消する方法の一つとして、性質の階層化があると思うが、ここで詳細を語る余力はない。
とにかく、我々現代人の多くは、唯名論的な立場をとっていると思われる。
だが。
ではもし、人類の知性を超えるコンピュータが開発されたとして(そう遠くない日に実現されるという説もある)、彼は唯名論と実在論のどちらの立場を取るのだろうか。それでもコンピュータは、ある意味で人間よりも頭が「硬い」だろう。曖昧で、何が起こるのかわからない、唯名論的な世界が許せないかもしれない。彼の思考は、実在論に親和性があるかもしれない。
彼は、地上に普遍者をもたらそうとして……、世界を壊そうとするかもしれない。
そのとき、人類は世界を救えるだろうか。