7 休暇
年季の入った古式床しいその引き戸を開けて、桐のような匂いがわずかにする室内に足を進める。中は少し狭いながらも明るく、清潔感に満ちていてどこか落ち着く雰囲気だった。
カウンターのようになっている席がいくつか。テーブル席になっているのがいくつか。まだ昼にはちっとばかし早い時間だというのにすでに観光に来たのであろう老夫婦が席に座っている。二人とも見た目も仕草も上品で教養の高さが伺えた。
いや、言い方を少し改めよう。ここはそういう連中が来る場所ってだけだ。間違っても学校サボって仕事してる可憐な美少女やヤクザも腰を抜かすような真っ黒サングラスが来る場所ではない。店の品格にふさわしい客──逆説的に、でいいのかわからねえがともかく、ここはこの客の品格にふさわしい品格をもつ店だってことだ。
「らっしゃい。お二人で?」
「ああ」
紺の作務衣っぽいのを着た老主人はそんなオレたちを見ても眉一つ動かさない。
アカツキがいつもより若干弾んだ声で応えカウンター席へと腰を下ろした。内心ビクビクしながらもオレもそれに倣ってアカツキの隣へと腰掛ける。その瞬間に、どこからともなく熱い緑茶が差し出された。なかなか渋くて味のあるいい湯飲みだ。
「ご注文は?」
「とりあえず任せる。腹いっぱい食いたい気分なんだ。……ああ、一応こいつの入社祝いも兼ねてる。金に糸目はつけねえ」
「左様で」
にこりと笑った老主人はアカツキのこういう場にはあまりふさわしくない発言を気にした様子もない。その節くれだった、そして言葉にしがたい職人の美しさをもつ指を使って準備を始める。
「へい。特上握りだ。──腹いっぱい食ってくれ、お嬢ちゃん」
「うぉぉ……!」
生まれて始めての──回らない高級お鮨屋さんだった。
「大トロ! サーモン! あとイクラとネギマグロの軍艦!」
「シメサバ、イワシ、ブリと玉のシャリ抜きも追加だ」
「へい、少々お待ちを」
うまい。すごくうまい。すごくうまいお寿司だ。いや、寿司じゃなくて鮨だ。
ネタの全てが新鮮で口にとろりと海の幸せをもたらしてくれる。さっき食べたトロなんて本当にとろっと口の中で溶けていきやがった。全然生臭くなんてないし、わさびだってツンとするけどすっごくすっきりした風味だ。酢飯の酢だって全然きつくないし、米の一粒一粒が輝いている。醤油だってたぶん特別なやつだろう。いままで食べてた回転寿司なんて寿司じゃねえってのがよくわかる。ありゃただ単に米に魚の切り身乗っけただけの何かだ。
「へい、おまち」
追加で来たのをよく味わいつつも、嵐のような勢いで貪り続ける。旨くて旨くて手が止められねえし、いくらだって食べられちまいそうだ。シャリもネタも全部いい。そしてなにより、この老主人の腕がいい。もっと若かったらきっと惚れちまってたな!
「経費で全部落ちる。好きなだけ食っとけ」
「あたぼうよ!」
アカツキもものすごい勢いで食べていた。なんだかんだで昨日も今日もろくなメシを食ってないし、そもそも寝不足でお疲れ気味だったんだ。腹もさぞかし空いていただろうし、そうでなかったとしてもこんな旨いものに飛びつかないはずがない。
部活帰りの男子高校生もびっくりするような勢いで鮨を貪るオレたちを、老主人はただただ目を細めてにこやかに見つめている。
「そこまで豪快に食べてもらえると、鮨屋として天にも昇る気持ちになるってものですわ。お客さん見たところ……DWCの人ですかい?」
「ああ。ウチのボス……西嶋が以前教えてくれてな。いつか来たいと思ってたんだ」
「ああ、やっぱり。お客さんたち二人とも、源蔵さんに雰囲気がよく似ている。私は昔、彼にお世話になったんだよ。最近忙しいのかなかなか来てくれないが、元気そうなのかい?」
「まぁ、生きてはいるさ。社長室でふんぞり返りながら書類に判子を押しているよ。来る日も来る日も毎日だ。面倒くさい会議に出る事だって少なくない。仕事は楽だがつまらないんだとよ。たまには外に出たいとボヤいてたぜ」
「あの人らしいというか……いつでも来てくれと伝えておいてくれるとうれしい」
「ああ」
アカツキと老主人がなんかしゃべくってるけどどうでもいい。それよりかは今はこのお鮨だ。さっきチラッと品書きが見えたけど、とてもこんなバカ食いしてタダで済むようなお値段じゃない。諭吉さんがバスケの試合を組めるくらい必要になるだろう。食えるときにめいっぱい、最大限に味わいながら食わねーとな。こんな機会、いつ訪れるのかわかったものじゃない。
三十分ほど海の恵みを味わう作業に専念する。お愛想のときにチラッと見えた金額に腰を抜かしそうになったが、アカツキが社員証とカードでポンと払うところを見て大人ってすごいと思った。いい機会だからって領収書の書き方を覚えさせられたりもしたが、旨いお鮨を食べた対価としては安すぎるものだったな。
……今更だけどこんな贅沢で領収書って切れるものなのか?
「で、次はどこいくんだ!?」
「この先にあるサービスエリアだ!」
喉かな農耕地をぶったぎるように走っている高速道路。黒いバイクにまたがったオレたちはそんな高速道路をかっ飛ばしている。田舎だからか車も少なめで空気も割りときれいだ。メーターが見えないからよくわかんねえけど、たぶん時速150km近く出てるんじゃないだろうか。気持ちいいのは確かなんだが、どうやらアカツキには法令遵守の精神はないらしい。
「本社行くんじゃねえのかよ!」
「寄り道だ! ちょっと遠回りになってるだけで問題ない! それに休日だしな!」
今更だけど、今日は仕事も何もしないで休日にするってことになっている。ま、休日って言っても本社に向かわなきゃいけないんだが、その途中でちょっとした贅沢をしようってことになったんだ。どうせ一日で着く距離でもないらしいし、この数日で三人も未登録の野良トリアルをとっ捕まえることが出来たしな。ちょっと聞いたけど、これってけっこう異例の速さらしい。さすがオレ。
さて、そんなこんなしているうちに件のサービスエリアへと到着する。なるほど、その場に着いてみるとアカツキが目的地にした理由がよくわかる。
「でっけぇなぁ……」
体育館並みにでかい建物。すっごく広いトイレ。噴水チックなものもついている涼やかな休憩所。三十台くらいまとめて給油できそうなガソリンスタンド。なんつーか施設の一つ一つが無駄に豪華だ。こうしてみると、昨晩のサービスエリアがいかに貧相なものだったのかが再確認できる。なんでサービスエリアってこうも極端に質が違うんだろうな?
「サービスエリアにしたってサービスしすぎだろ」
「世の中競争なんだ。サービスで負けたら潰れちまうんだろ」
家族連れや観光客なんかでけっこう賑わっている。あちこちにある出店がバラまくうまそうな匂いに心が躍る。普通に休みだったのか、はたまた有休をとったのかはわからないが、そこかしこで企業戦士なサラリーマンが頼れるお父さんとして家族サービスを施しているようだ。
最近のサービスエリアは進んでいるとよく聞くが、もはや休憩所という本来の役目を超えてテーマパークみたいになっていた。アカツキいわく、これでも人の少ない方だって言うから驚きだ。
「ほら、こっちだ。ここのソフトクリームがうまいんだ」
「おお」
アカツキは乱立する出店に目もくれずにまっすぐと長閑で牧歌的な見た目の小屋っぽいのに近づいていった。その傍らには時折見かける子供の背丈ほどの大きさのソフトクリームの模型がある。だいぶ古くこそなっているものの、手入れが行き届いているのか汚れたりなどはしていない。
カランカラン
「~♪」
心地よい涼やかな鐘の音と共に、ちっちゃい女の子がうれしそうに大きなソフトクリームを持ってそこから出てきた。思わずこっちまで頬が緩んじまうような、かわいい子供特有のぱぁっとした最っ高の笑顔だ。こういうのを見ると荒んだ心も癒されるってもんだ。
とてとてと短い手足を動かし、全身でソフトクリームの喜びを表現するように進みだす。
そして──ソフトクリームに気をとられてろくに前を見ていなかったため、アカツキとぶつかった。真っ黒なコートに真っ白のソフトクリームの花が咲く。
「あっ!」
女の子はその衝撃で尻餅をついちまった。何が起こったのか理解できてないらしく、きょとんとして目をパチパチとさせる。
ソフトクリームそのものがコートからゆっくりと滑り落ち、そして地面にぼとっと落ちた。女の子の手にはコーンだけが残っている。
「あ……」
それに気付いた女の子はまず最初にくしゃっと顔を歪めて泣きそうな表情になった。だが、親の教育がよかったのかそこでは泣き出さず、ぶつかってしまった相手に謝ろうと顔を上げる。そしてぴしり、とはっきりわかるくらいに顔を引きつらせた。
「おい……」
「……っ!」
そりゃそうだ。よりによってヤクザのほうが可愛く見えるアカツキだもんな。
女の子は泣きそうな表情から一周回って乾いた笑みを浮かべてしまっていた。たぶん、オレがあれくらいの年だったらギャン泣きしていたことだろう。どうしてなかなか、精神的に強いようだ。あいつはたぶん将来大物になるな。
「おい」
「ご、ごめんなさい……」
「気をつけろ。俺だからよかったものの、これが道路だったら車に轢かれてたんだぞ。……ほら、新しいの買ってやるからついてこい。まだ一口も食ってなかったじゃねえか」
「え?」
あれ、オレの耳おかしくなった?
アカツキはコートにソフトクリームを滴らせたまま女の子の手を引いて──そう、女の子の手を引いて店内に入ったんだ。
「あら、かなちゃん、どうした──の!?」
「な、なんだキミは!? 娘を放せ!」
「ちがうの! あのね、かなね、このおにいさんのコートにソフトクリームを……!」
「ああ、気にするこたぁねぇ。こっちもうっかりしてたしな」
「も、申し訳ありません!」
「く、クリーニング代を……!」
「だから気にするこたぁねぇって」
しかも、それだけじゃない。恐縮しまくって顔を真っ青にしている女の子の両親に手をひらひらと振って気にするなと態度で示し、一番でっかい、超ジャンボサイズの五百円以上もするスペシャルソフトクリームを女の子に奢ってやったんだ! 自分のコートのことなんて一切触れずに!
「ほら、今度は落とすんじゃねえぞ」
「うん! ありがと、おにーさん! でも……本当にかな、なにもしなくていーの?」
「じゃあ、お前が大きくなって似たような子供を見たら、そいつにソフトクリームをおごってやってくれ。その店で一番高い、一番うまいやつをだ」
「うん、わかった!」
誰だ、こいつは!? なんでそんな道徳じみた台詞をそんなツラで吐ける!? くそっ、なんだよこれ!? なんなんだよこれ!?
「おい、お前本当にアカツキか!? どっかで頭ぶつけたのか!? ストレスと寝不足でおかしくなったのか!?」
「あ? なに言ってやがる。ふざけた寝言は寝て言えよ」
なんどもぺこぺこと頭を下げる両親と、最初に見た笑顔よりも百倍かわいい、とろけるような笑顔をにっこりと浮かべる幼女に手をひらひらとふって見送るアカツキ。
相変わらず顔はおっかないし口調も子供の教育に大変よろしくないものではあるが、その行動だけで見れば……まるで優しくてかっこいいおにいさんみたいじゃねーか!
「クソガキならともかく、あんなちっこい子供の不注意にいちいち腹立てる大人がいるかよ」
普段の言動からはとても想像できない模範的な行動。女であろうと容赦なく腹蹴りをかまし、相手が子供だろうが一切の容赦をしないアカツキが。布団が薄いってだけで激昂し、寝不足とクズトリアルの処理でここ最近イライラを募らせているアカツキが。
そんなアカツキが、こんな行動を取るのか?
いや、答えは否だ。そんなはずあるわけがない。つまり、これら一連の行動の理由として考えられるのはアレしかない。現実的にありえないことを、いとも簡単に現実にしてしまうアレしか──!
「──新手のトリアルかッ!?」
「おいちょっとまて」
「すでになんらかの能力による攻撃を受けている……!? 一体いつからだッ!?」
「それ以上口を利くんじゃねぇ。いくら俺でもブチ切れるぞ」
ごちんとゲンコツが落とされた。なんかいつも以上に力が入っていた気がする。目の前で星が散った。ああ、すごく痛い。
間違いない。こいつは正真正銘アカツキだ。
「あら、やっぱりいつものお兄さんじゃない! 久しぶりね!」
ひりひりする頭をさすっていたら売り子のお姉さんがアカツキに朗らかに笑いかけていた。これもまた意外なことにずいぶんと親しげなかんじだ。アカツキのほうはうざったそうにソフトクリームを受け取っているが、お姉さんのほうはそれをみてもにこにこ笑っている。
……さっきから一体何なんだ? やっぱなにかしらのトリアルが作用しているのか?
「アカツキ、知り合い?」
「まさか。そんなたいそうな──」
「やだ! 別の女の子連れてる!? いつもの彼女さんはどうしたの!?」
「え?」
お姉さんは頬を手に当ててわざとらしく驚いて見せている。いや、それよりも重要なのはさっきの発言だ。"いつもの彼女さん”って誰だ? こんな外道という言葉で表すのには生温すぎる生き方をするアカツキに彼女なんているのか!?
「その話詳しく」
「ええとね、彼、ちょくちょく彼女と一緒にソフトクリーム食べにくるのよ。ちょっとした常連さんなの」
「……こいつが? 人違いじゃねえ?」
「ううん、そんなことないわ。始めてきたときも、ああしてコートにアイスつけられてたもの。そのときだって子供にアイスを買ってあげてたの!」
「おい、勝手に人のことしゃべってんじゃねえ」
お姉さんいわく、アカツキはかなり前からここのソフトクリームを食べに来ていたらしい。正確に言うと、アカツキの同行者である彼女とやらがここのソフトクリームを気に入って以来ちょくちょく訪れるようになったそうだ。
やっぱり始めてきたときも子供に服を汚され、そして若干しょんぼりしながら、彼女に慰められながらソフトクリームを食べていたそうだ。
……なにがこいつをこうまで変えてしまったんだろうな。
「そのコート、染みになっちゃいますし軽くでいいなら処理しましょうか? あまり時間はかかりませんよ」
「チッ!」
「彼女さんには内緒にしておきますね!」
「変な勘違いするな。こいつは部下だ。俺に乳臭いガキの趣味はねぇ」
「そういうことにしておきますよ!」
しぶしぶながらもアカツキはコートを脱いでそのお姉さんに渡した。なんでも、通いつめていくうちに彼女とこのお姉さんが友達になってしまったらしい。割といろいろ融通を利かせてくれるそうだ。
「ほら、さっさと食え。せっかく買ったんだから」
外の日当たりのいいベンチに腰を下ろす。風が吹いてて気持ちがいい。やっぱソフトクリームってのはこういう環境で食べるべきものなんだよ。しかも、サービスエリアのソフトクリームだ。自慢じゃないが、オレはサービスエリアのソフトクリームには目がないんだよな。
「さて、時間も出来ちまったことだし食いながらでいいから耳を貸せ」
「うん?」
「本当は本社にいってからやりたかったんだが、万が一を考えて今説明しておく。──トリアル戦闘のイロハだ」
自然と背筋が伸びた。舌先に触れる白い恵みが大変すばらしい。最高だ。
「偶然だとは思うが、この短い期間で三人もカチあったからな。知っておいて損はねえだろう」
ここでアカツキはソフトクリームをぱくりと齧った。スペシャルサイズだからまだまだ余裕はある。わずかに黄色がかった濃厚なソフトクリームはミルクのうっとりした香りを撒き散らしている。
「トリアルは多種多様でその能力もまったく未知だが、実は大きく三つに分けられることが統計的にわかっている」
「三つ?」
「ああ。物を作り出す能力、何かしらの形で自分を強化する能力、それ以外の三つだ。お前が会った三人のトリアルは全部物を作り出すトリアルってことになるな」
炎のブーメランを作り出すキャップ野郎、盗むネックレスを作り出すヒスババア、そして引っ張るリンゴを作り出す優男だ。言われてみりゃそんな気もするな。あ、バニラの鼻に抜ける感じがすっごくいい。
「この物を作り出す能力ってのは大体の場合、訓練次第で何個でも出せるようになるし大きさだって自由に変えられる。トリアル本人に直接の戦闘力がないってのも特徴だな。で、作り出したものには何かしらの特殊能力が付与されていることがほとんどだ」
「キャップ野郎は燃える、ヒスババアは盗む、優男は引っ張るってか?」
「ああ。詳しいことはまだわからねえが、大方そんなところだろう。もちろん、それ以外の特性があるってこともあるな」
それ以外って言うとあれか。キャップの場合は自在に操る、優男の場合は弾力性も持たせられる、ヒスバアアは……なんだろうな。あいつ一番弱かったし盗むのと動かすことだけしかできないのかもしれねえな。
「あと、生き物を作るのもこれに該当させている。ウチにも一応三人……いや、二人いるんだ」
生き物を作る、ねぇ。やっぱそれも特殊能力もちなんだろうな。トリアルってのは奥が深いもんだ。
「次に何かしらの形で自分を強化する能力だ。こいつらは文字通りトリアル本人に直接の戦闘能力がある。これはおまえが該当するな」
「《ライクライクストライク》だな。ま、物を作るってかんじでもねーし、それ以外ってわけでもないしな」
「これもまた一長一短があって一概にはなんともいえないんだが、トリアル戦闘においては相手と接近して戦うケースが多いな。ただ、傍目からはトリアル能力者そのものは一般人──俺たちの業界でノントリアルというんだが──に見えるから潜入なんかに向いている。見られちまったときもごまかしやすい」
「ふむふむ」
たしかにオレの《ライクライクストライク》だってごまかしやすい部類に入るだろう。まさかこんな可憐で美しい美少女が大岩をも砕く必殺の拳を放つなんて偉い学者でもわかりはしまい。あ、ソフトクリームちょっとたれて来た。急いで食わねえと。
「最後にそれ以外の能力だ。こいつばかりは見るまでなにがあるかわからん」
「みたことあんの?」
「あくまで俺たちが勝手につけた分類だからなんともいえないが……。登録済みのトリアルに笑うことで相手に直接気持ちを伝えるってのがあるな。特別活動課でもそれに該当させていいやつがいる。未確認のトリアルにもわけわかんねえクソみてえな能力を持つやつがいるな」
「へぇ」
「おおまかな傾向だが、この三つの中では物を作り出すトリアルが一番多いな。ウチも半分がそうだ」
「アカツキ、お前は?」
「……トリアル戦闘のイロハのイ、覚えておけ。『自分の能力を相手に悟られるな』だ」
なんか旨くはぐらかされたような気がするが、まあよしとしよう。ん、ここはコーンもうまいな。最近のはソフトクリームばかりに力を入れてコーンをおろそかにしているところが多いんだよ。この店、なかなかわかってるじゃねえか。
「知られたら対策を立てられちまうからな。理想としては極力能力を見せず、確実に一発で仕留めることだ。だが、出し惜しみして負けたら意味がねえ。その辺は慣れていくしかないだろう」
たしかに、オレの能力なんて特にそれが顕著だ。ノントリアルのフリしてすこしでも攻撃を加えられればそれでオシマイだもんな。むしろ、手加減するほうが難しいくらいだ。
「次にイロハのロだ。『相手の能力を推測しろ』。特に発動したトリアルの観察、そして相手のトリアル名から能力を推測することをさす」
「おお」
よく考えりゃキャップ野郎の《メラメラブーメラン》とかそのまんまだもんな。ヒスババアのは《クレクレネックレス》だったか? 物をくれ、ってのとネックレスをかけてるってわけだ。優男のはアップルと英語のpull──引っ張ると擬態語のプルプルってところか。
毎回思うがほんとセンスねぇよな。もしトリアルの神様がいるんだとしたらぶん殴ってやりたいね。
「名前がわかりゃ能力もわかる場合もある。おまえのはちょっとわかりにくいが──like、つまり全ての攻撃を必殺の一撃と同様にするってところだろ」
「なぁ、なんでトリアルってこんなサムいダジャレみたいな名前してんだ?」
「知るか。俺だって聞きてぇよ。つーかトリアルの大半はそう思ってんだよ!」
オレのはカッコいいからいいとして、他のトリアルが不憫でならない。今はまだいいけど、変な名前のトリアルと遭遇しちまったら戦闘中に腹を抱えて笑ってしまう自信がある。
……あるいはそれも敵のトリアル能力なのかもしれない。気をつけとかないと。あ、このソフトクリーム、コーンの中までみっしり詰まってるじゃねえか! いまどきそうそうみられねーぞ!?
「あと、あの……能力を発動するときに名乗りを上げるだろ? お前の場合"拳撃必殺”だったな。あれもよく聞いとけ」
「ああ、それを聞いてたからキャップ野郎は拳からしか能力を発動できないと思ってたんだな」
「例外もあるってことだ。で、これが重要なんだが、トリアルはこれを一回でも叫ばないと全力を出すことが出来ない」
「は?」
いまなんつったこいつ?
「そのままだ。なぜかわからねえが、叫ばないと全力が出ねえんだ。だが、叫んじまったら相手に能力がバレるリスクが高まる。どこで名乗りを上げるのかってのが戦闘を左右するといっても過言じゃない。前の話とちょっと被るが、さっさと仕留めるか安全をとって能力を使わないか、そこが一番難しいところだな」
本当になんでこんな制限があるんだ? わけわかんねぇ。
「最後にイロハのハだ。『相性が悪かったらさっさと逃げろ』。前にも言ったが、トリアルに有利不利はあっても最強はない。が、相性的に絶対勝てないやつってのもいる。そんなのと当たったらさっさと逃げて救援要請だ」
オレとヒスババアみたいなもんだな。あいつの貧弱なネックレスじゃオレを拘束なんてできないし、盗もうにも体そのものが武器だから盗めるものがない。トリアル能力で傷つけられないとなると自分自身で動かにゃならんが、ナイフやスコップじゃ返り討ちにあうだけだし、拳銃なんかがそこらにあるはずもない。
「でも、救援要請ができないときもあるだろ? そんときゃどうするんだ?」
「ない知恵絞って周りのものを最大限に活かせ。いいか、トリアルってのはあくまで武器なんだ。戦う手段の一つに過ぎないんだよ。それに縛られない柔軟な考えが重要なんだ」
なるほど、アカツキにしてはいいことを言うな。たしかに、オレ以外の人間が《ライクライクストライク》を使えたとしてもオレ以上に効果的に使うことは出来ないだろう。このオレの素敵すぎる灰色の脳細胞があったからこそ、今まで無事にクズトリアルどもをぶちのめすことができたってわけだ。さすがオレ。
「とりあえずはこんなもんだが……なにか質問はあるか?」
「あ、いっこだけある」
「なんだ?」
コーンの最後のひとかけらを口に放り込む。歯で押し込むとかしゅっといい音がした。なんだかんだでここが一番おいしい。加えて言えば、ここまでしっかりとソフトクリームが詰まっているかどうかでその店の評価が決まる。もちろんここのは文句なしの満点だ。
「トリアルってなんでトリアルって言うんだ? これもやっぱサムいダジャレか?」
「ああ、それは──」
ぺろりと最後の一口を平らげたアカツキが放った言葉。
「──ってわけだ」
「ふーん。割とどうでもいいな」
「聞いといてそれかよ……」
「お兄さん、処理終わりましたよ! あくまで応急処置ですので早めにクリーニングに出してくださいね!」
ちょうど話が途切れたタイミングでさっきのお姉さんが黒いコートをもってやってくる。アカツキはそれを無造作に受け取り、感謝の意がまるでこもっていない感謝の言葉を告げてそれを羽織った。相変わらず、どこにでても場違いなクソダサいコートだ。
ここだけの話、オレはこいつと一緒に歩くのがひどく恥ずかしくなることがあるんだよな。もっとオレのキャスケットみたいにオシャレを意識してもらいたいものだ。いや、オシャレしなくていいから最低限人前に出て恥ずかしくない格好をしてほしい。
「おら、食い終わったしもう行くぞ」
「せわしねえなぁ」
「また来てくださいね!」
黒いバイクがうなりをあげ、高速道路をかっ飛ばしていく。
さて、次はどこへいくのだろうか。
「ちぃっと早いがそろそろ宿を探さねえか?」
「ああ。俺もそう思っていたところだ」
時刻はまだ十六時になるかならないかってところだろう。あれからいろんなところでいろんなもの──玉蒟蒻や饅頭なんかを食べ歩きしたオレたちは知る人ぞ知る観光名所的な場所へと来ていた。
近くに温泉があるらしく硫黄の匂いが鼻をくすぐり、風流な暖簾なんかが異国情緒に溢れていいかんじだ。普通の民家も昔ながらの建築模様で町並みがすっごくそれっぽい。条例かなにかで外観を保っているんだろう。
自然も豊かでそこかしこに緑が見える。ちょっと離れたところには森のような山のような地形が広がっているらしい。近くには本格的な運動公園もあるそうだ。さっきのコンビニで見つけたパンフレットに書いてあったから間違いない。
「アテはあるのか?」
「ああ。……ここだ」
キキッと音を立ててバイクが止まる。他の建物よりもちょっぴり豪華な外装。和の趣をふんだんに取り入れ、それでいて見るものを安心させるような、どこか懐かしい建物。おそらく五階建てくらいだろうが、いい意味で実際よりも大きく、そして小さく見えた。
「DWCの本社員だ。一番いい部屋、空いてるか?」
「え、あ、本物?」
フロントのねーちゃんに社員証を見せるアカツキ。どうやらここもDWCの系列らしい。本当にいろんな分野に手を出してるようだ。こんなでっかい旅館も持ってるなんて聞いたことがない……というか、ちょっとあたりを見回すとそこかしこに自社製品が溢れている。やっぱ本社についたらこのへんも勉強しなきゃいけないんだろうか。
ねーちゃんは最初こそ面食らっていたけど、すぐに落ち着きを取り戻し、なにやら上と連絡を取り出した。
「お二人様でよろしいでしょうか?」
「ああ」
「一部屋なら空いているのですが……。その、この時期はとても賑わっておりまして」
だろうな。オレたちがこうしている間にも予約したのであろう客が集まってきているし、そもそも今日は連休の初日だ。ここは観光名所としては最高な場所でもあるし、そもそもこの時期はどこだって混む。
「しょうがねえ。我慢してやるからそこにしようぜ。オレ、高級旅館のいっちばんいい部屋に一度泊まってみたかったんだよな」
「我慢してやるってのは俺の台詞だ」
アカツキは小さく舌打ちしながら鍵を受け取った。
それを確かめてからねーちゃんが細かい説明を始める。
夕食は十九時以降に一階の食堂で。大浴場はもちろん温泉でそれも源泉かけ流し。しかも露天風呂やサウナなんかもしっかり完備されている上、二十三~五時を除いていつでも入っていいらしい。オレたちの泊まる部屋には個別の温泉もついているそうだ。当然、こっちも露天風呂つきのヒノキ風呂らしい。
「うぉ、マジですげえな!」
最高級の部屋──ここでは龍の間というらしい──に入った瞬間、いろんな意味で威圧された。畳と木のいい匂いになんかすごそうな掛け軸。割ったらゲンコツ程度では済まなさそうな意味ありげな壷。テレビも冷蔵庫も最新式のすっきりしたデザインで、大きな窓からはきれいな景色を望める。
部屋は……和室が三つだ。一部屋あたり十畳はあるだろう。それに風呂だのトイレだの、そして洗面所がついている。そのすべてが広々としたデザインで、下手したら貧相な宿の個室くらいの大きさがあるんじゃないかって程だ。たった二人でこれだけの広さってどんだけ贅沢なんだよこれ。
「まあまあだな」
「いやいやいや」
これでまあまあなんて言ったらバチがあたる。備え付けの歯ブラシも高級感が漂っているし、シャンプーやリンスも最高級品じゃないか。ドライヤーも浴衣も、目に付くアメニティの全てが一級品ばかりだ。素人のオレですらわかる一級品ってどんだけすごいんだよ。
「風呂いってくる!」
旅装をとくのもそこそこに、つーかもともと荷物らしい荷物もないけれど、とにかくお風呂セットをもって浴場へ。階段を静かに駆け下り、脱衣所でいそいそと服を脱ぎ、がらりと扉をあけるとかぽーんといい音が聞こえた気がした。
「おお……!」
温泉特有の硫黄の匂いとヒノキの匂いが混じった空間。こぽこぽと溢れ続ける温泉が心を落ち着けてくれる。ゆったりとしたそのスペースには、まだ早い時間ということもあって誰もいない。一番風呂の、それも貸切風呂だった。
「なんだこれ……!? なんだこれ……!?」
手に感じるシャンプーの感触が全然違う。さらっとしてるけど滑らかで、なんか飲み干してしまいたいくらいだ。せっかくなので気前よく三プッシュもしてやる。ボディソープもだ。
三プッシュ、三プッシュもしちゃったんだぞ!
「うへへ……!」
こんな贅沢ついぞしたことがない。全身をくまなく泡だらけにして頭からあっついお湯を被る。
これだけでもオレの美しすぎる体は国宝レベルへと昇華したが、ここで美への追求をやめるオレではない。さらに秘密兵器──リンスを投入する。
「香りが全然ちげぇ……!?」
すんすんと光沢のあるそれに鼻を近づける。柑橘のような花のようないい香りだ。こちらもやはり三プッシュの贅沢をして、いつも以上に丁寧に世界がうらやむ美髪に絡ませていく。
オレの美髪は人類の至宝を超えて世界を揺るがす決戦兵器になった。
「さて……とうとうてめえの番だ」
そっとオレの美脚を温泉に近づける。足先がちゃぽんと触れた。ちょっと熱かったが、まぁそのうち慣れるだろう。
「んぅ──……!」
全身に浸かると、自然に声が漏れ出てしまった。
じんわりと体の芯からゆっくりと温まってくる。この数日でのトリアル戦闘で溜まった疲労が温泉に溶け出て行ったような気がした。
ぱしゃっと湯でオレの美しい腕を撫でる。まだ入ったばかりだというのに、もういつにもましてすべすべになってきた。冗談抜きに輝いてきている。
「……」
まわりに誰もいないことを確認し、景気よく体を伸ばして足をバタバタと動かす。ちょっとガキっぽいが、オレは誰もいない広い風呂でこれをやるのが好きだ。足先から波紋が広がっていくのを見るのがなんか面白いんだよな。
「ふぃ──……」
風呂でゆったりと目をつぶる……これほどの贅沢があるだろうか。ぬれた髪がうなじに張り付き、そこはかとなくこそばゆい。こぽこぽと源泉が流れる音がいいバックミュージックだ。できればそれにあわせて一発歌でも歌いたいものだが、ここでオレが歌ってしまったら世界中の芸能プロダクションが血眼になってオレをスカウトしに来てしまうだろう。カラオケには最高の環境だが、オレってばどこまでも罪な女だ。
十分に温泉を堪能した後、頃合を見計らって湯から上がり、丁寧に髪の水分を取って浴衣を着る。ちょっと鏡をのぞいたら、艶やかな短め黒髪のびっくりするような浴衣美少女がいて惚れそうになった。赤くなった頬とぬれた髪、浴衣からちらりとのぞく玉のような肌がすっごくセクシーだ。
「よぅ、戻ったぜ」
「おう」
アカツキも風呂に行ってたらしく、ほかほかと湯気を体から出した浴衣姿で部屋の真ん中に座りテレビを見ていた。どうやらこいつはカラスの行水だったらしい。あんなに立派な温泉だったというのにきちんと味わったのだろうか。
「コーラとオレンジ、どっちだ?」
「コーラ」
机に置かれていた缶コーラをアカツキは無造作に放る。それは寸分たがわずオレの手元へと落ちてきた。相変わらず無駄にコントロールがいい。固めのプルタブをぐいっとひねって一気に呷る。
「ぷっはぁ!」
「じじくせぇなぁ……」
風呂上りのコーラ、最高だ。
「そうだ、さっき聞かれたんだが飯はここに持ってきてもらうことにした。この部屋だとそういうサービスもあるんだとよ」
オレンジをぐびりとやりながらアカツキが言う。その缶の持ち方は非常にオヤジ臭く、飲んでいるのが缶ビールなのではないか、と思えてしまうほどだ。
ふと思ったんだが、こいつってサングラス外すと少しはマシな顔つきになるよな。目つき以外。
まぁそれはどうでもいいとして、この提案は渡りに船だ。アカツキにしては気が利くじゃないか。
「構わねえよ。むしろそうしてくれるほうがいいな。ちょうど、二十時から見たいテレビがあったんだよ」
実はさりげなく昨晩からなんとかしてテレビを見ようと考えてたんだよな。だからそれとなく仕事をしないように──休日になるように差し向けたし、宿を早めに探すように言ったりもした。いくらスマホで見られるとはいえ、やっぱり好きなテレビくらい大きな画面でゆっくりと見たい。
「あ? 俺もその時間に見たいテレビがあるんだが?」
「あ?」
おいいまこいつなんつった?
「なんのために休日にしたと思ってやがる。なんのために早めに宿を取ったと思ってやがる。なんのためにわざわざこんなバカ高い宿を選んだと思ってやがる?」
アカツキの目はマジだ。こいつは口に出したことをそう簡単に曲げたりはしない。こいつは自分の信念を貫くためなら、たとえ女の顔であろうと容赦なくメッタ打ちにするだろう。そういうやつだ。つーか実際似たようなことをやっているのをオレは見ている。
「全部、全部、この俺がゆったりとテレビを見るためだ」
「かわいい部下に譲ってやろうとは思わねえのか?」
「かわいい部下なら譲ってやるよ。かわいい部下ならな」
「あ?」
ピリッと空気が張り詰めた。オレとアカツキの間に奇妙な緊張が迸る。部屋は重圧感に満ち、双方ともが自然と立ち上がり重心を低くした。畳のざらざらが柔らかくなった足裏に心地よい。飛び掛ろうと思えばいつでも飛びかかれる距離。いつでも能力を発動できるようにしておく。
アカツキは手ごろな武器を探したのか、いつのまにやらいつもの高級枕を片手に持っていた。その構えには隙がなく、ちょっとでも油断すれば容赦なくそれをオレの顔面にブチ込んでくるだろう。
「上下関係ってのを教えこまねえとダメみたいだな。ったく、これだから新人研修はめんどくせえんだ。ゆとり教育の弊害か?」
「はっ! 好きでゆとりやったんじゃねーよ! そんな茶渋のこびり付いた考えは捨てろよな。だいたい、オレたちの世代はゆとりゆとりって言われながら水面下ではハードだったんだぜ?」
「……DWCの未確認トリアルと接触した際の規定を教えてやる。『言って聞かねえやつはぶん殴れ』だ」
「上等だコラァ!」
こうして始まった大喧嘩だったが、むかつくことに開始三十秒もしないうちにオレはアカツキに捉えられて無様に畳を舐めることになった。身動きできなけりゃ能力は発動しない。本当に腹立たしいことにアカツキはそのへんをオレよりよくわかっていやがる。さらにいえば、本当に一切の手加減をしない。オレみたいなか弱い乙女相手でもヤツの心にはなにも感じるものがないらしい。こいつには悪魔や鬼畜という言葉すら生温い。
「すみません、お夕食を……っ!?」
「ああ、気にするな。言うこと聞かねえ部下をシメてるだけだ。な、そうだろ?」
「ああそうだよちくしょうっ!」
仲居さんが来た為に一時的に休戦になったが、それでもテレビの選択権はアカツキの元にあるままだった。ヤツはリモコンを懐にしまい、テレビの前にどかりと腰を下ろす。そしてそのまま、時計の針は運命の時を刻んだ。
~♪
「……え?」
絶望に打ちひしがれる中、最新式のテレビから聞こえてきたのは何よりも待ち望んでいた穏やかなメロディ。一瞬自分の耳を疑った。
「よく覚えておけ。金曜の二十時は俺の時間だ」
画面に映る麦わら帽子の大柄な男と小さい女の子。続いて出てくる喫茶店のマスターとメイド服の女の子。畑と喫茶店と高校生と冒険者。
~♪~♪~♪♪~──......
「アカツキ、おまえこれ……」
「なんだ? 俺がアニメ見ちゃいけないのか?」
「いや、オレもこれ見たかったんだけど」
「そういうことは先に言え」
金曜二十時の戦いは双方のすれ違いがいけなかったらしい。人間、きちんと話し合えば分かり合えないこともないということがわかった。
行儀がちょっと悪いが、テレビを見ながら夕飯──すっごく豪華な懐石料理だ。たぶん諭吉さんが数人飛んで行く──に舌鼓を打ち、そしてちょっと早いが就寝準備へと入る。なんだかんだできちんと寝むるってのがここに泊まった理由だったしな。それに夜更かしは美容の大敵だ。いくらオレが絶世の美少女でも、こればっかりには抗えない。
「う、羽毛布団じゃねえか……!」
さすがにこのレベルの宿に抜かりはないのか、ここの布団はすっごくふかふかだ。なんか体がどんどん沈んでいって起き上がれなくなるんじゃないかって感じがもしたし、なんともいえない良い匂いもしたな。枕もすっごいふかふかしていて紛れもない高級品だったんだよ。
アカツキもそのふかふか布団に満足そうにしていたけど、枕だけは自分のを使っていた。本当にあいつは変なところで子供っぽい。さっきのアニメだって、例の彼女さんとやらが見ているのを横目で見て続きが気になったって話だ。
「ああ、これだよ。俺が求めていたのはこういう布団なんだよ。あんな湿気たクソみてえなせんべい布団は布団じゃあねえんだよ」
そのうれしそうな顔はまさにガキだ。まぁ、ここ最近まともな睡眠を取れてなかったから気持ちがわからないわけでもない。
「おら、早めに寝ろ」
「言われなくても」
刺殺事件の概要を話している禿たニュースキャスターを画面から消し去り、そして部屋の照明のスイッチに手をかける。まるで当たりまえかのように、ここの照明は……えーと、間接照明というヤツだった。仄かな光が心を落ち着けてくれる。
よし決めた。給料もらったら絶対に間接照明を買おう。オレのオシャレ度がオーバーフローするのがまぶたの裏に浮かんでくるな。
「明日の午後には本社につく予定だ。余裕はあるから朝はすこしゆっくりする」
「おうよ」
薄暗い室内には、その言葉を最後に寝息が響き渡ることになる。正直俺もふかふか布団と連日の疲れによる睡魔の攻撃に耐えられなかったんだ。夢すら見ないまどろみの世界へと沈んでいったのをぼんやりと覚えている。
まさに至高の、最高のおやすみタイムだったといえるだろう。
だが、残念ながらアカツキの言葉は現実にはならなかった。
早朝に届いた一通の勤務指示メールと旅館のフロントにやってきた警察官。
どうやらこの近くで奇妙な殺人事件が起こったらしかった。
そして尽きるストック。