気づいたけれど
「夕方に窓から見える女の子を知ってるかい?」
残業中、私はゆき君に話しかけた。
今日も残っているのは二人だけだ。
斜め向かいの彼女は、長い髪を揺らし、こちらに訝しい目を向ける。
「女の子って……犬を連れた中学生くらいの子のことでしょうか?」
「そうだよ」
夕方には、あの路地裏はその女の子しか通らない。
「彼女がどうかしたんですか?」
「どうもしないが……あの子、なにをしてると思う」
「えっ、犬の散歩じゃないんですか?」
「でもほら、あの子、ヘッドフォンを着けているだろう」
「ええ、目立ってますよね、大きいやつ。音楽が好きなんでしょうか」
「そこだよ」
「はい?」
彼女の仕事の手が止まる。
私は、パソコンに向き直る。
パタパタとキーを打つ。
「彼女にとって、音楽を聴くことと犬の散歩はどっちが大きいんだろう。それともトゥルーマンショーのように、あの道を歩くことそのものが目的なんだろうか。いや、もしかしたらヒットマンで誰かを狙っているのかもしれない」
「なんでもありじゃないですか」
ゆき君が笑う。
私も愉快げに口元を曲げる。
「こうやって考えてるうちに、なにか答えがでたら面白いんだけれど」
「そういえば……そういう小説を読んだことがあります」
「ふうん。どういう話なの?」
「確か……殺人事件のニュースを見てた人が、もしかして犯人は知り合いのアイツなんじゃないかと考えてみたら、はからずもその知り合いが犯人だと気づいてしまった、みたいなショートショートです」
「頭の中だけで、ニュースと友人がつながってしまったわけだ」
「そうなんです。もしかしたら甲斐さんも、彼女がヒットマンだってことに気づいちゃうかもしれませんね」
「まさかそんな」
「小説の主人公も、そうやって考えながら気づいていくんですよ」
「へえ……」
「甲斐さんの知り合いに、ヒットマンに狙われそうな人はいませんか? もしかしたら、そこから話が生まれるかもしれません」
「やめてくれ。怖くなってきたじゃないか……」
私は身を縮める。
彼女は、私に微笑んだ。
「良かったら、観察結果を教えてください」
「観察結果?」
「はい。あの子、いつもそこの道を通りますよね?」
「ああ。いつからなのかはわからないけどね」
「その子のことを意識して眺めていると、毎日なにかわかってくることがあるはずです。そこで甲斐さんが気づいたことを、私に聞かせてください」
「ああ……残業の日々の息抜きにはなるね」
「息抜きは必要です」
「わかった。それならやってみよう」
「ありがとうございます。じゃあ……少しコーヒーでも飲みますか? わたし、淹れてきますから」
「ん、ありがとう」
彼女が給湯室へと立つ。
私も背もたれに身体をあずけ、身体を伸ばした。
コーヒーの支度をする音。
残業をやりはじめて、もう二週間になるだろうか。
短納期の案件が重なっている。もうしばらく山は続くだろう。
こんな忙しさは、ひさしぶりのことだ。
いまは深夜一時。
ゆき君が、盆に二つコーヒーカップをのせて戻ってきた。
「甲斐さん、どうぞ」
「ありがとう。毎日遅くまで付き合ってもらって申しわけない」
「かまいませんよ。私、家も近いですから」
「でも、女性は化粧をしたり大変だろう」
「甲斐さんだって、遠くからお越しじゃないですか」
「まあ、僕たちが遅れると現場が大変になるからね。そのぶん頑張らなきゃならない」
熱いコーヒーが腹に染み渡る。
ゆき君はカップを両手で持ち、私の隣の椅子に座った。
「おつかれさまです。どれくらい進んでいますか?」
「だいぶ進んだけれど、道はながいね」
「ええ。道はながいですから、頑張っていきましょう」
ゆき君の声はとても柔和だ。
飲み終えたカップを給湯室に洗い行くと、私たちはまた、残り一時間だけ頑張ったのだった。
それから、残業のたびに女の子の話をするようになっていた。
「今日はどうでした?」
「ああ。見た目的に大きな変化があったね」
「見た目の変化ですか?」
私たちは仕事をしながら会話する。
「うん。妹のような子と一緒に歩いていたと思うけれど」
「ああ、そのことですね」
「姉妹で犬の散歩をするなんて、仲がいいね」
私が述べる。
すると、ゆき君は笑い声をもらした。
「あはは。今までとは違って、簡潔な予想でびっくりしました」
「そうかな?」
「だって甲斐さん、コーギーが縁石の上を歩いてたとき、『あのチャレンジ精神は元気で健康な証拠だ。きっと彼は家族に愛されているんだろう』って言ってたじゃないですか」
「言ったね」
「それなのに今日は、姉妹で犬の散歩するなんて仲がいい、なんて単純に言うから可笑しくて」
ゆき君は楽しげに話す。
私も思わず笑ってしまった。
「ゆき君に話すようになって思ったことがあるんだが」
「はい?」
「こうしてみると……なんだかあの子のことより、自分の能天気さがわかってくる気がしてならないね」
「ええ。甲斐さんは素敵な人ですよ」
「素敵?」
「人が幸せそうにみえるのは、甲斐さんが優しい人だからだと思います」
「そうかな」
「たぶん……他人って鏡になるんですよ。だから、ちょっと怖いところもあったり」
「怖い?」
「人のことを考えると、自分がなにを考えてるのかがわかっちゃうじゃないですか」
ゆき君はパソコンに向きなおる。
私も、ぼんやりとディスプレイを見つめる。
「自分の考えてることがわかる……か」
あの子は、どうして散歩をしているのか?
……なんてことを、どうして私は気にしたのだろう。
ふと考えてみて――私の頭に、思いがけない答えが浮かび上がってきた。
「もしかしたら、あの子のご両親は病気かなにかになっているのかもしれない」
「えっ、どうしてですか?」
「ほら、僕たちがあの子に気がついたのは、一週間前くらいだろう。少なくとも、二週間よりも前には全然見かけなかったと思う」
「ああ……そういえば」
「あの子はきっとお母さんが病気になって、かわりに散歩をしているんじゃないかな――つまり、疲れているお母さんために、あの女の子は散歩をしていたんだよ」
「そうとも考えられますね」
「うん。そして僕が彼女のことを気になったのは、あの子の姿を見習わなければならないと無意識のうちに思っていたからなのかもしれない……ゆき君、明日は休みを取るかい?」
「はい?」
「先週は土日も出てもらったからね。明日はゆっくりしてもらっていいよ」
「いえ、あの、私は大丈夫ですけれど……」
「そう? それならまあ……でも、無理はしないようにね」
「はい、ありがとうございます」
ここで会話は終わった。
しかし私は、帰り際にもう一度休みを取ることをゆき君にすすめてみた。
結局、ゆき君は半休を取ることになったのだった。
朝から、外は雨だった。
ゆき君は昼過ぎに出勤する予定だったものの、今までの疲れがでたらしく、午後に今日は休むとの連絡があった。
そして夕方。
なんとなく、いつものように窓の外に目をやった。
いつも、犬の散歩をしている女の子。
しかし、今日そこにいたのは……
やがて残業の時間。
私はゆき君に、明日も休んでもいいよとメールを送った。
その後、一人でパソコンに向かう。
それからしばらくしたときだった。
「あの……お疲れさまです」
私服姿でやってきたゆき君に、私はとまどう。
「おや、身体は大丈夫なの?」
「おかげさまで元気になりました。今日は本当にご迷惑をおかけしまって……」
「いやいや、迷惑をかけているのはこちらの方だし、僕のほうこそ本当に申し訳ない」
「あの、これ、お夜食にと思って持ってきました」
ゆき君がひろげた弁当箱に入っていたのは、手作りのサンドイッチだった。
「おお! ありがとう。もらっていいの?」
「どうぞ。今コーヒーも淹れてきますね」
「いやいや、そこまではいいよ……すまないね」
「お気になさらずに。私、これが終わったら帰りますから」
「僕のメール、逆に気を使わせてしまったかな」
「メールですか? ああ……いいえ。元から差し入れは持ってこようと思っていましたから」
ゆき君はにっこりと微笑む。
「ご心配ありがとうございます。けれど、甘えてばかりもいられませんから」
「そういえば、あの女の子のことなんだけれど……」
「彼女が、どうかしたんですか?」
「彼女、一人で走っていたんだ。この雨の中、合羽を着てね」
「まあ……それはそれは」
「それで気がついた。あの子は、きっと恋をしていたんだな」
「ええ。散歩は、ダイエットのためだったんですね」
「おや、ゆき君は最初からそう思っていたの?」
「不思議と、そういう気がしていました。だから甲斐さんがあの子のことを気にしているのをみて、私は女同士だからそう感じたのかなって思ったんですけれど……」
「なんだ、そうなら教えてくれれば良かったのに」
「なんだか、照れくさくって……」
ゆき君は、はにかんだ顔を伏せがちにする。
私も笑った。
「今日、僕はハッとしたよ。けれど、おかげで大事なことに気がつけたのかもしれない」
「大事なことって、なんですか?」
「それは……」
「はい?」
「いや、そのね……」
急に言葉が出なくなる。
言おうと決めていたことなのに、胸がどきどきしてたまらない。
「……ゆき君。今度、ご飯でも食べにいかないか?」
遠回りな台詞を、なんとか搾り出す。
ゆき君は、やわらかな笑顔をつくった。
「……はい。楽しみにしています」
雨の中、黙々と走っていた女の子。
あの子が、恋をしていたのかはわからない。
――けれど確かに、私は、ずっと前から恋をしていたのだった。