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きらい、嫌い、大嫌い!

作者: 坂井カノン

 最果ての町の中学生に「行きたい高校はどこですか」と聞くと、ほとんどの中学生が「白雪高校」と答えるだろう。私立白雪高等学校は北国の中で一番人気を誇る難関校であり、多くの中学生が一度は憧れる学校だ。


 その魅力は第一に学費が安い。私立のくせして学費は県立高校並み。

 第二に制服がかわいい。白雪をイメージして有名ブランドが作り上げた制服は最果ての町の中で一番かわいい制服として、女子中学生に大変な人気を誇っている。

 第三に有名大学への進学率がいい。これはまあ難関校なのだから当然のことだが、進学率のよさの秘訣は有名塾との連携学習体制にあるのだとか。

 第四に施設がいい。それはもう県立高校なんか比じゃないほど設備は充実しており、生徒たちは安心安全快適なスクールライフを送ることができるようになっている。


 噂には聞いていたが、学校の敷地内に足を踏み入れるのは始めてだ。


 高校というものにそもそも縁がなかった要は、物珍しそうに校内を歩く。

 天井から吊り下げられている電光掲示板、その下にある自動販売機には、スーパーよりは高いがコンビニよりは安い値段で飲み物が売られている。

 ガラスケースに飾られた多くの賞状・トロフィー・優勝旗。その隣にある受付のようなところで入校許可を得た要は、教えられた情報を頼りに保健室へと向かう。


 保健室は事務室からそう離れていない場所にあった。トビラの横の掲示板には風邪の予防を促すポスターや生徒会選挙の告知ポスターが貼られている。


 コンコン、と二回ノックして保健室の中に入る。

 電話であらかじめ話を通してあったので、養護教員だろうと思われる女性は快く要を中に招いてくれた。


「ほら、桃川さん。ご家族の方が迎えに来てくださったわよ」


 確か、望月先生といったか。ずいぶん人当たりの柔らかい女性だ。上品な喋り方に、品の良い物腰。もう少し年が若ければ、過って恋に落ちる男子生徒もそれなりにいるのではないだろうか。

 それに比べて、と要は小さくため息をついた。


「くっ、来るな! 近づくな! そもそも、なんでお前がここにっ!」


 肩甲骨の辺りまで伸びている柔らかな金髪や、透明感のある綺麗な紅茶色の瞳だけを見ると天使と見紛うほどのかわいらしい少女だが……。ベッドの上で威嚇体勢をとり、猛獣のような瞳で睨まれると、容姿の愛らしさも儚い幻想のように思えてくる。


「迎えが遅くなってしまって申し訳ありません」

「いっ、いちごは居候のお前に頼んだ覚えはない!」


 威勢よく威嚇するのはいいのだが、少女はその名の通り、頬が苺のように真っ赤に染まっていた。照れや恥じらいから生じたものではないことは、尋常ではない汗のかき具合を見れば分かる。

 大きな声を出したのがいけなかったのだろう。いちごはふっとベッドの上に倒れこんだ。


「確かに直接頼まれたわけではないのですが、その状態では何もできないでしょう?」

「お前に手をかしてもらうくらいなら、いっそ死んでやる……」


 とは言うものの、いちごの声に覇気はない。


「どうして私はこうも嫌われているのでしょうか? こう見えて女性受けは悪くないのですが」

「あーむかつく! その思考ごと頭吹き飛ばしてやりたくなるからそれ以上喋るなぁっ……ごほっ」

「あまり無理をしない方がよろしいのでは?」

「いちごにっ、口出しするな。……そもそも、なんで優護じゃなくて居候が来るわけ!」


 高熱と咳こんだせいもあるだろうが、いちごの瞳は本当に潤んでいる。


「優護さんは大切なお仕事の最中ですから。休暇の私が迎えにくるのは、至極当然のことだと思いますが?」


 いちごは威勢がいい割に体が弱いんだ、そう優護から聞かされたことがある。体が弱い、とは言っても特別大きな病気を抱えているわけではなく、単に風邪をひきやすい体質らしい。高熱を出してぶっ倒れたのは今年で五度目だとか。


「お前も働けぇ」


 不意打ちで飛んできた枕を胸で受け止める。いちごの悪あがきは大した威力もなかった。


「高熱とうかがった割にはお元気そうで何よりです」


 要の柔らかな笑顔は、いちごにとっては不快極まりないものでしかない。

 男性恐怖症。過去に何があったのかは知らないが、いちごは世の中に存在する少年以外の異性が嫌いだ。養父、ということで優護は例外らしいが、要は男嫌いの対象になっている。だから厄介だ。


「ですが、勢いはありませんね。早く病院に行きましょう」


 要が一歩足を前に踏み出すと、その気配を察知したのか、いちごは警戒心をむき出しにして飛び起きた。


「あなたは半径何メートル以内なら許容範囲なのですか?」

「一億光年離れても全ッ然許容範囲じゃない!」

「でしたら、しかたありませんね」


 要にだって我慢の限界がある。いちごの体をいたわってやろうという考えは、そろそろどこかに消えてしまいそうだ。


「だから近づくなぁ」

「いちごさん。いい加減にしなさい。……そろそろ私も怒りますよ?」

「怒ればいいじゃん! というか、これくらいの風邪平気だし!」


 と言いながら、咳き込むいちごの背中を望月先生が優しくさすっている。

 一体どこが平気なのか。立ちあがれば足元がおぼつかなく、潤んだ瞳からはいつもの覇気が感じられない。強気な意志だけは残っているので、弱々しいとはいえないが。


「では一人で病院に行かれますか?」

「行ける。お前はいらない」

「……そうですか」


 背後にブラックオーラがにじみ出ているのは、きっといちごの気のせいではないだろう。

 望月先生の静止の声を無視してベッドから床に足をおろしたいちごは、カバンをとろうとサイドテーブルに手を伸ばす。その背後に感じる鳥肌が立つような気配に、いちごは反射的に振り向こうとした――のだが、一足遅かった。


「では、強硬手段といきましょうかね」


 そんな声と同時に、いちごの口が何かで塞がれる。それが薬品を染み込ませたハンカチであることに気付いたときにはもう遅く、いちごは抵抗する間もなく気を失った。ぐったりと人形のように力をなくしたいちごの体を、要が苦笑しながら支えた。目は笑っていない。

 その光景を、望月先生は唖然と見ているが、要を非難する気はないようだ。

 むしろ同情されているような気がするのは、気のせいか。


「……本当に、筋金入りの男嫌いですねぇ」


 片手でいちごの体を抱え、もう片方の手でいちごのカバンを拾い上げた要は、


「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。――それでは、失礼します」


 と、あくまで紳士的な笑顔で保健室を出て行った。


◆ ◆ ◆


「ん……」


 長いまつげに縁どられた瞼がそっと開く。

 ここは車内のようだ。潤んで見える視界の中には低い天井と、端っこの方に移ろいゆく景色が見えた。

 どうしてだろう? 頭がぼーっとする。全身が痛い。一体なにがどうなっているんだろう。いちごは必死に考えるが、頭が思うように働いてくれない。


「あ、れ……」

「もう目を覚まされましたか。どうやら、薬の量が少なかったようですね」


 体の揺れがとまる。

 このおぞましい声のおかげで、いちごの意識は瞬時に覚醒した。

 勢いよく上半身を起こし、車の運転席に座っている人物を確認する。運転席から見えたのは、いつもいちごが風邪をひくと迎えに来てくれる養父の後ろ姿ではない。


「おっ、お前……っ」

「無理はしない方がよろしいかと。結構つらいでしょう?」


 振り返った男の笑顔に、いちごは血の気がひいていくのを感じた。鳥肌がたち、男の首を締めたい衝動にかられるのだが、どうしてだか今は体がついていかない。頭を鈍器で何度も殴られているかのような痛みのせいで、それどころではない。

 要がおもしろそうに喉で笑いながら、再び前を向いた。車がゆっくりと動き出す。


「もう少しで病院につきますよ」

「……最悪」


 病院に連れて行かれることが、ではない。小さな密室で要と同じ空気を吸っていることが、である。

 もうこうなってしまったらどうにでもなれ、だ。車内だと逃げようがないし、そもそも逃げる体力が今のいちごにはない。無駄な抵抗を諦めたいちごは、力の入らない体を横にした。


「熱が酷い様子なので、もしかしたらインフルエンザかもしれませんね」

「……」

「先程は手荒なマネをしてしまい、申し訳ありませんでした」

「……いつか殺す。絶対殺してやる」


 先程はという要の言葉を聞いて、いちごはようやく保健室での悪夢のような出来事を思い出した。

 要が保健室にやってきた瞬間から何らかの危機感を感じて警戒レベルを最大に引き上げていたのだが、まさか薬を使われるとは思っていなかった。

 ああ、これは何かの悪くて不快な夢だ。いちごは力の限り頬をつねってみたが、普通に痛いだけで、現実は何も変わらなかった。


「一つだけ言っておきますが、私は殺人予告を黙って受け入れるほど寛容な心の持ち主ではありませんよ?」

「……?」


 夢なら早く覚めてくれ、と願っていたいちごの耳に飛び込んできたのは、さらなる追い打ち。


「慣れていただこうと思っていたのですが、どうやら無理なようですね。私もできればあなたを殺したくはありませんから、これからは、慣れていただくのではなく、飼いならす方向でいこうと思います」

「……飼い、ならす? 何を?」

「あなたの男嫌いはいいかげん治すべきです。少なくとも、私に害がない程度には」


 たとえ男嫌いを克服したとしても、要に対しての敵対心だけはなくならない自信がある。そう食ってかかると面倒なことになりそうなので、いちごは喉から出かけた声をなんとか押しとどめた。


「……つーか、女っていう生き物は、拳振り回すような生き物じゃねーだろ、普通」


 ぼそっと運転席の方から聞こえてきた声は、かろうじていちごの耳に入ってきたが、聞こえなかったフリをする。

 怖い。本能的にこの男からは危機感を感じるのだ。そんな得体の知れないものと仲良くできるほど、いちごは鈍感ではない。

 車が止まる。景色が止まる。今にも雨が降り出しそうな灰色の空が見える。


「着きましたよ」


 要が車を降りて、後ろのトビラを開くのと同時に、湿っぽい風がいちごの体を包み込む。


「……だから嫌い。人間の皮かぶった悪魔みたいだから、嫌い」


 いちごは精一杯の力を振り絞って車から降りた。しかし体に力が入らず、アスファルトの上に座り込んでしまう。


「それは私のことでしょうか? だったら、まずはその認識から改めてもらう必要がありますね」


 とうとう雨が降り出してきた。

 倒れそうになったいちごの体を、要の腕が支える。その瞬間湧きおこった殺意は、水をかけられた炎のようにしゅんと消えてなくなった。今は殺意をみなぎらせることすらできない。思いのほか、体の具合は悪いようだ。


「無理はなさらなくて結構です。どうぞお休みになってください」


 この男の腕の中で意識を手放すということが、どれほどのリスクをはらんでいるかということは、嫌というほど分かっている。何かをされる、されないの問題じゃない。貸し一つ、の言葉が重くのしかかってくるのだ。


「それとも、また薬をご所望で?」

「……やめろ、気持ち悪くなる」

「では手段を選ばず意識を飛ばして差し上げましょうか?」

「そもそも、いちごは……いちごはっ、お前の手を借りなくても、自分で歩ける」

「強がるのも大変かわいらしいんですけどね。そろそろ――いい加減にしろよ小娘」


 雨の降る勢いが強くなってきた。要の顔からはすっかり笑みが消え、かわりに不機嫌そうな表情が浮かんでいた。これ以上抵抗すると、本当に薬や暴力を使って口を塞がれそうだ。

 今日は本当に散々な一日だった。そういって、諦めるしかない。元気になったら、借りを返すついでに回し蹴りの一発や二発ぐらいは食らわせてやる。

 そう、心の中で何度も毒づきながら、いちごは意識を手放した。


◆ ◆ ◆


 雪の多いこの街に、久しぶりに雨が降った。

 いくら最果ての街とはいえ、夏真っ盛りのこの時期になると重く積もった雪はすっかり消え、灰色の空からは雪ではなく雨が降ってくる。

 雨が降るのはこの時期だけだ。一ヶ月もすると雪が降り始める。


 雨は嫌いじゃない。雨の匂いや、屋根をうつ音に心地よさを感じているから。いちごは空き家の軒下で空を見上げる。

 嫌いではないのだが――いくらなんでも降りすぎだ。


 槍のように降り注ぐ雨は一向にやむ気配をみせない。こんな雨の中に傘もささないで身を投じると確実に風邪をひいてしまう。体の弱いいちごはなおのこと風邪に苦しむことになるだろう。

 いちごは小さく息を吐き出して、カバンの中を漁ってみた。この状況下の中で唯一雨を弾いてくれそうなものといえば、クリアファイルしかない。ファイル一枚で目の前の豪雨をしのげるものだろうか。考えるまでもなく無理だ。

 いちごはもう一度ため息をついて、制服のポケットに入っていたスマートフォンを手に取った。


 いっそ誰かに助けを求めるか。しかしこの豪雨の中、わざわざ傘を持ってきてもらうのは気が引ける。迷惑をかけるくらいなら、潔く風邪をひいてしまった方がマシだ。

 結局、いちごはスマートフォンを使うことなくカバンの中にしまった。

 雨は好きだが、風邪は好きじゃない。喉は痛いし、鼻は詰まるし、呼吸は苦しくなるし、咳をするたびに肺が痛くなるし。


 もう最悪……。


 いちごの住んでいる家は、空き家の向こう側に広がる広大な草原の、その地平線に見える森の、さらにその奥にある。ここから走っても三十分はかかる道のりだ。タクシーもバスも通っていない、近隣の住民ですら滅多に近づくことはないあの遠い森の中。

 自然と笑いが込み上げてくる。

 絶望的だ、と肩を落としたいちごに、大きな影が覆いかぶさる。

 いちごはうつむけていた顔をハッと上げかけたが、視界に入ってきた靴を見て、視線を再び地面に戻した。


「これ、よろしければ使ってください」


 まさか、とは思ったが、そのまさからしい。

 泥で汚れた革靴はどこかで見たことがあるような気がしたが、しょせんは大量生産品。しかしこの声だけは間違えようがない。


「……いい」

「あなたは一晩中ここにいるつもりですか?」

「……いい」

「風邪をひきますよ?」

「……お前には関係ない」


 よりにもよって今一番会いたくない人物に見つかってしまったらしい。

 その人物は少しだけ間をあけた後、


「ただでさえ体弱いやつが意地はるとこっちが迷惑なんだよ」


 先ほどまでの優しい声とは打って変った冷たい声を発した。冷たい、なんてものじゃない。聞く人によってはその声だけで一目散に逃げていきそうなほど低音で殺気を含んだ声だ。

 しかしいちごは動じない。


「…………お前には関係ない」

「この間はぶっ倒れられたときわざわざ迎えに行かされたけどな。片道一時間の道のりを歩いて息絶え絶えの小娘を迎えに行き、病院に連れて行ってやったにも関わらず、目を覚ましたときの第一声は消えろときた」

「何がいいたい……?」

「いや、ただ、そんなツンツンな態度をとられたにも関わらず看病してやった俺の心の広さを知ってるだろと聞きたいだけ」

「知らない! そもそも、いちごは来てってお前に頼んだ覚えはな……い……」


 ついムキになって顔を上げたいちごは絶句する。

 目に入ってきた男の姿は全身びしょ濡れで、乾いていた地面に水たまりを作っていた。  なんというか、その雨に負けた無様な姿は予想外だった。いつもはもっと余裕のあるはずのこの男が言葉づかいを乱したときから、薄々機嫌の悪さには気づいていたが、こういうことだったのか。

 全体的に色素の薄いその男、要はいちごを一瞥し、


「突然雨が降ってきたんだ」


 と忌々しげに呟いた。

 しかし、要が手に持っているのはどう目を凝らして見てもビニール傘のように思えるのだが。怪訝そうないちごに要はくすっと頬笑む。さっきまで殺し屋のような目をしていたくせに、今は穏やかな紳士のものになっている。

 こいつは重度の二重人格者ではないか、といちごは常々疑っているのだが本人の記憶はしっかりしているし、何よりもろくでなしな部分は共通している。


「軒下に入っているあなたが見えて、わざわざ傘を買ってきたんですよ」

「頼んでない」

「人の善意というものをあなたは知らないのですか?」


 要が持っている傘は一本。恐らくいちごのためというのは嘘だろう。

 せっかくの傘だが、気持ち悪い好意は謹んでお断りしたい。


「強がるのも大変かわいらしいんですけどね。そろそろ面倒になってきた」


 いつまで経っても傘を受け取ろうとしないいちごに要は本気でイライラしているようだった。イライラの原因の八割は雨にあると信じたい。

 こんな男に頼ってまで、傘が欲しいとは思わない。とっとと豪雨の中に消えてくれ、それがいちごの本音だ。

 そんなことを知ってか知らずか、要はいつまで経っても顔を上げようとしないいちごの顎を指でぐいっと上げ、ムリヤリ目を合わせようとしてきた。


「離せ!」


 すぐにいちごは顔をそむけ睨みつけるが、要には効果がない。

 要はその憎しみのこもった目を満足そうに見つめながら、傘をいちごの手に持たせた。  離したら殺すぞ、目がそう訴えている。最近、いちごの生意気さに拍車がかかったからだろうか。前に「生意気な小娘は調教する楽しみがありますが、やっぱり従順な娘の方が私の好みですね」と訳も分からないことを呟いていたので、きっとそうだ。

 いくら調教しても思い通りにはならない。なってやるつもりはない。むしろ要の存在が余計にいちごの過度の男嫌いに磨きをかけている。


「傘をさしてお帰りくださいね。ああ、ありがとうとか、そういう感謝の言葉は求めてませんよ? 言葉と言うか、態度と行動で示してくださいね」


 小娘にかけられる威圧感は半端ない。売られた喧嘩を買ったかのように、いちごは険しい瞳で要を睨む。


「お前の傘は?」

「私はもうずいぶん濡れてますので。意味ないでしょう」

「じゃあいらない」

「態度と行動で感謝の気持ちを示してください、と先ほど申し上げたばかりですが?」

「感謝してるから恩人が濡れちゃいけないって気遣ってるの!」

「さすがは律義ないちごさん」


 要はあっさりいちごの手から傘を取り、身を引いた。

 結局、さっきのやりとりはなんだったんだ? 驚くいちごに要は穏やかな笑みを向け、豪雨の中に傘を広げた。白いビニール傘だ。

 傘の下、雨の中にたたずむ要は、しかし帰る気配を見せない。


「さ、帰りましょうか」

「…………お前、まさか」


 手招きする要を見て、そのまさかがまさかであることに、いちごはようやく気付いた。

 そもそも要という男は、自分が犠牲になってまで相手の体を心配するような性格ではないのだ。一本しかない傘をいちごに譲り、自分は雨に濡れて帰るなどという考えは思いつきもしないだろう。


「相合傘、でしたっけ? 仲良くなれそうじゃないですか」

「ふざけるなぁっ!」


 最初からからかうつもりでいたらしい。

 いちごは近くに落ちていた石を要に投げつけるが、あっさりかわされてしまった。


「いいんですか? お体が濡れてしまいますよ?」

「お前と帰るくらいなら、いっそ大風邪ひいて死んだ方がマシだ!」

「なるほど。じゃあ手を繋いで帰りますか? そこまでのスキンシップをあなたがお求めだったとは思いもしませんで」

「いちごに触れたら舌噛み切って死ぬ!」

「手を繋ぐだけでは物足りないと?」


 どんどん話がおかしな方向に逸れていく。


「今すぐ殺してほしいの!?」

「あなたが素直に従ってくだされば冗談なんですけどね。私は有言実行がモットーでして。それはあなたが一番分かっているはずですが?」


 いつものいちごなら要の顔面めがけてストレートパンチか、もしくは腹部をめがけて回し蹴りをかましているところだ。背負い投げで水たまりの中に沈めるのもいいし、持っているカバンの角で目を狙うのもいいかもしれない。

 しかしなんたってこの雨は要の味方についている。

 そんなくだらないことで雨に濡れたいと思うほど、いちごも熱くはなかった。

 まあ、どうせ濡れて帰ることにはなるだろうが。せめてあの鬼畜がいなくなってから雨に打たれたいものだ。


「あとひと押し、なんですけど、この辺で勘弁してあげましょうか」


 要は喉の奥で笑いを殺しながら、再び軒下に入ってきた。

 いちごが攻撃態勢に入る前に、要は持っていたスーツケースの中から折り畳み傘をそっと抜きだす。


「――お前、最初からもう一本傘持って」

「いい憂さ晴らしになりました」


 言葉を失ったいちごに、要はビニール傘を握らせた。そして自分は折り畳み傘を広げて、再び雨の中に立つ。


「お帰りになる際は気をつけてくださいね。あなたは体の虚弱――いや、繊細な方ですから」


 雨の中に消えて行く忌々しい背中に、いちごは腹いせに石を投げつけたが、それが彼の人物に届くことはなかった。


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