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2.倫子の恋人

 その男は綺麗な白い歯を覗かせて笑った。前回会ったときにも被っていた黒い帽子を目深に、こちらへ向かって少し会釈する。顔も首も手も、やはり前回と同じく赤くただれていた。僕は目を合わせないように、それでいて視界から男を外すのも敵わず、その男がいる座席の背後に流れる景色を眺めた。今日も男は前回と同じく電車の真正面の座席に座っている。車両内には他に誰もいない。

 外の景色には桜がよく流れた。毎日のように見ている風景も、桜が少し目に入るだけで新鮮に思えた。

 電車がトンネルに入る。線路を走る音と振動が、意識までも何処かへ連れて行きそうだ。しかし男がまたあの動作を始めたため、僕はすぐに意識を引きとめ、目を伏せた。前回、あの動作をかなり真面目に見てしまったことを後悔している。最初、男は首の辺りを少しだけ掻いていた。しかしどんどんエスカレートしていき、顔も腕も、頭も、真っ赤になるほどに掻き毟っていったのだ。


 「もしよかったら」

 その男が声を掛けてきたため、顔を上げた。男は両手を膝上に組み、帽子から鋭い眼光を覗かせていた。

「え?」

 僕は聞き返した。そして、ふと不思議な感覚に陥る。男も何か思ったらしく、少しの間沈黙していた。

「もしよかったら、これから飲みに行きませんか」

 不思議な感覚が僕の好奇心を後押しする。「いいですね」そう応え、その男の反応を観察する。男は笑っていた。乾燥した肌に深い皺が寄る。そうして咽喉の辺りを指先で掻く。何度も掻かれて赤く、また、ただれたような咽喉からは、掻き毟られて擦れてもいない、普通の男の声が出る。

 我々は近くの居酒屋に入った。時刻がまだ早いからか、客は少ない。店の隅に腰を下ろし、酒と肴を注文すると、男は帽子を脱いだ。掻き毟られた頭は髪の毛が少なく、頭皮が赤く凸凹しているのがわかる。

 意外にも、男とはとても気が合った。好物は勿論、趣味や考え方まで似ていた。まるで長年付き合ってきた兄弟のように、話が途切れることもなく語り合った。ただやはり気になるのは、あのボリボリ身体を掻く癖だ。

「あの、痒そうですね」

「気になりますか。僕も止められたらと思うんだが、そうもいかない。痒み止めのクリームなども効かない。これは、もう、そういう次元を超えているんだよ」

「花粉か黄砂が原因ですか」

「違う。もっと厄介なものだ」

 ダニや埃だろうか。僕は水垢のついたガラスコップに目をやった。この居酒屋には相当のダニが潜んでいそうだ。

「ところで君の仕事は?」

「僕は学生です。今日はサークルがあったんです」

 男は「そんな時代があったなあ」と感慨深そうに呟き、静かに耳を傾けていた。良い聞き手を得た僕は調子に乗り、最近恋人ができたことまで話題に出した。やっと振り向いてくれた美しい恋人、彼女の名は田辺倫子たなべのりこという。

 話すことに夢中になっていた僕は、男が身体を掻く速度が上がっていることに気づいていなかった。

「――痒い!」

 男は突然大声を上げた。

「痒い、背中が痒くて堪らん! くそ!」

 手が届かずに苛立っているようだ。僕は掻くのを手伝い、服を脱ぎ捨てた男の、虫が這ったような赤い背中をひたすらに掻いた。背中に赤い爪痕が散らばる。爪の隙間に血がこびり付く。痛みが痒さに勝るほどに力を込めて強く、素早く、掻く、掻く――。そしてこの手は、いつの間にか僕自身の身体を掻き始めている。


 『これは、もう、そういう次元を超えているんだよ』


 僕は黒い帽子を手に取って立ち上がり、気が狂ったように身体を掻き毟る僕を見下ろした。そう、こんな時があった。この頃の僕は、まだ何も知らなかった。

「君は、あの女に騙されている!」

 

 身体が、痒くて、痒くて、痒くて堪らない――。


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