夏の線路と彼岸花
体の奥を振るわせる、鼓動に似た音が近づいて来る。
それは大地を振るわせ、空気に伝わり、そして汽笛とともに姿を見せる。
彩芽はいつもその音で目覚めるのだ。
とくん、とくんとその音は鼓動に似ている。
しかしそれは鼓動では無い。電車の立てる音である。
彩芽の住む家のちょうど真後ろに、線路があった。線路の向こうには青い稲穂が頭を垂れる水田と、そしてどこまでも広い青空。
彩芽は団扇で顔をあおぎながら、窓にいざり寄る。熱くなった窓枠に肘を置き、空を見上げれば見事な入道雲が見えた。
力こぶのように盛り上がる入道雲は、青空を侵食して止まることがない。
どこかで蝉が忙しげに鳴いている。耳を貫くような激しい鳴き声だ。蝉は長く生きられないと聞く。その悲しみをぶつけるような鳴き声だ。
「ああ今日も暑くなるわねえ」
彩芽は夏が嫌いである。家族は揃って夏に逝った。
(電車が来る)
団扇の手を止めて、彩芽は目を閉じる。まるで夏空に向かって延びるような線路から、鼓動のような音が聞こえるのだ。
とくん、とくん。
その音はどんどんと大きくなり、やがて古びた車両が遙か遠くに見えはじめる。
大地を振るわせ空気を振るわせ、彩芽の住む古いマンションをも振るわせて電車が走る。
近づいてくるごとに、鼓動の音はどんどんと、電車の音へ変わった。
(……とくん、とくん、どくん、どくん、たん、たん、たん、かたん、かたん)
音はいったいどこで切り替わるのか。目をそっと開けると、赤茶の車両がちょうどマンションの真正面を走って行くところである。
一両編成の電車はガラガラだ。一人、二人。中に小さな子供が乗っているのが見え、彩芽は目を細めた。
家族旅行が楽しいのだろう。子供は窓に張り付いて彩芽に大きく手を振ってみせる。
嬉しげにはしゃぐ子供の姿と、親の疲れたような顔の対比が印象的だ。
「うん、涼しい。でしょ?」
電車が通り過ぎた後、一瞬だけ涼しい風が吹く。
水田に植えられた緑の稲が、さざ波のような波紋を広げて波立つ。小雨のような音をたてるので、彩芽は雨の多い夏だと思ったものである。
「あら、また電車」
稲穂が揺れた。それが収まる前に、また鼓動に似た音が聞こえてくる。目をこらせば、遠くにもう一台の電車が見える。
窓から身を乗り出して覗き、彩芽は小さなため息を漏らした。
(今日は暑いから電車がよく走るんだわ)
古びた枕木のすぐ脇には、見事な赤い彼岸花。その下を、のんきな蛙が走り抜け、水の滴が花に散った。
彼岸花は花火のようだ。真っ赤に広がるそれは、青い空に打ち上がる前に落ちた花火なのだろう。
本日二本目の電車は、静かに家の前を通り過ぎる。車掌がこちらを見つめ、まるで敬礼をするかのように警笛を鳴らす。
彩芽は今日もまた、小さく頭を下げるだけだ。
今度の車両は満員御礼。皆、車両の外に広がる美しい水田を見て不思議そうに首を傾げている。
秋になれば、この稲穂は美しい金色になるだろう。その頃には夕陽ももっと赤くなり、金と赤のコントラストが素晴らしいはずだ。
しかし彩芽の目の前に広がるのは、青の空と緑の稲穂。
この組み合わせも、目に痛いほどにノスタルジックである。なるほど、自然界とはよく出来ている。
(でもこの町には秋はこない、永遠に)
彩芽は窓際に置かれた蚊取り線香に手を伸ばし、マッチで火を灯す。
昭和の家電製品が描かれた古いマッチだ。エプロンを身につけた女性が、大きな電子レンジを片手に微笑んでいる。
「蚊取り線香、つけてあげるわ」
やがて鼻の奥を刺激する煙が一筋、あがった。煙は、夏の空に吸い込まれていく。
「もう、蚊に刺される心配もないのにね」
部屋を振り返ればそこは暗い。薄暗く生ぬるい空気が停滞している。もう何十年も前に電気は止まった。夜になっても、この家には電気ひとつ灯らない。
天井からは電球の代わりに、ぶら下がったものがある。
「ねえ私はいつ、電車に乗れるのかしら」
天井からぶらさがる3つの白い髑髏に向かって、彩芽は問いかけた。
そのうち2つがいやいやするように首をふるので、彩芽は今日もその場所を動けない。
窓の外を見れば、蜃気楼がゆらゆらと揺れている。熱された線路の隣には赤い赤い彼岸花。
それは別名、曼珠沙華というのである。天上の花ともいうのである。
それは天に向かって大きく手を広げ、仏に救いを求める小さな手の群衆にも見えた。
「ああ、三回目の電車が行く」
やがて古びた線路の上、本日三回目の電車が走る。今度は女が一人、寂しげに窓の外を見ていた。どこへ行くのか、分かっていないような顔である。
(たぶん、そこは夏以外の場所だわ)
彩芽は熱い窓枠に顎を乗せたまま、その電車に小さく手を振る。
蚊取り線香の白い筋が、まるで手向けのように彩芽の顔を優しく撫でた。