二-4
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どこまでもつづくような長い、長い、暗い廊下――。
ちりの落ちる音ひとつしない、装飾も家具も荷物もなにもない空間に、車輪の擦れと靴音だけが響いて、吸い込まれていく。
果てのつかめぬ迷宮みたいな地下牢は、たった一人を閉じ込めておくには贅沢だ、と思う。
「こちらです」
国防省の役人が車椅子を一つの牢の前で止めた。
だいぶ目は暗さになれていたはずなのに、もっと暗い闇が鉄格子の奥によどんでいた。
「くれぐれもお気をつけを」
「何に気をつけたらいいのかわからないわ」
蓋を押さえた籠の中に、役人の言う〈魔法〉の元はすでに抱えられているのに。
「囚人は魔法使いです。ミス・スタチェット」
役人はわかりきったことを言う。
「この籠、持っていてくださいますか。ぜったいに蓋を開けないで。何か聞こえても無視してね」
「かしこまりました」
牢の奥にいるはずの悪人は、鉄格子の外の話し声にまったく何の反応も見せず、よどんだ影と一体化したまま、聞こえないふりをしているのか、感じる心をなくしてしまったのか、無視と無言を決め込んでいる。
眠っているのかもしれない。
――そうかしら?
「この、嘘つき」
眠れるわけないじゃない。一度も、あなたが深く眠っていたことなんてないじゃない。
「嘘つき、詐欺師、だましたわね」
闇がひくりと動いた、気がした。
「また笑っているんでしょう。でも今のは本当のことよ」
セアンの目が慣れてきたのだろう。奥の壁にもたれてうずくまる影のかたまりが、輪郭をとって浮かび上がってくる。
彼は膝を抱えている。
うなだれたまま。
「あなたには迷惑ばっかりかけられてるわ」
彼がもぞりと首をもたげた。
「――なんて顔してるのよ」
思わずセアンは声を震わせる。車椅子でなかったら、あとずさっていたかもしれない。
その顔には、緻密な文字列が青いインクでみっしりと書かれている。文字列は蛇のうろこのように肌の上を這いまわり、ところどころで幾何学的な図形を描いていた。耳にも、首筋にも、膝を抱える腕にも、手にも、肌のいたるところに余白なく刻まれた、魔法封じのコード。
極小のとがったペン先で、全身の肌の上をなぞられるなんて、想像するだけで気が狂いそうな拷問だ。――大統領の冗談の意味がやっとわかった。
その特殊なインクには帯電物質が混ぜられていて、設置機械から放出されている電磁波に反応して魔法の発動を阻害する。
対魔法コードとは、魔法発動時に発せられる微弱波を解析し、そこに言語体系にも近い音形パターンがあることを発見した対魔法技術研究者によって開発された、魔法妨害技術だ。魔法の音形を打ち消す作用がある。南コロニア軍では実戦にも投入されて効果を証明している非魔法圏の武器だ。
「罪人だから、しょうがない」
ぼそりと。
長いこと口をひらいていなくてもつれたような声で、彼は言った。
「これが本当だ。やっといるべき場所に来れた」
「つじつまがあうからどうだっていうのよ。くだらない自己満足で、あなたの仲間を裏切るの」
対魔法コードに蹂躙されたサリアック王子の顔に、心の痛みが浮かんだ。
耐えられないように、彼はうつむいてしまう。
「『南コロニアに引き渡すなら北コロニアで処刑してくれ』、と言っているそうね」
「戦争のとりひきに使われたくない……」
「いまさら言ったって無理よ。あなたを差し出すか、一日も早く参戦するかしか北コロニアの道はないの」
冷たくセアンは告げた。
「人を大勢殺したことがあなたの罪ではない。最後までフィクションを請け負わなかったこと、本当の自分を捨てて逃げたことが罪なのよ」
セアンは目をとじて、サリアック王子と同じようにうつむいた。
「そしてそれは、私だって犯している罪よ」
役人から籠を受け取り、セアンはポイの体を床に降ろした。
きゅーん、きゅーん、と鉄格子にすりよるポイを、サリアック王子は無感情に眺めていた。
「あなたの中に帰りたがってる」
二百年前に大きな眠れるダイモーンのかたまりと最初の契約を交わしたレミアック王の血筋の王子には、ダイモーンの思いを聞くために言葉を介する必要はない。
「……俺は、おまえにも、ひどいことをしたんだ。だからもう、一緒にはなれない」
かりかりと鉄格子を掻いていたポイの動きがとまる。
きゅーん。
ひときわ高く、切なげに、ポイが鳴いた。
「違うの。そうじゃないのよ。そうじゃないんだったら! 私がここに何をしにきたと思っているの? そんなことを聞きにきたんじゃないわ。……いちど悪に手を染めたなら最後までやりとげて、早く戦争を終わらせてよ」
ポイに対魔法コードは描かれていない。ポイの中のダイモーンは王子の命令ならば、力を発揮できるだろう。ダイモーンは宿主の命令にしか従わない。ポイは人間より意志の希薄な、犬だから、ダイモーンの正式な宿主にはなれない。
サリアック王子が誰の迷惑にもならずに世界から消えたいなら、チャンスは今しかないのだ。
牢の奥から返事はなかった。手錠につながる鎖が鳴って、頭を抱える両手が表情を隠す。
もうなにも聞きたくない、という態度だ。
セアンは詰めていた息を、吐きだした。
「帰るわよ、ポイ。約束は果たしたから」
「だいもーんは、おうじと――!」
ぎょっとした役人が辺りを見回す。
まさか犬がしゃべったとは思いもしない様子で、怪訝そうな目をセアンによこした。
「魔法ですわ。可哀想な精霊の声です。怖がるだけ怖がっておいて本当のことは信じないのが人間です。もういいです。戻ってください。犬を籠にお願いします」
セアンは地下牢をあとにした。
地上階の会議室で待っていた大統領と父は、セアンがもういちど彼らにした質問に対し、つい三十分前と同様に「不可能」だと答えた。
サリアック王子の存在は三日以内に南コロニアに伝えられ、時間をおかずに南コロニアへと引き渡される。
三日以上は延ばせないし、引き渡さない選択肢もない。
大統領は北コロニア国民の意思にしたがい、北コロニア国民の生命財産を守るために、それ以外の道を選ばない――と。
「ごめんね、ダイモーンさん」
おしゃぶりの外れたころから使っていた寝室のベッドの中で、ポイを抱えてセアンは泣いた。
「だけどもう、私にできることはないし」
周囲からチャリティ・クイーンと持ち上げられて役目に忙殺されるのも困るが、できることがない、というのも辛いと、初めて思った。
サリアック王子はもうすぐ南コロニアに引き渡され、水面下交渉にてヤーヘル王国が停戦に応じなければ、彼は戦時法違反の虐殺をおこなった指揮官として死刑になるだろう。
もしヤーヘル王国が王子の身柄を優先すれば、魔法連合は内部から混乱するおそれもある。ヤーヘル王国一国が停戦を選んでも、残る国々は納得しない。戦争は双方に消耗を強いながらつづくだろう。だが大国ヤ―ヘルを欠いた魔法連合に対し、そのとき確実に南コロニアは優位に立っている。
「どうして戦争なんて始めたの。お互い好きになれないなら放っておけばいいじゃないの」
八方ふさがりで、なかば憤慨ぎみにセアンは呟いた。
自分には関係ないと思っていた戦争のことを、セアンこそ今はどんなことよりも腹を立てて、考えていた。
――人と人は、助け合って生きてくものだよ
そう言ったのはサリアック王子だ。
大海のこちらがわが恐れる、神にそむいた悪い悪い魔法使いの。
『それこそ魔法でも使わないと、対立は終わらないね』
大統領はそんなことを言っていた。
「喧嘩をとめる魔法ってないの?」
ダイモーンに訊いてみる。
だが、返事がない。
さっきから妙にぱたっと、反応がない。
「……どうしたの?」
心もち、ポイが白目を剥いてヒクついているように見える。
「どうかしたの? ポイっ?!」
「あっ、あああ、やめてください……や、やめっ、そこはだめっ。わかった、わかった、わかった、しょ、しょーうちいたしま」
承知致しました?
何を。
誰に言っているのか――。
暴れようとしていた犬の四肢を抑え込んだのは、中にいるダイモーンであるらしかった。
「せ、せあんさん、け、けんかをとめるほうほうなら、だいもーんはちょっとくわしい。なにしろおうじはほうっておくとけんかばかりで」
焦ったように早口でまくしたてるダイモーン。
「どういうの?」
「はなしあいです」
「話し合いですって。ぜんぜん魔法じゃないじゃない。古典的」
「ちょくせつ、へいかとおはなししたらどうでしょうか」
「シンアック国王と?」
いったい何を言い出すのだろうこのダイモーンは、と眉間をひそめる。
「はい、せあんさんとへいかのたいまんで」
「そんなこと、どうやって。海の気難しい精霊を、頑張ってなだめすかして連れてってくれるの?」
考えただけでセアンは背筋を震わせた。
「むりむりむりむり無理よ!」
「いえ、みずとき、ひかりとかぜ、ひとてつ、あわせてだいもーんさんきょうだいが、ちからをあわせてせあんさんのからだをむこうにおくります」
頭が混乱するとはこのことで、セアンには全く意味がわからない。
「みっつのげんそでにんげんのからだはできています。それすなわち、みずとき、ひかりとかぜ、ひとてつ、なのです。こちらのせあんさんはきえますが、あちらにしゅつげんできます」
水と木? 光と風? そして火と鉄。
精霊の言う〈元素〉とは、人間の言葉で意味するところの〈元素〉とは、重なりもし、重ならないものでもあるらしかった。
「だって、あなたは今、力を使えないでしょ?」
逃げを打つ気持ちでセアンは確かめる。
(いったん消えて、また現れるなんて、そんなこと!)
「だいもーんは、かれしにいわされているんです。かれしはせあんさんをたすけたいとおもっていらっしゃいます」
「ポイに?」
寝たままセアンはポイの体を顔の前に持ち上げ、まじまじと見た。
しょぼしょぼと、毛のかぶさる目が見つめ返してくる。
「ポイがあなたの使い手になったの?」
「つかいてとしてはふかんぜんですが、だいもーんはやりてですので」
さりげなく自慢を混ぜてこたえるダイモーン。
「でもこればっかりは、たいかのまほうよりもちからがいるので、だいもーんはへとへとになります」
帰って来られなくなるってことじゃないの、と訊こうとした瞬間、目の前が淡く黄色に光りだした。
そのふわりとした光はまばたきするあいだに拡がって、セアンの全身を包んだ。
「それでもだいもーんは、がんばりますっ。おうじのために!」
ちょっと――。
止める間もあらず、セアンのその声はもう寝室に響くことはなかった。
ぱっと光が弾けたあと、視界は黒く塗りつぶされる。
落ちる感覚がして身体をすくめた。実際にどこかの固い床にセアンは膝から落ちて、すとんと着地し、ぺたんとした格好ですわっていた。
その場所は、セアンのいた寝室と同じくらいの薄闇だった。
ひっそりと静まり、空気の動きがない、屋内。
(夜――)
もしここが、本当にヤーヘル王国のどこかなら。
セアンの寝室の時計はまだベッドに入るには少し早い時間だったから、時差を考えれば、ヤーヘル王国はもうすこしで夜明け近い夜中のはずだ。。
つるつるした固い床は、廊下みたいに冷たくて、だだひろい感じがして、つまりここには朝になるまで誰も人が通らない気がする。
動けないセアンはずっと座ったままで、寝間着姿で、どうしたらいいだろうと途方に暮れた。
「ダイモーンさん? ポイ? いる?」
……いないようだ。
ひとりぼっちで放りだすなんて、酷いではないか。頼んでもいないのに。
ふいに、空間の奥が揺れた。
動いて初めて、そこに帳が降りていると知れた。
目を凝らすとそれは濃紺の厚い帳で、豪奢な金の刺繍が上下を縁取っている。
内側がほの明るくなり、やがて帳の裾が小さく割れた。
中から人が、帳と同じ色をしたガウンの裾を引きずって出てきた。
空間を見通すように、その人はこちらを窺う。
セアンの周りに、鬼火というのだろうか、床から生えるようにして小さな青い炎がいくつも灯った。
「国王陛下でいらっしゃいますか」
あわててセアンは口をひらいた。
侵入者扱いで即刻丸焼きにされてしまってはかなわない。
その人は歩いてきた。
柔らかな光沢のある金色の絹の室内ばきは少しも音を立てない。
「いったいぜんたい君は誰かね」
目の前に、威厳ある長身の中年男性が首をかしげて立った。
プラチナブロンドと知的なまなざしに見覚えのある、間違いない、シンアック王だ。
「精霊が、メッセンジャーだと言っているが」
「はい、陛下。まず、夜分に陛下の御在所へ侵入しました無礼をひらにお許しください。無様な姿でお目にかかり、申し訳ありません。私は……」
すとんと膝が落とされて、シンアック王の目線が近づいた。
近くからまじまじと見たり、少し引いたところから見るように上体をかしがせたりして、シンアック王はセアンの全身を観察した。
「君は足が不自由なのだね」
「はい、生まれつき……」
「非魔法圏から送られてきたのだね」
「セアン・スタチェットと申します、陛下。サリアック王子のことで、参りました」
国王は精霊の示唆から、この魔法がサリアック王子のダイモーンのしわざであることを知っていたようで、王子の名前には反応しなかったが、むしろスタチェットの名前にやや目をひらいた。
「北コロニアのスタチェット家に関わりがあるかね」
大統領を出したこともある名門スタチェット家の名前は、外交に携わる者にはこうも通りやすいのだ。
セアンは神妙に頷いて、答えた。
「私は、国王陛下に以前お会いしたことがあります」
言い終わるか、言い終わらないかのうちに、シンアック王は腕を伸ばしてちょっと待った、の仕草をした。
眉根に皺して瞑目し、小刻みに頷いた。
「待った、君は……」
目をひらき、指先をおどらせて、
「その金色の髪、澄んだ瞳の色、誇り高そうな声、だ」
ひとつひとつ確認していった。
「そうだ、君は、チャリティ・クイーン?」
セアンはほっと転がり出そうになった微笑みをあやうく噛み殺して、こくりと頷いた。
「はい、陛下。そう呼ばれていたことがあります。今はもう引退しましたが……。憶えていていただけたのですか」
「いや」
シンアック王は、なぜだか深刻そうな顔をして首を振る。
「憶えていたのは、私の失態のことなのだ。あのとき私は、君に酷いことを言った。君の脚のことで。パーティのあと部屋に引きとってから、しまったと気づいてね。以来、思い出しては自己嫌悪にさいなまれるというような、そういう憶えかたで君のことは忘れがたくて。もちろん私は職業柄、人の顔を忘れないというのもあるがね。しかし君はすっかり大人だね」
過ぎ去った時を数えるようにまばたき、シンアック王は溜息を置いた。
「いまさら遅いのは百も承知なのだが、許してくれるだろうか。あのとき私は、無用なことを言ってしまった」
セアンは頷いた。
無用なことだったのは本当だからだ。
「たしかに凍りついたあの場の雰囲気を鮮明に思い出せますもの。ですが、ヤーヘルでは精霊が人の体を支える、それが当たり前のことなのでしょう? 陛下は嘘をつかずに本当のことをおっしゃったのです。大海の向こうにいるのが、嘘つきな悪い魔法使いではないと幼い私の心に教えたのは、陛下でした」
あのときから変わらぬ優しい瞳をほそめて、シンアック王がそれを聞いていた。
「ですから、だから、私はあの日、敵対国の部隊章をつけて倒れていたあの人を、拾って、家に連れていったんだと思います」
「サリアックを助けてくれたのは君か」
「助けたのかどうか。もっと早くほうり出して、逃げてもらうべきだったのかもしれません。サリアック王子は、北コロニア政府に収容されました」
シンアック王は仕方がない、という表情で頷いた。
「奪還部隊の失敗は、そうなることを意味していた」
「サリアック王子はダイモーンを受け入れられなくなってしまっています。大火の魔法いらい、殺戮の呵責が王子の心を苦しませ、病ませてしまった。まるで死を望んでいるようです。南コロニアに引き渡されることを拒んではいますが、何の抵抗もするわけじゃなくて、あれじゃまるでもう何もかもがどうでもいいみたい。口ばかりで、自分は結局……」感情に流れはじめた言葉を切って、仕切りなおした。「南コロニアが王子の身柄を得ても、戦争が終わるわけじゃありません。我が北コロニアの理想は、参戦せずにすむことです。私は陛下のお考えをお聞きしたくて、ここへ飛ばされてきたのです。もちろん、これは大統領や父たちは関わっていない、私の独断ですが」
というよりもダイモーンが勝手にさっさと動いたのだけれど。
ふむ、とシンアック王は腕を組む。
「やんちゃ坊主が、軍に入って戦争が始まると矯正の効き目が出過ぎてしまった」
「戦争は、魔法のせいで起きる悲劇じゃありません。なのにこの戦争は、魔法への無闇な恐れから起きてしまいました」
「さすがチャリティ・クイーンの華麗なレトリックだね」
「……」
他人事のように感心され、とまどいながらセアンは鼻白んだ。
「いや、いや、私が今それを聞いて『そうなんだよ』と返すのは少しばかり間抜けだからね。けれど称賛は素直な気持ちだよ。理解しようとしてくれて、ありがとう」
「理解……」
セアンは本当の意味で魔法使いの使う魔法の何たるかを知ることができているわけではなかった。
何故ならサリアック王子は、サギ男として暮らしていたかぎりセアンたちの前で一度たりと魔法を使ったことなどない。
マーデル大尉と呼ばれたとき、あれほど自由自在に鉄と火を操ってみせた力を、たかだか水栓パイプの修理に四苦八苦していたあいだは絶対に解放しようとしなかった。
〈王子となかよし〉なダイモーンのお節介に抵抗しつづけていた彼の言葉を、セアンは耳にして留どめている。
持っている力を使わないでいるのは、とても難しいことではないだろうか。
もしそれが難しくないなら、戦争など起こらないのではないか。
魔法であれ、純科学であれ、だ。
「サリアック王子も、非魔法圏の常識を理解しようとしてくれていたからです」
言葉を選び、選び、セアンはシンアック王を見上げて言った。
「でもサリアック王子は、ダイモーンを心に取り戻すべきです。魔法とともにあることが、彼の真実であるはずだから」
そしてセアンは肩をすくめる。
「車椅子がないと私はこんなに無様で不安です。それと同じだと思います」
しばらくシンアック王は口を閉じて考えにふけるようだった。
一人の小娘がやってきたところで戦争を終わらせられる方法がそう簡単に生まれるわけでもないのだ。
……承知しているからセアンは、すべて話してしまうと身の置き所なくうつむいた。
「ミス・セアン。北コロニアの大統領閣下がこの泥沼に参戦を望んでいないことは想像がつくが、それですまないのは世論というものの力があるからだね」
「そうです」
「この戦争は、疑心暗鬼から始まっている。だから君は、腹を割って私と話しにヤーヘルの王宮へ乗り込んできた、そうだね」
「そのとおりです、陛下」
この戦争を、先に仕掛けたのは南コロニアである。逆であればセアンもこうした行動はしない。友好国民を灰燼にした魔法など滅びてしまえばいいと思っただろう。だが、先にそう思っていい権利を持ったのは彼ら魔法圏の人たちなのだ。
非魔法圏から背教者と忌まれ、恐怖される魔法圏の魔法使いたちには、開戦にいたる過程においてもっともっと弁明の機会が与えられるべきだった。彼らに背を向け、理解しようとせず遠ざけたのは非魔法圏なのだ。
「私が北コロニア大統領に、こうした親書を書けばどうだろう。王子の身柄と交換に、中立国である北コロニア主導での停戦協議に応じる――魔法連合は国際社会における魔法圏の従来の権利の維持と国土の安全が保証されるならば、いつでも、鉾を収めるつもりがある。と」
「でも、それでは魔法連合に不利です。けっきょく王子が捕まる前の現状と変わらず、世論の高まりで北コロニアが参戦すれば……」
「だからね、チャリティ・クイーンの出番だよ」
満を持したように言われ、セアンはがくっと顎を落とした。
「私が、何を」
すればいいと? 何ができるというのだ。
「スピーチを」
「まさか。無理です」
「何故だね?」
「だって」
「君は人の善意を引き出すのがうまいから、チャリティ・クイーンとして君臨していたのだろうね。平和の伝道師にはもってこいの人物だと見受けるが」
「私の言葉は嘘ばかりです。だから引退したんです。いいえ、そんなこと今は関係ないわ、戦争ですよ? 政治です。小娘が関わっていいことじゃありません。成果をお約束できません。冗談をおっしゃっているのでしょうか」
伯父が家族の前ではそうだから、セアンは国王の言葉の重さを疑った。
「冗談であっても、人を笑わすことができたらそれは立派な影響力だ。私が愛の女王に任せたいのはそういうことだね」
笑えなかった。
「〈魔法〉と口にしただけで、誰も耳を貸してくれないでしょう。子供の戯れ言とされるだけです」
「ミス・セアン。サリアックは君とおそらく五歳も年は離れていないが、戦争に参加している。国の未来に大人も子供もないばかりか、これからを担っていくのは君たち若者なのだから、君たちの言葉は必要なんだよ。無謀で自由な若者だからこそ、君はここへ、敵地へ乗り込んできたのだろうしね。私が頼んでいるのは、君にしかできないことだ」
王の青灰色の瞳には人をそらさぬ威厳があった。
海と空になじんだ自由人の瞳の色を持つ第三王子は、父親似の顔をしていないな、と思う。
それとも彼も年を取ったら、こんなふうに人の心の奥まで落ち着かせて説得してしまう風格を、身につけていたりするのだろうか――。
「親書に取引事項として、君への頼みを加えて記させてもらうよ。成果は含めない。私は希望の種を撒きたいだけだから」
「……わかりました」
そう言われてはしょうがない。
いいや、しょうがないという気持ちではいけないのだ。
あたまを一つ振ると、セアンは王の目をしっかり見つめて頷いた。
セアンは戦争を止めたいし、サリアック王子を長く生きさせたかった。
余命はつぐないのためにあると彼は言ったのだから、嘘はつかせない。悔恨と呵責に襲われる苦痛の日々であっても、その先の話が途切れて教訓だけで終わるのはフィクションだけでいい。フィクションは教訓を伝えるためにあるけれど、人間の実人生は違う。先があって、先に待ち受ける終わらない日々こそが本当だ。本当の、つぐないだ。
(彼のつぐないを実現させる手伝いが、焼かれた海辺の街の人々への、私にとっての追悼)
「ところで、君をよこしたのがサリアックではないとすると、魔法を使ったのは君かね?」
「いえ、陛下、それが……実はダイモーンはいま、私の飼い犬の中に収まっています」
そんなことがあっていいのですかという顔をしながら答えると、シンアック王はとくべつ驚いた様子もなく、
「君のことを慕っている犬なのだな」
と感心してみせた。
怪訝にセアンは首をかしげる。
するとシンアック王は、めったに起こらないがおかしい現象ではない、ということを説明してくれた。
「精霊と人とは、互いに助け合いの精神で結びついているのだよ。精霊は大いなる塊から我という意識を持って生まれいでたいという望みを叶え、人のために知識を使う喜びによって意識を成長させていく。人は彼らの知識が起こす力をかりて、生活を便利にしていく。すべては、誰かの役に立ちたいという、知性体の準本能と言っていい思いから成り立っているのだ。君の犬は、君の力になりたいとずっと思っていたのだよ。共感に足る思いでなければ、精霊は力を発揮できない」
ポイが。
のんきそうに寝ていたり、じゃれたり、砂浜を縦横に走りながらテラスに向かってうるさく吠えたりしているだけの、あの子が……?
難しい顔をしてしまったセアンに、シンアック王が小さく笑いをこぼして。
そして。
「あの日、私の失礼な言葉に答えて君が何と言ったか、おぼえているかな」
感慨を目に浮かべてシンアック王がたずねる。
「いえ……」
こまっしゃくれていた幼いあの日、何を言ったのだろうか。
「君は、要らないと首を振ってね。こう答えた。『精霊に助けてもらっても、私には返せるものがないとおもうから』と」
セアンは思いがけない過去の自分の言葉に、瞠目する。
鬼火と一緒に動いて国王が立ち上がり、聞こえぬ言葉をつぶやいて腕をのばした。
魔法が、淡く黄色く光り輝き、発動する――。
「君は魔法の本質を見抜いてのけたんだよ。君はきっと、私にあのとき会っていなくても、サリアックを助けただろう」
さようなら、クイーン。私の王妃が寝台に眠っているから、起こさぬうちに会談はひとまず終わりに――。またきっと会えるだろう、その日まで。
気がつくとセアンはくったりしたポイを腕の中に抱いて、さっきまでいた自分のベッドに寝ていて。
灯りの消えた寝室は暗くて、ほかにどうしようもなかったから、ポイを起こさないようにそっと自分も目をつむって、そのまま眠ってしまった。
朝、目が覚めると、枕元に一通の封書が置かれていた。
真紅の封蝋に紋章印の捺された、王からの親書。
北コロニア大統領への。
夢ではなくて、これは本当。
今夜は、〈海運失業者のための救済基金〉発足の夕べにお集まりいただき、ありがとうございます。この会場の様子は全国放送ラジオでも中継されているとのことで、今この放送に耳を傾けていらっしゃる国民の皆様の互助精神の篤さを尊敬し、感謝いたします。
さて今般の世界情勢において、純粋な貿易船は希少のものとなり、多くの商船が軍事物資の運搬、兵站に徴用されています。未だ参戦に及んでいない我が北コロニアの商船も、サメのごとき牙を海中にさまよわす魔法連合潜水艦部隊による通商破壊の危険に晒されながら、交易地と本土とを命がけで往復しております。これらの船は新大陸経済の死活を左右する最前線の守り手と言うことができ、いまだ犠牲は出ていないものの、今日か明日かもしれないそれが起これば北コロニアは、迷わず軍靴を踏み鳴らすことになるでしょう。
まだ参戦は現実になっていませんが、来たるとき、私たちは今ある日常を捨てることになります。
すでに交易航路の縮小は、携わっていた人々の暮らしを変えてしまっています。今年の冬至祭りにこの人たちの家庭の多くが、去年より貧しい食事をします。
彼らのほとんどは、新年が明けても仕事はない見通しです。基金では、彼ら海運失業者に月十ゲールの給付と毎月曜の炊き出し実施を予定しています。ご賛同の皆さんの善意の寄付金が、彼らのあしたをつなぎまず。
我が北コロニアには、苦難を乗り越えて建国された力強い国家である自負があります。国民には根強く相互扶助の精神が息づき、弱者救済網を厚いものとしてきた誇るべき歴史があります。歴史の端緒にはまた、人々の記憶に残る不幸な貧困のできごとがいくつかあったわけです。
〈七つ子のタルト〉、というお菓子にまつわる話がニューバーレイの田舎町には伝わっています。――
『昔々、あるところの村に、秋生まれのかわいい七つ子が住んでいました。お母さんはお誕生日に好きな果物でタルトを作ってあげようと約束していたのですが、いざお誕生日がきてみると、七つ子はてんでばらばらなことを言ったので、けっきょく林檎のタルトをつくりました。七つ子は七人とも林檎がきらいでした。真っ赤なまあるいほっぺが林檎に似ていたからです。ぶーぶー文句を言いました。でも大丈夫、お母さんは七つ子のほっぺをちぎってタルトにしたのでしたから』
この風刺的な童話は、口減らしの悲劇を記憶するために残された物語です。滑稽なあらすじは私たちに、なんともいえない不気味さを感じさせます。誇張とユーモアに隠されたところに本当の悲劇は存在し、むしろ隠されることで私たちは想像力と共感を掻きたてられ、印象ぶかいものとしてこれを受け取ることになるのでしょう。
変わって、私が今からお話する出来事は、誇張とユーモアをなるべく排除して語られるべき、小さなできごとです。カッコでくくるような強調も、ページをめくる動作も必要としません。これは日が昇り沈んでいく日常の地続きに私が体験したことです。
月の始めに、私は住んでいる浜辺で一人の人間を拾いました。彼は砂の上に倒れていて、熱を出していました。記憶を失っていて、運びいれた家の中で目が覚めても、自分の名前も、身元も、言えませんでした。けれども私は彼が身につけていた服から、どこの誰であるかを知っていました。彼は魔法圏から来た、魔法連合ヤーヘル王国軍の潜水艦部隊所属艦艦長、つい昨日南コロニアの軍港と港街一つを大火魔法で焼いてきた、魔法使いでした。後で知ったところによると、彼の名はサリアック・マーデルといい、ヤーヘル王国の第三王子が生まれついての身分でした。非魔法圏の私たちは、かつてレミアック王を筆頭にこぞって精霊との契約を交わして魔法の力を得たという王族たちに、その旧態政治という意味も含めてよいイメージをもっていませんが、サリアック王子は高貴ぶっているかいないかの点において、あまり王子らしくは見えませんでした。彼はむしろデッキ掃除になれた海軍の青年でした。
結果的に言えば、私は彼を一週間も家に置いていました。通報して騒ぎに巻き込まれることがいやだったし、働き手として使いでがあったからです。実は、記憶がないというのは彼が私の家に面倒を持ち込まないためにしたフリだったのですが、正体に気付かないフリをしていた私の態度も彼にとっては好都合だったでしょう。彼は一週間のあいだ一毫の魔法の気配も見せようとはしませんでしたが、迎えに現れた母国の潜水艦乗員たちの前で、帰還を拒否したとき初めて、彼を連れて帰るために仲間が用意した檻を魔法の力で破壊しました。彼は一緒に閉じ込められた私を守ろうとしてくれた一方、魔法の暴走によって私の家の家政婦の腕を怪我させてしまいました。
魔法の暴走は、彼自身の、魔法の力への疑問、嫌悪、後悔、自責、自失があいまって起こったことです。彼は毎晩、おそらく自分が焼き払った街の夢を見て、うなされては叫んでいた。
それでとうとう彼は、精霊をその身から落としてしまいました。
まもなく彼は北コロニア政府に収監されました。今も地下深く、牢の中につながれています。精霊がその身の内にいない今、彼は魔法を使えません。使える状態ならば檻を壊して逃げるのだろうと思う人もあるかも知れませんが、精霊を落っことした彼の心は魔法を拒んでいるのだから、つまり彼は魔法を使うつもりがないということになります。そもそも、捕まってから危険をおかして逃げるくらいなら、おとなしく潜水艦に乗って帰ればよかった。
彼は南コロニアには引き渡されたくないから、北コロニアで処刑してくれと言っているそうです。
私が知っている事実はだいたいこれだけです。もりあがりもひねりもなく、あったことだけをお話しました。海辺の家に静かに暮らしていた私の日常に起きたことでした。
十四このほっぺが焼き上がって終わり、というような滑稽で悲劇的なオチも、まだついていません。七つ子の林檎のタルトのお話は皆さんに、貧しさへの心配り、相互援助の大切さを喚起させ、基金の財政の役にたつかも知れませんが、収監された魔法使いに関する私のぽつぽつとした経験と知識は、憎しみを煽るにさえ物足りないとお感じではないでしょうか。
事実には、あんがい力がないものです。事実の前で人は無力です。南コロニアのペンセルで何千人が亡くなったと報道された朝よりも、その午後に流れた南コロニア大統領の演説のほうが、我々の怒りと復讐心をかきたてました。
私がお話ししたサリアック王子について、彼の実物を見たことのない皆さんは不安と怒りの対象であることを前提にその人物像を描くと思います。しかし私の見たかぎり魔法使いとは、罪ばかりでできているものではないようでした。彼は勤勉でしたし、神に祈りを欠かしませんでしたし、こうも言いました、「人と人は、助け合って生きてくものだよ」と。この会場に彼がいたら、彼の自由にできる三十ゲールを寄付してくれたでしょうね。
そういえば、私が彼の命を助けて拾ったことを、逆に怒られたこともあります。投げ出されたまま海で死んでしまえればよかったのにというふうに、罪におびえる彼は思っていました。悔恨が彼の日常になっていました。
あした北コロニアにも戦争がはじまれば、私たちの兄弟も魔法圏の人々を殺しにいきます。善良な私たちの兄弟も、それが私たちの正義を守るための戦いであるとはいえ、あたたかい血の流れる体を持った同じ人間を、幾人も、幾人も殺して生き残らねばならない場所に身を置いて過ごせば、まもなく彼のように悪夢に苦しむ人になるでしょう。
失われていくのは、戦意高揚のためのフィクションによって動員される私たちの日常です。私たちがたった今、当たり前だと思って生きている日常。
貧しい人々のために財布からお金を出すのは尊い行為ですが、戦争は家庭から人の命をわしづかみにして持っていってしまいます。一度始まれば自動運動のようで、なかなか止めることも難しい。
すでに戦争によって失われた、そして最前線にて危険にさらされている日常のことを、初めにお話しました。今年の冬至祭を、尊い日常のために、祈ってください。できるならば、あなたの善意を基金の募金箱に、闇に覆われようとしている世界に、そっと鳴らしてください。小さな音でいいのです。かそけく小さなため息のような音が、少しずつ世界を変えていくと――、きっと大きく変えるよりも、小さく抗ったほうが私たちのためにいいのだと、私は信じ、願っています。ご静聴ありがとうございました。