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一-1



「あら」

 セアンは日常の中に目ざとく異変を見つけた。

「あらやだ。欄干の格子が、もうこっち側までサビてる。どんどんサビてるわよ、スー。去年の秋に塗りかえたばかりなのにね。というより、また秋なの?」

 テラスに吹きつける潮風も、心地よいというより肌寒く感じられるようになってきた、と、セアンはショールをかきあわせる。

「ついこの前に新年を迎えたばかりじゃなかったの?」

「さすがにそれはないですよ、お嬢様。すっとぼけになっちゃ嫌ですよ、スーは賢いお嬢様が好きですよ」

 セアンのカップに熱いお茶を入れ替えながら、家政婦のスーが濃くて太い眉をよせて早口に答えた。

「ジミーの便利屋は隣町に越してってしまったんですよ。呼べば来ますでしょうが、町までいって電話してこなくちゃなりません」

 ポットを置くと、スーはセアンが眺めやるテラスの端の欄干までちょこちょこと小柄な体を転がしていき、格子の付け根までかがんで、腐食の具合を確かめた。

「潮風ってのは、やっかいですね。あとからあとから追っ付かないですよ」

 あとで町までひとっぱしり行ってきますよ、とスー。

「悪いわねえ」

 言ったセアンはもうほかのところを眺めて上の空だった。

 低い崖の上に建つ家のテラスから見下ろす景色は、肌色の砂浜が左右にのびてつづいている。

 うちよせる波と泡。

 潮騒のおと。

 海の青色は日ごとに違って飽きないけれど、そんな日々になじんだセアンを海のほうから眺めたら、きっとすぐに飽きられてしまうだろう。

 ふとセアンは、テーブルへと戻ってきたスーのからだ越しに、砂浜に浮かぶ染みのような色を見つけた。

「なにかしら」

 車椅子から首を伸ばしたセアンのことを、スーが怪訝そうにうかがった。

「どうかなさったんですか?」

「ねえ、スー、あそこ、あそこに何か落ちていないかしら?」

 どこ、どこですか?

 エプロンのリボンを結びなおす癖をしながら、スーがまた欄干へ寄っていき、セアンの指さしているほうを覗きこむ。

 ここから見える範囲ぎりぎりの端のほうに、棒切れが埋まったような影が落ちているのだが。

「打ち上げられた流木かしら……」

「うーん、まさかイルカの弱ったのじゃあないでしょうねえ。そんなふうに見えますよ?」

「えっ、イルカ?」

「にしては小さいでしょうかね」

 スーはやたらと首をひねって不審がり、

「ちょっくら見てきますよ」

 と言った。

「そうしてちょうだい」

 テラスから崖下へつづく階段を降り、スカートをつまみ上げて砂浜を歩いていくスーとその先の物体をよく見るため、セアンは車椅子を動かした。

 両腕で、タイヤをまわす。めったに自分では動かさないから、欄干へ近づくだけでもたいそう骨が折れた。

 床にうずくまって寝ている犬のポイのしっぽを轢きそうになると、ポイは毛むくじゃらな小さい頭をもたげた。

 ポイはセアンのほうを見ないで、階段のほうを気にして四つあしで立った。

 そのまま走っていってしまう。

 セアンは車椅子の肘かけにすがって欄干から首を乗りだすように砂浜を見下ろした。

 黒い影におそるおそる近づいていくスーを見守る。

 砂の上に点々と薄くかすかなスーの歩き跡がついていた。

 すっとんきょうな悲鳴が、潮風に流れて聞こえてきた。

 近寄った黒い影からスーは二、三歩も跳びすさって、両手を口元へ持っていった。足元で、ポイが黒い影に向かってぎゃんぎゃんと吠えたてながら、落ち着かなく駆けまわった。

 スーは転げるように走ってポーチの下まで戻ってきた。

「ねえ、どうしたの?!」

「お嬢様ぁ、大変ですよあれは人ですよ! 人が打ち上がってしんでるんです! おそろしいこと!」

 真っ赤になってスーが叫んだ。

 セアンは「死んでいるの?」とつぶやいて、もういちど影のほうを見る。

 じっと動かない影。

 それが横たわる人だと思って見つめると、今にもむくりと動きそうでどきどきした。

 まだポイがせわしなく駈けてその物体に向かって威嚇の吠え声をあげていた。

「男? 女? どんな格好? もう人相も何もなく水を吸ってぶくぶくだった?」

 ひゃあ、とスーはおぞけに震えて、泣き顔になる。

「なんてこと言うですかぁ、お嬢様。いいえ、顔はしっかりしてますよ、若い男じゃないかと思いますねえ、うつ伏せなんで、砂つぶのいっぱい張り付いた横顔しか見えませんでしたが」

「あら、だったら死んでるかどうかなんてまだわからないじゃない」

「死んでますよ、ぴくりとも動きゃしないんですから」

「死んだふりしてる泥棒ってこともあるわよ。何にせよ……タヌキ寝入りの泥棒にせよ、新手の結婚詐欺師にせよ、水死体にせよ、早く警察を呼ばなくちゃ」

「けいさつ! そうか、警察ですね。あたし、ひとっぱしり行ってきますよ!」

 セアンはそれを聞いて少しあわてた。

「ちょっと待ってスー。もし死んだふりしてる泥棒だったら、あなたがいないあいだに私、したいようにされてしまうんじゃないかしら?」

 下で見上げるスーがひっ、と顔色を青くする。

「ほんとですよ、お嬢様」

「マクビーじいさんを呼んできて。今朝は果樹園のほうにいるはずだから」

 わかりました、と頷いて、スーが家の横手へと駈けていく。

 寡黙な庭師のマクビーじいさんは、せかすスーのあとを文句ありげな足取りでやってくると、浜からセアンにちょっと帽子を取って挨拶し、そのまま通り過ぎようとした。

「マクビーさん、ちょっと待って」

 マクビーじいさんはセアンを振り返った。

 声をかけたけれど言いよどんだセアンの顔をマクビーじいさんはじっと見上げて、マクビーじいさんのほうから普段は無口な口をひらいた。

「いっしょに見に行きますかね?」

「ええ、おねがいしたいのだけど」

 階段を昇ってきたマクビーじいさんにおんぶしてもらい、セアンは浜辺に降りる。

 ひっきりなし吠えているポイを追い越して、マクビーじいさんの肩越しにすぐそばから目にした物体は、たしかに人間のかたちをしていた。

 髪の短い男。

 砂にまみれて汚れた顔は、砂の色より蒼白だが、眠っているようにも見えた。

 マクビーじいさんがセアンをおぶったまま、男の首にかがんで手を触れ、

「熱い。脈がある」

 と言った。

「やっぱり泥棒ね。それとも結婚詐欺師」

 セアンのつぶやきに、

「じゃあ警察を呼んできますよ」

 と、スーが張り切る。

「スー、警察には行かなくていいわ」

 セアンは言った。

「え、なんででしょう?」

 セアンは男の着ているつなぎのような服の襟についたバッジを、じっと見ていた。

「行かなくていいわ。この男、たぶん町の警察ともぐるで、とにかく私をだまして財産を取ろうとしているのよ。警察に届けても、あとあと瀕死のところを助けてもらったお礼だとか言って家に上がり込んで、いい気持ちになった私に取り入って、お近づきになって、身ぐるみ家ごと“いただく”つもりよ。計画的に近づいて、変な噂でも立てればあとは簡単だもの。私には逃げようがないし」

「はあ、それは気取り屋トニーよりもタチが悪いですね」

「本当よね、まったく。……だから、警察に届けたら最後よ? まず、うちの中に隠しておいて様子を見るのよ。そのうちボロをだすまでね」

 マクビーじいさんが何か言いたげに首をセアンのほうに回しかけたが、けっきょくマクビーじいさんのごましおのヒゲだらけの口元は引き結ばれたままだった。

「スー、あなたにおぶさるわ。マクビーさん、すまないけれど、家の中までこの“人間”を運んでくださる」

 マクビーじいさんは黙ってセアンの言うままに動いた。何をするにも不機嫌そうなのはいつものことだ。

 マクビーじいさんが頬をはたいても、肩を担いで引きずっても、男は目を覚まさなかった。

 うめき声や吐息すら出てこない。

 息はあるから、肺を海水で詰まらせているわけではなさそうだった。

「はい、お嬢様、立ち上がりますよっと、よいしょっと」

 背中にセアンをのっけて立ち上がったスーが、顔を上げた先にマクビーじいさんに背負われた男の後ろ姿を見て、

「はあ、亀?」

 と言った。

 スーの肩越しにセアンも同じものを覗いた。

 紺色のつなぎに、海の塩が乾いて白く浮いている。つなぎの背中には、同系の目立たない色で刺繍されたエンブレムのような図柄が見えた。

 海草を模した縁どりの中に、一匹の大きな亀が泳いでいる。

 亀の甲羅には美しく装飾化された文字も書かれていたが――。

「あれはなんて書いてあるんですかね」

 綴りの読めないスーに訊かれて、

「〈亀ほど遅い運送屋〉」

 と、セアンは答えた。

「運送屋さんなんですか」

「偽装よ偽装。事故にあったように見せかけて、哀れぶって財産を――」

「あ、なるほどなるほど」

 セアンは図柄をもう一度よく見た。

 それから海のほうへ顔を向けて、凪いだ朝の海面を、――はっきりと眺められるその水平線までの景色をくまなく見通した。

 かなたの波間に、きらりと朝日を跳ねかえして光る何かが、一瞬だけ見えたような気がした。




 セアンの住む家には三年前まではもう一人、雑事を引きうける使用人の少年が住み込んでいたのだが、『雇い主の性格に着いていけない』と言って、出ていってしまった。少年は、いまは近郊の農場で働いているという。農場では、海辺の家に住むセアン・スタチェットという少女はごうつくばりの骨と皮の魔女のように語られているという噂だ。

 その少年が使っていた日当たりのわるい使用人部屋のひとつに、男は運び込まれた。

 汚れた身ぐるみを剥がしてベッドに寝かせられた男は、マクビーじいさんが持ってきたじいさんの肌着とモモヒキをじいさんの手で着せられた。マクビーじいさんはひょろりと背があるから、その毛糸のモモヒキは中背の男にはズボンと言ってちょうどよい丈だった。まあ、それでもモモヒキはモモヒキだったけれど。

 とりあえず清潔さだけは与えられた男の姿をセアンが目にしたのは、ずっと時間がたってからの、その日の夕方のことだ。

 男を運び入れる指示だけ出して、いつもの習慣どおりに図書室に籠ったセアンは、いつもの習慣どおりにラジオをかけながら読書にふけった。

 読書にかけては雑食なセアンだ。だからスーにとっては慣れた光景だったが、図書室の掃除にお邪魔したときテーブルの上に開かれていたのは、国の紋章がびっちりと並んだ図鑑や、勇ましい軍艦の写真をあつめた物騒そうな本ばかりだった。字が読めないスーでも楽しい物語の本ではないとわかる。

 十六歳の少女が好き好んで読むようなものとも思えないし、そうじゃなくてもセアンは毎日ニュースを聞いては“ものわかった顔”をして、「戦争なんてするもんじゃないわ」とスーに言って聞かせるのだったが。

 セアンの蔵書にこういった本があるのは、とにかく暇にまかせて浴びるように読んでしまうセアンの毎日ゆえに、世に出ている本は片っ端から取り寄せて、読破して、溜め込んでいるからだった。

 ときどきはこうして、過去に読んでしまった本を引っぱりだしたりもする。

 そんなふうに日課の読書を終えて、いつもどおりに呼び鈴を鳴らして、居間へ戻るためにスーを呼んだセアンだったが、何度も鳴らしてもスーが来ないので、聞こえないほど忙しいのかしらと思いながら自分で車椅子の車輪を回して廊下へ出ていった。

 ふと居間とは反対のほうへ顔を向けると、わずかに隙間の空いたドアが目に入った。

 そこが男を運び入れさせた使用人部屋だと思い出し、セアンはなんとなくその部屋を覗いてみる気になった。

 もしもぜんぶ演技で行き倒れたフリをしているなら、人がいない今頃は、こっそり起き上がって、セアンたちをどう騙すかの算段をしているかもしれない。

 車輪の音をたてないようにゆっくりと廊下をすすみ、そっと上半身を寄せてノブに取りつく。

 隙間から覗くと、部屋の中は光を絞ったランプひとつの薄明かり。

 枕におとなしく頭を載せ、氷嚢を額に当てられて眠る男の顔がぼんやり見えた。

「あんれ、お嬢様!」

 かかった声にびくりと肩を震わせてセアンはふりかえり、あわてて「スーおそいわよ」と言った。

「お呼びでしたんですかお嬢様ぁ、それはすいませんでした。まぁそんなところまでご自分でいらっしゃって」

「別にわざわざ心配して見に来たんじゃないのよ。もしもぜんぶ演技で行き倒れたフリをしているなら、人がいない今頃は、こっそり起き上がって、私たちをどう騙すかの算段をしているかもしれないでしょ」

 あらかじめ考えていた言い訳をすらすらと言った。

「用心が必要ですね」

 と、スーはまじめな顔をして頷いた。

「そうよ。今晩からは、寝室にも鍵をかけて寝なくちゃ駄目よ」

「そうしましょうねぇ」

「ところでお夕食はなにかしら」

「ローストチキンスープにしようと思っておりますが。ブラウンの奥さんがこの前のジャムのおかえしに、けさシメた鶏の足を二本くれたんで」

「あら、いいじゃない。サギ男(フラウドマン)にはあした目が覚めたらうわずみでも飲ませたらいいわね」

 この家では一切合切がセアンの鶴の一言で決まるので、明くる朝にはスープのうわずみが使用人部屋のベッドの脇に置かれたし、男の呼び名もいつのまにか〈サギ()〉で定着してしまった。

「サギ男、一晩で熱は下がったのに、目が覚める様子がないですよ。まったく、たくらみが早々にバレているもんだから、起きるに起きられなくなっちゃったんじゃないですか」

「詐欺師にしては肝が小さいわね」

 深い眠りはよほどの疲労からのようだったが、この家の女たちは簡単には用心を手放さない。

 女主人であるセアンの性格である。

「ねえスー。サギ男、目が覚めたら一番になんて言うかしら。賭けをしてみない?」

 その夜、夕食を終えて居間でお茶を飲んでいるとき、セアンはそんなことを思いついて言いはじめる。

「はぁ、賭けですか」

 ティーコジーをポットに掛けなおしながらスーが小首をひねる。

「そうね私は『女ども、金目のものを出せ』ね」

「ひぃ、そんなこと言われたらどうなさるんです?」

 セアンは肩をすくめて、とぼける顔をつくる。

「この家にたいした金品を置いているわけじゃないもの」

 普段から町の銀行の貸金庫にしっかり隠してあるのである。

 女主人セアンの疑りぶかい性格のためだった。

「まぁ、そうですねぇ。じゃ、あたしは『ここはどこ、あたしはだれ、雲の上?』に午後のお菓子ひときれ賭けさせてもらいますよ」

「あら、私もそのせりふに変えようかしら。詐欺師なら言いそうよね」

「駄目ですよ、これはあたしんです」

 スーが得意げに胸を張った。

 その得意さかげんがちょっとおかしくて笑っていたら、外から忍び入ってきた隙間風にそわりと肌をなでられてセアンは身震いをした。

「冷えてきたわね。スー、ストーブを点けて、それからラジオも」

「はいかしこまりました」

 やがて六時のニュースを読み上げるアナウンサーの早口が居間に流れた。

 世界をおおう戦争の状況が、点と点でつなげられていく。

 耳を傾けるセアンと、編み物をするスー。

 それは毎晩の、平和でおきまりな光景だった。


《ヤーヘル魔法連合軍による南コロニア西海岸への魔法攻撃は、死者五千を越える甚大な被害をもたらしました。この攻撃は戦争法第6条に違反する行為であり、コロニア同盟は国際社会にヤーヘル魔法連合の悪魔性を訴えています。

 我が国大統領は今夕、南コロニア国民に心よりの弔意を表明し、戦争継続方針への全面的支持を正式に発表しました。南コロニアは今後、我が国に参戦の要請を強めてくると思われ――》


「伯父様もつらい立場ね」

 セアンはそっとつぶやいた。

 「はい? なんでございます」とスーに問われて、「なんでもないの」と首をふった。

「魔法で都市を焼くなんておそろしいわね、スー、想像できる?」

「できません」

 スーは神妙におそろしげな顔をして、かぶりをふった。

「そうよね。もっとおそろしいのは、参戦したら北コロニアもそんな得体の知れない相手と面と向かって戦わなきゃいけなくなるのよ。もうすでに海のこちら側の大陸の半分はそうしているわけだけど」

「そうなってしまうんでしょうかぁ」

「時間の問題ね」

「あたしの弟たちなんか、まっさきに兵隊に取られてしまいますよ」

「だけどスー、あなたの弟さんたちはヤーヘルについてなんて言ってるんですっけ」

「わるい魔法使いなんか、ひとっ走りやっつけてきてやんぞ、と言ってます。田舎で会えばそんなことばっかり言ってますよ。もっとも、弟たちだけじゃなく町中がそうですが」

 セアンは少し考え込んで、

「それもそうね」

 みんながそういう気持ちなら仕方がない、と思ってセアンは言った。

「たしかに魔法使いなんて、うす気味が悪くて近づけたものじゃないものね。やっつけられるものならそれにこしたことないんだわ。気を許して好き放題されたら魔法で身ぐるみはがされてしまうかもしれないんだもの」

 けっきょくセアンにとっては、自分に損さえ降りかかってこなければ良いのだった。

 とにかくこの海辺の家さえ巻き込まれなければ戦争なんてどうでもいい。

 そういう態度を取っていないと、どこまでも付け込んでこようとする連中が、彼女の周りにはたくさんいた。

 そろそろ寝る支度をする時間になってスーが洗い物に立ち、ひとりストーブの火を見つめながらセアンがラジオから流れるクラシックをぼうっと聴いているときだった。

 廊下に足音がして、居間の入口から人影が覗いた。

 セアンはちょうど入口のほうを向いて座っていたから、その人影がこっちを見るのと同時に目が合った。

「スー! スーザン!」

 人影が固まったのが先か、セアンが叫んだから固まったのか。

 人影とセアンがじっと対峙するあいだにキッチンからどたどたどたとスーが駆け込んでくる。

 スーの両腕には長銃がしっかと抱えられていた。

 スーは銃口を人影に向けて構えた。

 狙撃手なみの格好であった。

「両手をあげな!」

 廊下の暗闇に身体をはんぶん残していた人影は、スーの命令にあわてた様子で手を掲げ、部屋の明かりの中へ姿を現わそうとして、バランスを崩した。

 入口の枠に後頭部をぶつけながら貧血を起こしたように座り込んだ。

 男の姿が明るみになった。

「……サギ男ね?」

 セアンがつぶやく。

「サギ男?」

 おうむ返しつつ男がセアンのほうに目を上げた。

 頭はまだ枠から持ち上がらないらしい。

「このペテン師! おとなしく有り金をぜんぶ出しな!」

 銃口を向けたまま怒鳴るスー。

「スー、あなたがそのせりふを言ってどうするわけ」

 冷静にセアンはたしなめた。

「ここは……警察じゃ、ないのか」

 怪訝そうに目をほそめて、男がひとりごちた。

 それを聞いてスーが興奮した。

「警察ですってぇ、やっぱり警察とグルなんでしたよお嬢様! ええ、もしくは警察のごやっかいになるしかないようなゴロツキに間違いありませんでしたねえ!」

 ますます怪訝そうな目つきになる男を見下ろしながら、セアンがスーにうなずく。

「……そうね。ええ、スー。私の推理のお手柄よ」

 それで男の注目がセアンに留まった。

 首をもたげた男の視線を受け止めて、セアンは昂然と言い放った。

「観念しなさい、サギ男」

 かたんと音をたてて男は後頭部をふたたび枠にもたせると、息をつく。

「何だかよく分からないけど、どうせ動けない……」

「くちびるが真っ青なフリしたってムダだよ!」

 それはフリでできるものでもないんじゃないの、とセアンは内心で思った。

「スー、とりあえず銃は下ろしておあげ」

「はい、お嬢様」

 男は疲労のせいでそれ以上はまわりで起こっていることを気にもできないというように天井を仰いだ。

「お部屋にスープが置いてあったはずよ」

「それはどうもありがとう」

 妙にきちんとしたお礼を反射的に返して、男はめまいに沈んだ。

「スー、スープをあたためなおして持ってきてあげたら」

「はい、お嬢様」

 たったったっ、とスーはサギ男の真横をすり抜けて廊下へ出ていき、スープ皿の載ったお盆を回収して戻ってきた。

 鍋で温めなおしてきたスープをサギ男の前に置くと、スーはセアンのかたわらへ戻ってもういちど長銃を小わきに抱えた。

「ああ、本当にどうもありがとう、ご親切に」

 やはり男は身についた自然さでお礼を言った。

「ご厚意に甘えます」

 じつにあっさりと、照れることもなく男はふたりの監視する前で食事にありついた。

 具も浮いていないうわずみのスープをのどに流し込む。

 さもしい栄養補給を気の毒に思ったのかスーが、夕食の残りのコーンブレッドをふたつナプキンに包んで持ってきてやった。

「ごちそうさまでした」

 男は出された食事をきれいに平らげ、ナプキンで口をぬぐうと、姿勢を正すように床の上で座りなおした。

「それで、サギ男さん、人心地ついたなら教えてほしいものだけれど、あなた、どこの組織に雇われたのかしら。それとも単独犯のチンピラかしら」

 男はきょとんとセアンの詰問する顔を見上げて、「はあ」とあいまいに相槌を打った。

「神妙に答えな!」

 男はふと外を気にした。

「ここは、海の音が聞こえますね。浜辺にある家ですか」

 閉じられた雨戸の向こうへ耳を傾けるようにしながら、そう言った。

「だから?」

 とセアンは眉をひそめて訊きかえす。

「ぼくは浜に打ち上げられていたりしたんでしょうか。どうも海水の生臭さが体や頭髪に染みついているような気がする。口の中も砂でざらざらしてたんです」

 分析するみたいに男は言葉をつらねた。

「ええ、事実としては、あなたは浜に転がっていたわよ。遭難を装おうとしたんでしょうけどね」

「だとすると、服は着けていましたか? それはどんなものでしたか? 僕がどこの所属の者か、もしくはどこにも所属していないかは、その服を見ればある程度わかるんじゃないでしょうか」

「あなたずいぶんまどろっこしいことを言うわね」

「はあ、つまりぼくは、所持品を奪われてしまっているこの状況では、自分が誰なのか証明できません。つまり……」

「記憶がないの?」

 男はセアンの言葉に、少し驚いたようだった。

 わずかな空白ののち、のろのろと頷いた。

「そうみたいなんです。なんにもわからない」

「名前も?」

「はい」

「身分も?」

「はい」

「犯罪計画も?」

「……はあ、はい」

 最後の確認には、またまた怪訝そうにして頷いた。

「信じると思う?」

 セアンは鼻を鳴らして呆れてみせた。

 男は困ったように黙って肩をすくめた。

「お嬢様はあんたの魂胆なんかお見通しだよ!」

 しかし男は、びくつきもせず不思議なものを見るようにスーの剣幕を眺めていた。

「仕方がないわね。まあ、これも織り込み済みよ。あくまでしらを切り通してくるでしょうってね。だけど騙されるセアン・スタチェットじゃないってことは肝に銘じて憶えておいて」

 自分が何を言われているのか分かっているのかいないのか。男は飄々とした面持ちでセアンの啖呵を聞いて、ちょっと時間をおいて咀嚼するようにしてから、

「わかりました。憶えておきます」

 と、はっきり答えた。

 空きっ腹の状態から気力を回復すると、意外なほどよく通る声だった。

「あなたのことは、とうぶん警察には突き出さないわ。警察は信用できないの。あなたとグルかもしれないのよ。だから、しばらくはこの家であなたの言動を監視するわ。私に対して何をしようとしていたのか分かるまでは、とにかくね。まったく面倒なことになったものだわ。ねえスー?」

「ほんとにまったく」

 鼻のあたまに皺をよせたスーはセアンに頷いて、男のほうをふりかえると、しかめ面でにらみつけた。

「サギ男、あんたは当分ディビィ坊やの代わりだよ。どんな悪人でも間抜け者でも一応は男手さ、ペンキ塗りくらいはできるだろうからね」

 着せられている爺さんじみた下着をつまんだり、ぱたぱたさせたり、珍しいもののようにためつすがめつしながら、男はスーの決めつけを聞いていた。

 あとからその命令にうんうんと頷いてみせた男が、ふとうつむいて廊下の暗闇へ隠すように浮かべた表情にセアンは気づいていた。

 苦笑いのような、かみ殺した笑いのような、そういう顔だったようなのだ。




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