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第四話 亡郷のあたりめ

 板場は物々しい空気に包まれていた。


「おい、シャケのお嬢ちゃん、そろそろお前の正体を明かしちゃあくれねえか」


 花板の静かな、しかし怒りをはらんだ声が重い空気を震わせる。


「これ以上な、板場が荒らされるのは我慢ならねえんだよ」


 ベーリング嬢はしばらくじっと花板を見ていたが、諦めたようにうつむくとふっと小さく笑った。


「いいよ、全部話そうじゃないか。だからさ、そんなおっかねえ顔はやめてくれよ」


 そのとき、引戸が勢いよく開いて、真っ青な顔のムラサキ殿下が飛び込んできた。


「ベーリング! いいんだ、君は」


「この期に及んで何言ってるんだ!」


 ワサビ殿下の怒号が飛ぶ。


「頭まで茹っちまったのかよ! こいつのせいで、ギンが危ない目に遭ったっていうのに」


「ギンが……?」


 ムラサキ殿下は動揺を隠さずに大きく目を開いて私を見た。

その視線に胸がぐっと痛む。


 だって、私は昨夜、ワサビ殿下と……


「ああ! どいつもこいつも静かにできねえのかい」


 ベーリング嬢は大声で啖呵をきると懐に手を入れた。

花板の顔に少し緊張が走る。


「こいつを見な」


 取り出されたのは、あたりめになったイカのエンペラだった。


「エンペラ……?」


 訝しげに眉をひそめた花板の顔がみるみるうちに青くなる。


「まさか、そんな……皇帝(ツァーリ)か?」


「皇帝?」


 聞き返すと、花板はすっかり色を失った顔で頷いた。


「ああ、かつては広く北の海を治めていた君主だ。革命で王座から引きずりおろされて……行方不明になったと聞いていたが」


 強大な北の海の主……なぜ彼がこんなところで、変わり果てた姿になっているのか。


 ベーリング嬢は長いため息をつくと、静かに口を開いた。


「そう、こいつがダイオウイカのなれの果て……あたしの旦那だったものだよ」





「あたしとこの人はね、政略結婚にしちゃあ、上手くいってる方だったんだ」


 気だるそうにエンペラをくるくるもて遊びながらベーリング嬢は話しはじめた。


「でもまあ時代っていうのかねえ、穏やかじゃない話だが、革命が起こってこの人はあっさり殺されちまった」


 軽い口調に喉の奥がぎゅっと切なくなる。

もし、ムラサキ殿下が死んでしまったら、私は耐えられるだろうか。


「それで終わってればよかったんだけど……」


 ベーリング嬢の目がすっと細くなる。


「体制派の貴族たちがそれを許さなかったんだ。エンペラさえ見つからなければ、皇帝の死は隠される。だから、くだらねえ時間稼ぎのために、あたしは死ぬことも許されずにこんなところまで来たってわけだ」


 それでは、あの夜岸に流れ着いたのは、夫のなきがらを抱えて逃避行の末のことだったのか。


「本当に馬鹿な連中だよ。体制がなんだ身分がなんだって大騒ぎして、こんなもんを必死に追いかけてるんだから」


 エンペラをじっと見つめると、ベーリング嬢は王冠のように広がったひれにそっと唇を寄せた。





「厄介ごとを持ち込んじまってすまなかった、あたしはもう行く」


 片付いた部屋の中、傾きはじめた日に照らされて黄金に輝く海を見ながら、ベーリング嬢は言った。


「行くって……?」


「北に帰るよ」


「え、でも……」


 彼女の祖国……遥か北の海は、革命の荒波にのみこまれていまだに混乱の渦の中にある。


 それに……


「その、ムラサキ殿下は」


 思わず口から頼りない言葉が漏れる。

もし、もしもムラサキ殿下がベーリング嬢に、国を追われた皇后への畏敬の念以上の……特別な感情を持っているのなら、私の方が身を引くべきなのではないか。


「ムラサキ殿下……ね」


 ベーリング嬢は小さくつぶやいた。


 あの日の大時化が嘘のように海は穏やかで、時おり気まぐれのように波が水面を撫でていく。


 彼女の表情は、午後の光に包まれてここからではわからない。


「ありがとうって、それだけ伝えておいて」


 振り返ったベーリング嬢は笑っていた。


「湿っぽいのはいけねえや、ここの海は、あたしにはちょっと温かすぎる」


 そう言って、彼女は片手を上げると光る海の中へ飛び込んでいった。





「ありがとう……って?」


 日が沈み切った、深い藍に覆われた海を見ながら、ムラサキ殿下はそれだけ言った。


「ええ、それから……ここの海は温かすぎるって」


 海は穏やかで、驚くほどに大きな月がゆらゆらと波間を漂っていた。


 しばらくうなだれていたムラサキ殿下は、急に立ち上がると勢いよく海に飛び込んだ。

深く沈んだあと、水面に顔を出したムラサキ殿下が言った。


「ギン、お前も来い!」


 来いって、言われても……私は窓から身を乗り出して殿下を見る。


「いやよ、ふやけてしまうわ」


「今日ぐらいいいだろ」


 だだっ子のように言っていたムラサキ殿下が、ふと寂しそうにうつむいた。


「来てくれよ……お願いだ」


 小さく息を吐くと、私はひと思いに海へと飛び込んだ。

水しぶきがあがって、深く、透明な青の世界に包まれる。


 しばらく何も言わずに、ただふたりで海の底を漂っていた。


「また、会えるわ」


 ぽつりと、気休めにもならない言葉がこぼれた。


「海はつながっているんだもの」


 もしかしたら、それは私の願いでもあったのかもしれない。


 横にいるムラサキ殿下がどんな顔をしているかはわからなかった。


 遠い水面では、やけに明るい月が揺れていた。

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