第三話 まどろみの蕎麦湯
シナノザカに来るのは久しぶりだった。
昼間の衝撃的な出来事で気が動転していたけど、お茶を飲んで話しているうちにだいぶん落ち着いてきた。
「するってえと何かい、ウオガシに外海の連中が入り込んでて、しかもそれがベーリング嬢と関係してるってわけか?」
「まだ、確信があるわけじゃないんだけど……ムラサキ殿下には相談できなくて」
ムラサキ殿下にこのことを話しても相手にされないかもしれない。
ウオガシに不穏な影が迫っていることより、恐ろしい目に遭ったことよりも、ムラサキ殿下を信頼することができないのがいちばん辛かった。
「あんのアスタキサンチン野郎……長い触覚は飾りかよ」
怒りを含んだ口調で吐き捨てたあと、ワサビ殿下は静かな声で言った。
「ギン……ずっとここにいろよ」
温かい言葉が嬉しくて、私はふっと笑う。
「ふふ、それはいいわね。私、お蕎麦は大好きだから」
「違う!」
突然の強い口調に驚いて顔を上げると、ワサビ殿下は真剣な顔で私を見ていた。
「ギン、本気だ、俺、本気で言ってるんだ」
ワサビ殿下の手が、私の手に重ねられる。
じわりと、手の甲を通じて温もりが伝わってくる。
窓の外はいつのまにか夕闇に包まれて、にわかに部屋の空気が濃くなる。
風が出てきたのか、砂の舞うような乾いた音が聞こえてくる。
「俺、ギンが好きなんだ!」
静けさを破ったのは、竹を割ったような、あまりにもまっすぐで純粋なワサビ殿下の叫びだった。
ぐっと、胸が苦しくなる。
知らなかった。
古くから交流のある隣国……王太子のワサビ殿下は私にとっては弟のような存在だった。
「俺は、俺だったら絶対に、ギンにそんな顔させない」
私の両肩を押さえつけると、ワサビ殿下はぐっと顔を近づけてきた。
思わず目を閉じる。
荒い息づかいは私のものか、それともワサビ殿下のものなのか。
肩をつかんだ手にぎゅっと力が入る。
遠くで、何かを呼ぶようなもの悲しい獣の声が聞こえた。
「おい」
少し苛立ちの混ざったような声に目を開くと、にらみつけるほど強い瞳があった。
「嫌なら……もっと、ちゃんと抵抗しろよ」
低い声でつぶやくと、ワサビ殿下は唇を重ねた。
優しい、しかし迷いのない唇からしびれるような辛みが広がって、徐々に体の均衡を崩していく。
いつの間にこんな……まだほんの子どもだと思っていたのに。
唇から解放されたとき、私の体はワサビ殿下にすっかり捕えられていた。
「ギン……ギン、好きだ」
耳のとなりで、激しく打つ心臓の音が聞こえてくる。
抱きしめるワサビ殿下の腕は、鍋の底に凝ったそば粉がほんのわずかに溶け出てその存在を示す湯のように熱く、離れがたかった。
「ダメ、です、だめ……」
「いいか、ナミダってのはただ辛いだけじゃねえ」
ワサビ殿下の吐息が、耳元で熱く心をかき乱していく。
「いろいろ、使えるんだぜ……たとえば」
「……あっ」
何が起こったのかわからなかった。
気づいた時には全身が熱く、それでいて内側からとろかされるような切ない刺激に絡めとられていた。
息をするのもままならない私をワサビ殿下は再び強く抱きしめると、満足そうに笑った。
「どうだ、おろしたては効くだろ」
ワサビ殿下の声は心を直接通り抜けるように辛く……それでいて抗いがたい甘さをはらんでいた。
二八……蕎麦がその香ばしい果実を小麦のもとに合わせたようなワサビ殿下の体は逞しくもどこか柔らかい粘りをはらんで、気の遠くなりそうな年月をただその身の熟成に捧げた本鰹の綾なす香りにも似た深く、甘い淵に私を沈めていく。
この、心の奥に直接響くような深い辛味に涙を流し、どこまでも温かい腕の中ですべてを忘れて眠ってしまえたら……誘惑が抗いがたく全身を包みこむ。
でも、この腕に身をまかせることはできない。
甘く、優しい薄絹に守られて、ただ安寧の中でまどろむ道を私は選ばない。
私は、付け合わせの稲荷寿司になるわけにはいかないのだ。
◇
夜明けを告げる鐘が響きわたる中、朝日に照らされた街を見下ろす。
波の音は、この部屋までは届かない。
「ギン、すまねえ」
ワサビ殿下の声が背中に聞こえる。
「あの、俺……違うんだ、こんな無理矢理するつもりじゃなくて……その、もっと大事にしたかったのに……」
「あやまらなくていい」
ワサビ殿下に背中を向けたまま、できる限り感情を乗せずに声を出す。
謝らないといけないのは私のほうだ。
ワサビ殿下の好意に気付かずにいままでどれだけこの青年を傷つけてきたんだろう。
そしてあろうことか、私はその純粋な気持ちを利用した。
「昨日はありがとう、みんな心配してるだろうし、帰るわ」
「車を出す」
ワサビ殿下の言葉に私は首を振った。
「ううん、歩きたいの」
ワサビ殿下はしばらく黙っていたけど、静かな声で言った。
「送るよ」
◇
慣れ親しんだはずの引き戸が知らない家のようによそよそしく感じる。
思えば生まれてこのかた、ウオガシの外で夜を明かしたことなんてなかった。
手をかけるのをためらっていたら、勢いよく戸が開いた。
「ギン! いま探しに行こうと思ってたんだ」
出てきたのは板前見習の少年だった。
「その、心配かけて本当に……」
「違うんだ、ギン!」
私の言葉を遮って彼は叫んだ。
「何かあったの?」
ただごとではない様子に背筋が伸びる。
「早く来てくれ、板場が大変なんだよ!」




