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第一話 銀シャリの憂鬱

 広間の障子を開け放つと、青空の下、どこまでも広がる海が見えた。

まだ昇ったばかりの太陽は新鮮な光を惜しげもなくふりまき、風が水面を走るたびにきらきらと光の粒が跳ねる。


 今日も、本当にいい天気だ。


 穏やかで美しい波とはうらはらに、私こと伯爵令嬢ギン・シャーリーには心配事があった。


 婚約者である、王太子クルマエビ・ムラサキ・フォン・ツキジウオガシ殿下のことである。

幼きころより共に過ごし、もう恋愛というより自分の一部のような、なくてはならない存在になっていた。


 ため息をつく。 


 でも、そう思っていたのは自分だけだったのかもしれない。


 なぜ、ムラサキ殿下は突然現れた美女、サーモン・ベーリング嬢に心を奪われてしまったのか。


「どうした? ギン、浮かねえ顔だな」


 案ずるような声にもの思いは破られる。


 いつの間に来たのか、隣に立っていたのは隣国の王太子、モリソバ・ワサビ・ド・シナノザカ殿下だった。


「何か心配ごとか?」


 私は苦笑して頭を振る。

いけないな、あまりこんなところを見せては。


「ううん、ただ、海は広いんだなって思ってただけ」


 柔らかく揺れる海に視線を戻す。

透き通るような青は遠く水平線で空と溶けあっている。


 サーモン・ベーリング嬢がこの岸に流れ着いたのは半月ほど前、大時化の夜だった。

この辺りではまず見かけない異国的で美しい容姿は目を引いたが、彼女はその出自について一切を語らなかった。


 正体のわからないものを板場に入れるわけにはいかないと言う意見が多数を占める中、ベーリング嬢の保護を声高に主張したのはムラサキ殿下だった。


 その結果、ベーリング嬢は部屋を与えられてここで過ごすことになったのだが。


 ムラサキ殿下が彼女を保護したのは優しさからなのか、それとも、もっと深い理由があるのだろうか。


 わからない。


『いつから板場はそんなに閉鎖的になったんだ! この岸は外海に開かれた存在であるべきではないのか?』


 全身を紅潮させて必死に声を荒らげる姿。

それは、私の知らないムラサキ殿下だった。


「外の海には、あんなふうにきれいな女性がたくさんいるのかしら」


 ふと、心のうちが口からこぼれ落ちる。


「外の海のことは知らねえけどよ」


 隣でワサビ殿下のぶっきらぼうな声が聞こえる。


「俺は、その……ギンだって、すごく、きれいだと」


 ワサビ殿下の方を向くと、彼は首を振って姿勢を正した。


「おっといけねえ、そろそろ帰らねえとまた国王陛下にどやされるぜ」





 手にとった猪口を隅々まで眺めて、欠けや汚れがないことを確認したら綿布で磨いていく。


 豊漁祈願祭が近づいて、板場は活気に包まれながらもどこかひりついたような、張りつめた空気が漂っていた。


「こんな時期によそ者を入れるなんざ、ムラサキ殿下も困ったもんだぜ。だいたい外海からは革命だの戦争だの、穏やかでない話も聞こえてくるじゃあねえか」


 砥石に柳刃をすべらせながら花板がぼやく。


 胸がぎくりとして、猪口を持つ手が止まる。


「きっと、殿下にもなにかお考えがあってのことなのよ」


 その言葉は、私自身に言い聞かせているようでもあった。

磨き上げた猪口を揃えて桶に入れると、両手で桶を持ち上げた。


 広間にこれを運んだら、次は御神酒をもらってこないと。

廊下を歩いていると、ささやくような声が聞こえて立ち止まる。


「この油の乗り切った光沢……内海の魚には絶対に出すことはできない……」


「……お前さんも酔狂な男だね……アニサキスが怖くないのかい?」


 襖の奥から聞こえる不穏な会話に、胸がざわつく。


 これは……ベーリング嬢の声……?

なんでムラサキ殿下の部屋から。


 桶を抱えた手が震える。


 深い藍に『大漁』と染抜きの入った半被を着ている自分が、決められた役割をこなすだけのからくり人形のような、ひどくみじめで滑稽なものに思えてきた。


 ぐっと奥歯を噛んで前を向く。


 今は、豊漁祈願祭の準備をしないと。

余計なことで悩んでいる暇なんてないんだ。


 なおも聞こえてきそうな潜め声から逃れるように早足で広間へと急いだ。





「失礼いたします」


 襖を細くひらいて、ひと呼吸おいてから両手でゆっくりと開ける。


 窓辺にいたベーリング嬢はさっと何かを懐に隠したように見えた。

何なのかはよく見えなかったけど、まあ、隠したものをあまり探るものではない。


「お食事をお持ちしました」


 盆を床に置くと、座卓の上に腕を並べていく。


「なあ、銀シャリのお嬢ちゃん」


 卓が整えられるのを黙って見ていたベーリング嬢がぽつりと口を開いた。


「お前さん、王太子妃なんだろ?」


 その言葉に体の芯が冷えるような気がした。

いったい、そんなことを聞いてどうするんだろう。


「違います、一応立場としては婚約者ですが……」


 手が震えないよう気をつけながら小鉢を机に置く。


「それならさ、言ってみりゃあ貴族のご令嬢なわけだ。なんだってそんな下働きみたいな真似をしてるんだい?」


 不思議そうなベーリング嬢の言葉に、さっとひざを正して背筋を伸ばす。


「ウオガシは小国ですので、貴族といえども庶民との別なく働いております。国民と近くあれというのは国王陛下の御志でもございますゆえ」


 実際にムラサキ殿下も初漁は必ず乗船するし、ウオガシでは船に乗れない男に王位を継ぐことはできないといわれている。


「それに、幼い頃より板場で育ちましたので、私にとってはこれが日常でございます。下働きと思ったことはありません」


 まっすぐ顔を上げて言い切ると、ベーリング嬢は驚いたようにこちらを見ていたが、ふいと卓上に視線を戻した。


「そうかい」


 小さくつぶやいて長いため息をついたあと、ベーリング嬢は静かに笑った。


「そいつはいい……うん、すごくいいな」


 開け放した窓からは、さざ波に混じって松の枝を風が通り抜ける音が聞こえていた。

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