19.お礼は、湯気の向こうで
身体が軽い。
喉の痛みも、熱も、
すっかり引いていた。
「……よし」
私は、厨房に立つ。
◆
「復帰初日で、
鍋を占拠するな」
魔王が、呆れたように言う。
「だって、お礼だから」
「それは聞いた」
そう言いつつ、
誰も止めない。
◆
鍋の中には、澄んだ出汁。
骨じゃない。
昆布と、乾かした野菜。
時間をかけて、
じっくり引いた旨味。
「……静かだな」
ガルディスが、ぽつりと言う。
「うん」
私は、頷いた。
「おでんはね、
煮立たせない料理なの」
◆
大根。
芋。
豆に似た魔界の作物。
味噌で下味をつけた魔獣肉。
鍋に沈めるたび、
城の空気が、ゆっくり変わっていく。
「匂いが……」
「落ち着く」
誰かが、そう言った。
◆
もう一つ。
私は、小さな壺を取り出す。
「これは?」
「……お酒」
ざわり、とする。
「酒?」
「酔うやつか?」
「えっと、
正確には“醸す”やつ」
◆
米がある。
水がある。
魔法がある。
「時間を、
魔法で少しだけ、手伝ってもらって」
壺の中で、
静かに変化が起きる。
甘く、やわらかな香り。
「……これは」
魔王が、目を細めた。
「危険だな」
「え?」
「文化を壊す匂いだ」
◆
夜。
魔王城の食堂。
おでんが、並ぶ。
澄んだ出汁。
しみしみの大根。
湯気。
「……いただきます」
一口。
誰も、すぐに喋らない。
◆
「……これは」
「胃が、
落ち着く……」
「回復、
早くないか?」
私は、苦笑する。
「だから、
お礼なの」
◆
酒は、少量だけ。
舐める程度。
それでも。
「……心が、ほどける」
「……騒がなくて、
いいな」
魔族たちが、
静かに笑う。
◆
その夜。
魔王城の外が、騒がしくなった。
「アウルディア王国より、使者!」
魔王が、深く息を吐く。
「……もう嗅ぎつけたか」
◆
使者は、興奮気味だった。
「魔王城で、
“心が休まる酒”が生まれたと……!」
「噂、早すぎない?」
私は、首を傾げる。
魔王は、肩をすくめた。
「革命は、
静かに始まるものじゃない」
◆
私は、鍋を見つめる。
ぐつぐつ、ではない。
ただ、温かい。
回復後の、
最初の料理。
それは――
世界を、少しだけ変える味だった。




