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それでも息子を誇りに思う

作者: 桐島按針
掲載日:2026/01/28

この物語のページをめくる前に、少しだけ厨房の裏口を開けてみましょう。

料理とは、記憶の芸術だと言われます。

かつて食べた懐かしい味、修行時代に体に叩き込まれた手順、そして、お客様一人一人の好み。

それらを完璧に再現することが、プロの料理人の条件だと。

けれど、もしその「記憶」を留めておくことができない料理人がいたとしたら?

そして、その「忘却」が、欠点ではなく、誰かの心を救う武器になるとしたら?

この物語の主人公・怜音れおんは、驚くほど色々なことを忘れてしまいます。

さっき聞いたオーダーも、鍋の火を止めるタイミングも、時には大切な約束さえも。

そんな息子を、職人肌の父・寛次かんじはずっと嘆き、叱り、そして密かに守り続けてきました。

しかし、人間は誰しも不完全です。

老いによって確かな技術を少しずつ失っていく父と、生まれつき記憶を留められない息子。

欠けた茶碗と欠けた茶碗が合わさった時、そこには一人では決して作れない、温かく、優しい味わいが生まれます。

これは、効率や完璧さが求められる現代において、「忘れること」がもたらす許しと、「直感」という名の愛の物語です。

デミグラスソースの甘く焦げる香りと共に、東京の下町にある小さな洋食店『ビストロ・アムール』の扉を、どうぞ開けてみてください。

 第1章:オーダーの抜けた昼下がり


「おい怜音! A卓のハンバーグ、デミグラスソースじゃないと言っただろ! おろしポン酢だ!」


 怒号がステンレスの壁に反響し、湯気のこもる厨房を震わせた。

 ランチタイムのピーク、午後12時半。東京の片隅にある洋食店『ビストロ・アムール』の厨房は、戦場と化していた。

「あ……ごめん、親父。そうだ、おろしだった」


 副料理長の関根怜音せきね れおんは、悪びれる様子もなく、しかし焦った手つきで熱々の鉄板を引き戻した。25歳にもなって、まるで新人のようなミスをする。

「ごめんじゃない! お前、さっき伝票見たばかりだろうが!」


 料理長の関根寛次せきね かんじは、フライパンを振りながら叫んだ。眉間の皺は深くなり、こめかみの血管がドクドクと脈打つのが自分でもわかる。

 怜音はすぐに大根おろしをのせ直し、ポン酢をかけると、何事もなかったかのようにホール係のバイトに皿を渡した。その動作自体は流れるようで、美しいとさえ言える。肉の焼き加減も完璧だ。

 だが、注文を間違えれば全てはゴミになる。


「怜音、お前なぁ……」

「大丈夫、まだお客さんには出してないからセーフだって」

「そういう問題じゃない!」

 寛次は大きくため息をついた。

 息子の怜音は、とにかく「忘れる」。

 オーダーを忘れる。火を止めるのを忘れる。発注した野菜の数を忘れる。冷蔵庫の前で「何を取りに来たっけ」と立ち尽くすことなど日常茶飯事だ。


 医者にも診せた。診断名はついたりつかなかったりしたが、結局のところ、怜音の脳みそは「興味のあること以外、ザルのように抜け落ちる」構造になっているらしかった。

「親父、B卓のオムライス、卵3個だっけ?」

「2個だ! 20年間2個だ! なんで昨日も作ったのに忘れるんだ!」

 寛次はこの店を命がけで守ってきた。妻が亡くなってからは特に、この店だけが寛次のアイデンティティであり、怜音を育てるための城だった。


 息子が料理人を志した時は嬉しかった。自分の味を継いでくれると信じていた。

 だが現実は、毎日が尻拭いの連続だ。

「はぁ……もういい。俺がやる。お前は皿を洗ってろ」

 寛次は怜音を押しのけ、コンロの前に立った。

 怜音は素直に「はいよ」と言ってシンクへ向かう。その背中には、悲壮感のかけらもない。それがまた、寛次を苛立たせた。

(俺が死んだら、こいつはどうなるんだ。店なんて一週間で潰れるぞ)

 ランチタイムが終わり、客足が引いた午後三時。

 寛次はパイプ椅子に重い腰を下ろし、湿布を貼った肩を回した。52歳。体力は確実に落ちている。

「親父、コーヒー淹れたよ」

 怜音がマグカップを持ってきた。湯気と共に、ふわりと良い香りが漂う。

「……ああ」

一口飲む。

旨い。

悔しいが、旨いのだ。

 怜音の淹れるコーヒーは、豆の種類も湯の温度も毎回適当なはずなのに、なぜかその日の寛次の疲れ具合にぴたりとハマる味がする。今日は少し酸味を抑えて、コクが深めだ。

「お前、今日のブレンド何だ?」

「え? 何だっけ。そこにあった缶のやつと、奥にあった袋のやつを、なんとなく混ぜた」

「なんとなくで淹れるな」

「でも、美味いでしょ?」

 怜音はニカっと笑った。子供のような笑顔だ。

「味だけはいい。味だけはな」

 寛次は苦々しく言った。

「でも怜音、料理屋ってのは味だけじゃダメなんだ。段取り、計算、記憶。それが出来なきゃ、プロとは言えん」

「分かってるよ」

 怜音は洗い終わった皿を拭きながら、どこか遠くを見るような目をした。

「俺、メモ帳買おうかな。首から下げるやつ」

「先月も買っただろ。それをどこにやった?」

「……あ、忘れた」

 寛次は天井を仰いだ。

 こいつはダメだ。料理人に向いていない。副料理長なんて肩書きを与えているが、実質は見習い以下だ。

 そろそろ潮時かもしれない。店を畳んで、怜音にはもっと単純な、ミスの許される仕事を探させるべきか。あるいは、誰か他のしっかりした人間を雇って、怜音をただの調理補助にするか。

「親父、これ」

 怜音がエプロンのポケットから、くしゃくしゃになった紙切れを取り出した。

「何だ、ゴミか」

「違うよ。昨日の夜、試作したソースの配合」

「ソース?」

「親父が最近、昔の『春野菜のポタージュ』の味が思い出せないって言ってたじゃん」

 寛次はハッとした。確かに数年前、亡き妻と試行錯誤して作った、創業当時のポタージュの味がどうしても再現できないと独り言をこぼした。レシピノートを紛失して以来、幻のメニューになっていたのだ。

「作ってみたんだ。ちょっと味見してみてよ」

 怜音が小鍋を火にかけた。

 数分後、差し出されたスプーンを口に含む。

 瞬間、寛次の脳裏に20年前の春風が吹いた。

 若かった自分、小さかった怜音、そして笑顔の妻。

 セロリの隠し味と、焦がしバターの微かな風味。完全に、あの時の味だった。

「……どう?」

 怜音が心配そうに覗き込む。

 寛次は震える手でスプーンを置いた。

「……お前、これ、どうやって」

「んー、なんとなく。母さんが作ってくれた時の匂いを思い出してたら、手が勝手に動いたっていうか」

 レシピはない。計算もない。

 ただ、記憶の中の「幸せな味」へのアクセス権だけが、この息子には与えられている。

 日常のことは何一つ覚えられない脳が、味の記憶だけは、写真のように鮮明に焼き付けているのだ。

「……合格だ」

 寛次はぶっきらぼうに言った。本当は泣きそうだったが、こらえた。

「マジで? メニューに出していい?」

「ああ。ただし!」

 寛次は指を突きつけた。

「この配合を今すぐ書き留めろ! お前は絶対、明日には忘れてるんだからな!」

「あ、そうだった。ペン、ペン……あれ、俺のペンどこだっけ?」

 怜音が慌ててポケットを探る。

 寛次は深いため息をつきながら、自分の胸ポケットからボールペンを抜き出し、息子に投げ渡した。

「ほらよ」

「サンキュ、親父」

 ペンを受け取る息子の手は、節くれだっていて、まぎれもなく職人の手だった。

 ダメな息子だ。手のかかる、どうしようもない副料理長だ。

 それでも。

 この一皿を作れる才能がある限り、俺はまだ、こいつを諦めきれないのかもしれない。

 寛次は冷めかけたコーヒーをもう一口飲んだ。

 苦味が、少しだけ甘く感じられた。

(第一章 完)



 第2章:思い出せないレシピ


 夜の帳が下りると、『ビストロ・アムール』の空気は少しだけ重厚になる。

 ランチタイムの喧騒が嘘のように、ディナーの時間はゆったりとしたジャズが流れ、琥珀色の照明が使い込まれた木のカウンターを艶やかに照らし出していた。

 だが、厨房の中にいる寛次の背中は、張り詰めていた。

 カウンターの端に座る常連客、田所老人(七十八歳)の注文が、寛次の冷や汗を誘っていたからだ。

「マスター。今日は、妻の命日でね」

 田所は白ワインのグラスを傾けながら、寂しげに笑った。

「あいつが好きだった、舌平目のムニエルをお願いしたいんだ。ほら、十五年くらい前によく作ってくれた、あの特製の……白くて酸っぱいソースのやつだ」

 寛次の手が止まる。

「……白くて、酸っぱいソース、ですか」

「そうそう。普通のタルタルじゃなくて、もっとこう、香りが華やかで。妻が『魔法のソース』だなんて呼んで喜んでいたあれだよ」

 寛次は曖昧に頷き、「かしこまりました」と答えるしかなかった。

 厨房の奥に戻り、冷蔵庫の影に隠れて眉間を押さえる。

(思い出せない)

 冷たい恐怖が背筋を走った。

 田所夫妻は開店当初からの常連だ。確かに昔、奥様のために特別なアレンジをした記憶がある。だが、具体的に何を入れたのか、まるで霧がかかったように出てこない。

 エシャロットとワインビネガーか? いや、それなら「白い」と言わないはずだ。ベシャメルベースか? それにしては「酸っぱい」という表現が引っかかる。

 寛次は震える手で、棚の奥から古びた大学ノートを引っ張り出した。過去のレシピを書き留めた「ネタ帳」だ。

 ページをめくる。インクの染み、油の汚れ。

『1995年 冬メニュー』『2000年 春の新作』……。

 ない。どこにも書いていない。

 恐らく、その場の思いつきで作った即興のソースだったのだ。昔の自分なら、一度作った味は二度と忘れなかった。レシピになど残さずとも、舌と脳が記憶していた。

(俺も、焼きが回ったか……)

 職人としてのプライドが、音を立てて崩れていく音がした。

 適当なホワイトソースを作って誤魔化すか?

 いや、田所さんはこの店の味を知り尽くしている。偽物を出せば、失望されるのは目に見えていた。何より、亡き妻を偲ぶ大切な夜を、俺の老いのせいで台無しにするわけにはいかない。

「親父、何してんの? オーダー溜まってるよ」

 背後から、のん気な声が掛かった。

 怜音だ。今日も今日とて、コックコートのボタンを一つ掛け違えている。

「うるさい。今、調べてるんだ」

「何を?」

「田所さんの、昔のムニエルのソースだ。思い出せん」

 寛次はノートを叩きつけた。

 怜音は「ふーん」と言いながら、冷蔵庫から舌平目を取り出した。

「田所さんの奥さんって、確かハーブが苦手だったよね」

「……ああ、そうだ。よく覚えてるな」

「で、柑橘系が好きだった。レモンとか柚子とか」

 怜音は独り言のように呟きながら、塩コショウを振り始める。

「おい待て、勝手に作るな! レシピが分からないんだぞ」

 寛次が止めようとすると、怜音は不思議そうな顔で振り返った。

「え? 分かるよ」

「は?」

「だって俺、中学生の時、そのソースの残り舐めたもん」

 怜音は当然のことのように言った。

「クリスマスの時期だったかな。厨房に入り込んで、鍋に残ってたのをパンですくって食べた。すげー美味かったから覚えてる」

 寛次は呆気にとられた。

「十五年前の一口を、覚えてるって言うのか?」

「うん。色はクリーム色で、生クリームの中に……たしか、シェリー酒と、刻んだケッパー。あと隠し味に、すりおろしたリンゴが入ってた」

 リンゴ。

 その単語を聞いた瞬間、寛次の脳内で錆びついた扉が開いた。

 そうだ。あの時、田所の奥様は風邪気味で食欲がないと言っていた。だから、こってりとしたバターソースではなく、リンゴの酸味と甘みを利用して、さっぱりと仕上げたのだ。

「……リンゴだ」

 寛次は呻いた。

「そうだ、紅玉こうぎょくを使ったんだ」

「あるよ、紅玉。さっきタルト用に剥いたやつの皮と芯が」

 怜音はゴミ箱行き寸前だったボウルを引き寄せた。

「親父は魚焼いて。ソースは俺がやる」

「おい、お前に任せて大丈夫か。分量は分かるのか」

「分かんない」

 怜音は即答した。「でも、味の『正解』は頭にあるから、そこに近づければいいんでしょ?」

 そこからの怜音は、別人のようだった。

 普段、調味料の場所すら忘れて右往左往する男が、今は迷いなく動いている。

 小鍋にバターを溶かし、リンゴの皮と芯を炒めて香りを移す。シェリー酒を注ぎ、フランベしてアルコールを飛ばす。生クリームを加え、煮詰めながら、味見もせずにケッパーを刻んで放り込む。

 寛次は隣で舌平目を焼きながら、横目でその様子を盗み見ていた。

 計量スプーンなど使わない。

 塩をひとつまみ。胡椒を少々。そして最後に、レモンを数滴。

 怜音の目は、鍋の中ではなく、十五年前の記憶の中の風景を見ているようだった。

「……できた」

 怜音が小鍋の火を止めた。

「味見してみて」

 差し出されたスプーンを、寛次は恐る恐る口に運ぶ。

 濃厚なクリームのコクの中に、リンゴの爽やかな酸味とシェリー酒の芳醇な香りが広がる。ケッパーの塩気が全体を引き締め、舌平目の淡白な味を最大限に引き立てるバランス。

(これだ……)

 間違いなく、あの時の味だった。

 いや、今の怜音の感覚で微調整された分、当時よりも洗練されているかもしれない。

 寛次は自分の舌が覚えている「過去」と、息子が再現した「現在」が完全にリンクするのを感じた。

「……上出来だ」

 それだけ言うのが精一杯だった。

 皿に盛られたムニエルが、カウンターへ運ばれていく。

 寛次と怜音は、厨房の小窓から息を潜めて田所の様子を伺った。

 田所はナイフを入れた。湯気が立つ白い身に、クリーム色のソースをたっぷりと絡める。

 口に運び、ゆっくりと咀嚼する。

 老人の動きが止まった。

 閉じた瞼の端から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

「……ああ、これだ。これだよ、マスター」

 田所は厨房に向かって、震える声で言った。

「あいつと食べた、最後のクリスマスの味だ……ありがとう、ありがとう」

 寛次は深く頭を下げた。

 胸の奥が熱くなり、視界が滲んだ。この涙は、客への感謝か、それとも自分の衰えへの情けなさか。

 隣を見ると、怜音はもう興味を失ったのか、また別の作業に戻っていた。そして、あろうことか鍋の火を消し忘れている。

「怜音! 火! 消せ!」

 寛次は慌ててコンロのツマミを回した。

「あ、わりぃ」

「お前なぁ……さっきの集中力はどこへ行ったんだ」

「使い切った。あー、腹減ったな。まかない何?」

 怜音は先ほどの感動的なシーンなど忘れたように、欠伸をした。

 寛次は、そんな息子の横顔をじっと見た。

 自分が積み上げてきた膨大なレシピや技術は、老いと共に少しずつ零れ落ちていくのかもしれない。

 だが、この息子は違う。

 こいつは、レシピなどという「記録」ではなく、人の心に残る「記憶」そのものを料理に変換している。

 それは、寛次がどれだけ努力しても手に入れられなかった、天性の才能だった。

「今日のまかないは、俺が作る」

 寛次は言った。

「え? 珍しいね」

「その代わり、さっきのソースの作り方、お前がノートに書け。今すぐだ」

「えー、めんどくさい……書き方わかんないし」

「『だいたい』でいい! 書かないと、お前は三歩歩けば忘れるんだからな!」

「りょーかい」

 怜音は渋々、寛次のボールペンを手に取った。

 その手元を覗き込むと、ミミズがのたうち回ったような字で『リンゴの皮、いい感じに焦がす』と書かれている。

 寛次は大きなため息をついたが、その口元は少しだけ緩んでいた。

 この店は、まだ終わらない。

 俺が忘れ、こいつが思い出す。

 そうやって、継ぎ接ぎだらけのレシピで、もう少しだけ続けていけるかもしれない。

 寛次はフライパンを火にかけた。息子のために作るオムライスは、いつもより少しだけバターを多めにした。

(第2章 完)



 第3章:消えた予約表


 火曜日の午後六時五十五分。

『ビストロ・アムール』の店内は、珍しく静寂に包まれていた。

 週の半ば、しかも給料日前。予約表は真っ白だ。寛次はカウンターの中でグラスを磨きながら、今夜は早仕舞いをして怜音に包丁の研ぎ方でも教え直そうか、と考えていた。

「ガラガラだね、今日」

 怜音がのんびりとあくびを噛み殺しながら、客席のフローリングにモップをかけている。

「暇なら暇で、やることがあるだろう。換気扇のフィルター、いつ変えた?」

「えーと、いつだっけ。覚えてないから、多分まだ綺麗だよ」

「屁理屈を言うな。後で見ておけ」

 その時だった。

 カランコロン、とドアベルが軽快に鳴り、自動ドアが開いた。

 入ってきたのは一人や二人ではない。スーツ姿の男たちが、どやどやと雪崩れ込んできたのだ。その数、ざっと十名以上。

 先頭に立った恰幅のいい中年男性が、寛次に向かって愛想よく手を挙げた。

「やあマスター、時間通りに来たよ。『田中建設』の宴会で予約してた田中だけど」

 寛次の手から、磨いていたグラスが滑り落ちそうになった。

「……え?」

「え、じゃないでしょ。七時から十二名、飲み放題付きの五千円コース。頼んでたよね?」

 寛次の心臓が早鐘を打つ。

 予約表を見る。今日の欄は、雪原のように真っ白だ。念のため今週、来週のページもめくる。どこにも「田中建設」の文字はない。

「……怜音」

 寛次は低い声で唸るように息子を呼んだ。

「お前、田中様から電話を受けたか?」

 モップを持った怜音が、天井を見上げて動きを止めた。

 一秒、二秒、三秒。

「……あ」

 怜音が口を開けた。

「そういえば三日前のランチタイム、なんか電話鳴ったかも」

「かも、じゃない! 内容は!」

「忙しかったからさ、とりあえず『はい、ありがとうございます、七時ですね、お待ちしてます』って言って……メモ取ろうとしたけどペンがなくて……あ、玉ねぎ刻んでたから後で書こうと思って……」

「で?」

「……忘れた」

 寛次の目の前が真っ暗になった。

 十二名の団体。しかもコース料理。仕込みなど何一つしていない。冷蔵庫にあるのは、数人分のハンバーグと余り物の野菜、昨日の残りの魚が少しだけ。

「おいおい、まさか聞いてないなんて言わないだろうな?」

 田中社長の声色が鋭くなった。後ろに控える社員たちがざわつき始める。

「今日は大事な決起集会なんだぞ。他の店も当たったが満席で、ここが空いてるって言うから頼んだのに!」

「申し訳ございません!」

 寛次はカウンターから飛び出し、深々と頭を下げた。

「手違いがございまして……こちらの不手際です。誠に、誠に申し訳ございません!」

 冷や汗が床に滴り落ちそうだった。これはただのミスではない。店の信用に関わる致命的な失態だ。

「ふざけるな! 今からどこに行けって言うんだ!」

 怒号が店内に響く。寛次はただ謝り続けるしかなかった。

 その時、怜音がモップを壁に立てかけ、田中社長の前にすっと進み出た。

「おじさんたち、お腹空いてるよね?」

「怜音、黙ってろ!」

 寛次が制止しようとするが、怜音は止まらない。

「ごめんね、俺が予約書き忘れたんだ。親父は悪くないよ」

「なんだ君は! ふざけてるのか!」

「でもさ、今から他の店探すのも大変だし、みんな疲れてる顔してるよ。特にそこのお姉さん、ヒールで足痛そうだし」

 怜音は客たちの顔をじろじろと見回し、そしてニカっと笑った。

「俺が十分で前菜出すからさ。とりあえず座ってビール飲んでてよ。メニューにはないけど、今の気分にぴったりのやつ作るから」

「はぁ? 何を言って……」

「五千円のコースだっけ? じゃあ、四千円にする。その代わり、料理の内容は全部俺に任せて。絶対損はさせないから」

 その自信満々な、あるいは空気を読まない態度に、田中社長は毒気を抜かれたように口ごもった。

「……おいマスター。息子さんか?」

「は、はい……愚息です」

「面白い度胸だ。……いいだろう、座ろうじゃないか。ただし、不味かったら金は払わんぞ」

 客たちが席に着くや否や、厨房は戦場と化した。

「怜音! お前、何出すつもりだ! 肉も魚も足りんぞ!」

 寛次は冷蔵庫を開け閉めしながら叫んだ。

「あるものでやるしかないっしょ」

 怜音は尋常ではないスピードで手を動かし始めた。

「まず前菜。刺身用の魚が半端に残ってるから、全部混ぜて『洋風なめろう』にする。味噌とオリーブオイルと、あと砕いたナッツ入れて食感出して」

「メインはどうする!」

「豚バラブロックが一本あるでしょ。あと、キャベツの外葉とか、形の悪い人参とか、余ってる野菜全部ぶち込んで、『田中建設応援・豪快ポトフ』にする」

「なんだそのふざけた名前は! 時間がかかるだろうが!」

「圧力鍋二つ使う。あと、隠し味にコーラ入れる」

「コーラだと!?」

「肉が早く柔らかくなるし、コクが出るんだよ。大丈夫、味の着地地点は見えてる」

 怜音の目は、普段のぼんやりしたそれとは別物だった。

 複数の食材の味、加熱時間、客の空腹具合、酒の進み具合。それら全ての変数が、彼の頭の中で瞬時に計算され、一つの解へと収束していく。

 十分後。

 テーブルに運ばれた『洋風なめろうのブルスケッタ』に、社員たちが歓声を上げた。

「うまい! なんだこれ、酒が進む!」

「ナッツが効いてるわね」

 さらに二十分後。

 大皿に盛られた『豪快ポトフ』が登場した。

 形は不揃いだが、煮崩れる寸前まで柔らかくなった豚肉と、野菜の甘みが溶け出したスープ。コーラの甘みとスパイスが複雑な深みを与え、到底三十分で作ったとは思えない味になっていた。

「これだよ、これ! 疲れた体に染みる味だなぁ!」

 田中社長はスープを飲み干し、上機嫌で寛次の肩を叩いた。

「いやぁマスター、息子さん天才だよ。マニュアル通りのコースより、ずっといい」

 嵐のような二時間が過ぎ、客たちは千鳥足で帰っていった。

「ごちそうさん! また来るよ!」

 店には再び静寂が戻った。

 だが、先ほどまでの穏やかな静けさとは違う。冷たく、重い沈黙だった。

 怜音はシンクで大量の皿を洗いながら、鼻歌を歌っていた。

「なんとかなったね、親父。四千円にしちゃったけど、原価率考えたらむしろ儲かったんじゃない?」

「……怜音」

 寛次の声は震えていた。

「お前は、何をしたか分かっているのか」

「え? だから、機転を利かせてリカバリーしたじゃん。お客さんも喜んでたし……」

「ふざけるなッ!!」

 寛次は洗い場のステンレス台を拳で叩きつけた。

 ガシャン、と積み上げられた皿が崩れ、数枚が床で粉々に砕け散った。

 怜音が驚いて肩を跳ねさせる。

「リカバリーだと? 結果オーライだと? 違うだろ!」

 寛次は息子の胸ぐらを掴んだ。

「お前のその『忘れ癖』が、もう少しでこの店を潰すところだったんだ! 信用ってのはな、四十年かけて積み上げるもんだ。それが、お前の一つのミスで、一瞬でゼロになるんだぞ!」

「……ごめん。でも、俺だって悪気があって忘れたわけじゃ……」

「悪気がないのが一番タチが悪いんだ! メモを取れと言っても忘れる、確認しろと言っても忘れる。いくら料理がうまくてもな、お前と一緒に仕事をするのは、時限爆弾を抱えてるのと同じなんだよ!」

 寛次の口から、言ってはいけない言葉が溢れ出た。

「お前に、この店は任せられない」

 怜音の表情から、すっと色が消えた。

 いつものヘラヘラした笑みが消え、子供のように傷ついた目が寛次を見つめ返した。

「……そっか。ごめん、親父」

 怜音は静かに寛次の手を解き、床に散らばった皿の破片を拾い始めた。

「俺、片付けて帰るよ。明日の仕込み、メモしておいてくれたらやるから」

「……もういい。俺がやる」

 寛次は背中を向けた。息子の顔を見ることができなかった。

 これ以上見ていると、自分の中にある愛情まで粉々になりそうで怖かった。

 厨房を出て、更衣室へ向かう寛次の足取りは鉛のように重かった。

 胸の奥が締め付けられるように痛い。

 これはストレスのせいだろうか。

 それとも、息子を否定してしまった父親としての痛みだろうか。

 寛次は知らなかった。

 その胸の痛みが、単なる心痛ではなく、自身の体を蝕む病のサインであることに。

 そして、この夜の喧嘩が、親子が対等に言葉を交わす最後の機会になるかもしれないことに、まだ気づいていなかった。

(第3章 完)



 第4章:父の異変


 翌朝の『ビストロ・アムール』の厨房は、冷蔵庫のモーター音がやけに大きく聞こえるほどの静寂に包まれていた。

 親子喧嘩の翌日というのは、いつも空気が重い。だが、今日の空気は特別に澱んでいた。

 寛次は無言でタマネギを刻んでいた。

 包丁のリズムがいつもより速い。怒りをまな板に叩きつけているようでもあり、何かから逃れようと急いでいるようでもあった。

「……おはよう」

 怜音が遅れて入ってきた。目は腫れぼったい。恐らく昨夜はあまり眠れなかったのだろう。

「……」

 寛次は答えなかった。ただ、顎で洗い場をしゃくった。「さっさと仕事にかかれ」の合図だ。

 怜音は小さく「はい」と言って、エプロンを締めた。

 その姿を見て、寛次の胸の奥がチクリと痛んだ。昨夜の「お前に店は任せられない」という言葉が、呪いのように耳に残っている。言い過ぎたことは分かっている。だが、謝るタイミングも、言葉も見つからない。

 午前十時。ランチの仕込みがピークを迎える。

 寛次はデミグラスソースの鍋をかき混ぜながら、同時にフライパンで鶏肉のソテーを焼き、オーブンの焼き加減を確認していた。

 普段なら怜音に任せる作業も、今日は意地になって全部自分でやっていた。

(俺一人でも回せる。あいつがいなくても、俺は完璧にやれる)

 そう自分に言い聞かせた瞬間だった。

 右手に持っていた木べらが、カタン、と床に落ちた。

「あ……?」

 拾おうとして、足がもつれた。

 世界がぐにゃりと歪んだ。

 視界の左半分が、黒い霧に覆われたように暗くなる。

 足元の床が、急激な角度で傾いていく感覚。

「親父!?」

 怜音の声が遠くで聞こえた。

 何か言おうとしたが、舌が回らない。「あ、う」という空気の漏れる音しか出ない。

 寛次の体は、スローモーションのように崩れ落ち、硬い厨房の床に叩きつけられた。

 薄れゆく意識の中で最後に見えたのは、血相を変えて駆け寄ってくる息子の顔と、天井の蛍光灯の白すぎる光だった。

 ***

 目が覚めると、そこは無機質な白い天井の下だった。

 消毒液の匂い。電子音。

「……気がつきましたか」

 白衣の医師が覗き込んでいる。

 体を動かそうとして、寛次は愕然とした。右腕と右足が、まるで他人の肉体のように重く、痺れて動かない。

「脳梗塞です」

 医師は淡々と告げた。

「幸い発見が早く、処置も早かったので命に別状はありません。ですが、しばらく入院とリハビリが必要です。右半身に麻痺が残る可能性があります」

 麻痺。

 料理人にとって、それは死刑宣告に等しかった。

 包丁が握れない。鍋が振れない。

 寛次の目から、光が消えた。

 病室のドアが開き、怜音が入ってきた。

 ひどく憔悴した顔をしている。エプロン姿のままだ。

「親父……よかった、意識戻って」

 怜音の声は震えていた。

 寛次は酸素マスクの中で、掠れた声を出した。

「……れ、おん」

「何? 水?」

「……みせ、は」

「店? 今日は臨時休業にしたよ。当たり前でしょ」

 寛次は、動かない右手をじっと見つめ、それから搾り出すように言った。

「……しめろ」

「え?」

「みせ、たたむぞ。……おれは、もう……できん」

 言葉がうまく繋がらない。ろれつが回らない自分が惨めで、寛次は顔を背けた。

「おまえひとりじゃ、むりだ。……借金がのこるまえに、せいさんする」

 それは、寛次なりの最後の親心だった。

 自分というストッパーがいなくなれば、怜音の「物忘れ」は必ず店を崩壊させる。客に迷惑をかけ、借金を背負い、路頭に迷う未来が見える。それなら、今のうちに綺麗な形で幕を引くべきだ。

 怜音はしばらく黙っていた。

 病室に、心電図のピッ、ピッ、という音だけが響く。

「……嫌だ」

 怜音がぽつりと呟いた。

「嫌だね。閉めないよ」

「……なに?」

 寛次が振り返ると、怜音は真っ直ぐに父を見ていた。その目には、いつもの頼りなげな色はなく、奇妙なほど透き通った光が宿っていた。

「親父は休んでて。俺がやる」

「ふざ、けるな……! おまえに、できる、わけ……」

「できないことだらけだよ!」

 怜音が初めて声を荒げた。

「俺はオーダーも忘れるし、火も消し忘れるし、計算もできない! 親父がいなきゃ何もできないポンコツだよ! そんなの自分が一番分かってる!」

 怜音は拳を握りしめた。

「でも、店を閉めたら、親父の帰ってくる場所がなくなるだろ!」

 寛次は言葉を失った。

「リハビリしてよ。絶対治してよ。それまで、俺がなんとかする。どんなにボロボロになっても、味だけは落とさない。この店の灯りだけは消さない」

 怜音は涙を拭うこともせず、宣言した。

「俺は副料理長だ。料理長が不在なら、現場を守るのは俺の仕事だろ」

「……れおん」

「帰るね。明日の仕込みがあるから」

 怜音はそれ以上何も言わせないように、背を向けて病室を出て行った。

 残された寛次は、天井を見上げた。

 馬鹿な息子だ。無謀な息子だ。

 だが、その無謀さに、少しだけ救われている自分がいた。

 ***

 翌朝。

『ビストロ・アムール』の厨房に、怜音は一人で立っていた。

 広い。

 親父がいない厨房は、こんなにも広くて、寒々しいのか。

「よし……」

 怜音は自分の頬を両手で叩いた。

 やるしかない。

 だが、どうやって?

 怜音はポケットから、新しいノートとペンを取り出した。

 親父の入院セットに入っていたリハビリ用の太いペンだ。

「忘れるなら、書くしかない。全部、書くしかない」

『一、ガスの元栓を開ける』

『二、換気扇を回す』

『三、コメを研ぐ』

 怜音は、まるで子供のように一つ一つの動作をノートに書き出し、それを読み上げ、実行し、線を引いて消していった。

 今まで寛次が呼吸するようにやっていた「当たり前」のことが、怜音にとってはエベレスト登頂のような難易度で立ちはだかる。

(親父、すげぇな……)

 改めて父の偉大さを思い知る。

「さて、と」

 怜音は冷蔵庫を開けた。

 食材の在庫管理表はない。発注書もどこにあるか分からない。

 だが、食材を見た瞬間、怜音の脳内でパズルが組み上がった。

 この牛肉と、あの野菜で何ができるか。この残った魚をどうすれば最高の一皿にできるか。

「いらっしゃいませ!」

 開店と同時に、常連客が入ってきた。

「あれ、マスターは?」

「ちょっと腰やっちゃって。しばらく俺一人です」

 怜音は笑顔で嘘をついた。「脳梗塞」なんて言えば客が気を使う。

「大丈夫かよ、怜音ちゃんで」

「任せてよ。今日のランチは『関根寛次公認・留守番カレー』です」

「なんだそりゃ」

 客たちが笑う。

 怜音はフライパンを握った。

 手順はあやふやだ。段取りは最悪だ。きっと時間はかかるだろう。

 だけど。

(味だけは。味だけは絶対に、親父に負けないものを作る)

 炎が立ち上る。

 孤独な戦いが始まった。

(第4章 完)



 第5章:カオスと創造のキッチン


 寛次が入院して二週間。『ビストロ・アムール』は、開店以来最大の危機と、奇妙な熱狂の中にあった。

「マスター! ランチのAセット、まだ?」

「あ、ごめん! 今、肉焼いてる……あれ、焼いてたっけ?」

「ちょっとお兄ちゃん、水! さっきから頼んでるでしょ!」

「すいません! すぐ行きます! ……あれ、グラスどこだっけ」

 ランチタイムの厨房は、まさにカオス(混沌)だった。

 寛次がいた頃は、指揮者のいるオーケストラのように整然としていた厨房が、今はフリージャズのセッション会場のようになっていた。

 シンクには洗い物が山積みになり、カウンターには「火を消す!」「塩は棚の上!」といった自分宛てのメモが魔除けの札のようにベタベタと貼られている。

 提供時間は遅い。オーダーミスも頻発する。

 寛次の味と完璧なサービスを愛していた古い常連客の何人かは、「味が落ちたわけじゃないが、見ていてハラハラする」と言って足が遠のいた。

 売上は、全盛期の六割まで落ち込んでいた。

 だが、店は潰れていなかった。

 それどころか、奇妙な現象が起きていた。客層が少しずつ変わり始めていたのだ。

 午後一時過ぎ。ピークを過ぎた店内に、疲れ切った顔の女性会社員が入ってきた。目の下にはクマがあり、顔色は青白い。

 彼女はカウンターの隅に座ると、力なくメニューを開いた。

「…ハンバーグランチで」

 声にも張りがない。

 怜音は注文伝票を書こうとして、ふと手を止めた。

 じっと彼女の顔を見る。そして、鼻をひくつかせた。

 彼女からは、微かに湿布の匂いと、強いカフェインの匂いがした。胃が荒れているサインだ。ここでデミグラスソースたっぷりのハンバーグを出せば、午後の仕事で確実に胃もたれする。

「お客さん、ハンバーグやめとかない?」

 怜音は唐突に言った。

 女性は怪訝な顔をした。

「は? ハンバーグ食べに来たんですけど」

「いや、今の体調だとキツイと思うよ。顔色悪いし、胃が泣いてる音がする」

「……何なの、失礼ね」

 女性はムッとしたが、図星だったのか言葉に詰まった。

「任せてよ。メニューにはないけど、今のあなたに一番必要なやつ作るから。値段はハンバーグと一緒でいいし、不味かったらお代はいらない」

 怜音は女性の返事も待たず、勝手に厨房へ戻った。

 冷蔵庫を開ける。

 ハンバーグ用の挽肉を少し取り出し、生姜、大根、そして余っていた長ネギを掴む。

 寛次なら「勝手なことをするな」と怒鳴り飛ばす場面だ。だが、今は誰も止める人間はいない。ここは怜音の城だ。

 フライパンに胡麻油を熱し、生姜をたっぷりと効かせて挽肉を炒める。そこに鶏ガラのスープを注ぎ、ご飯を投入して雑炊風のリゾットにする。仕上げに、溶き卵を回し入れ、刻んだ大根の葉を散らす。隠し味に、少しだけ柚子胡椒。

「はい、お待たせ。『胃袋リセット・ジンジャーリゾット』」

 ドン、と置かれた皿からは、優しくも食欲を刺激する香りが立ち上っていた。

「……ハンバーグじゃない」

「うん。でも、一口食べてみて」

 女性は渋々スプーンを手に取った。

 一口食べる。

 生姜の熱が喉を通り、冷え切っていた胃袋にじんわりと染み渡る。挽肉の旨味はしっかりあるのに、大根の酵素が脂っこさを消し去っている。柚子胡椒のピリッとした辛味が、沈んでいた意識を覚醒させる。

「……あ」

 女性の手が止まらなくなった。

 無言でスプーンを動かし続ける。食べているうちに、額にうっすらと汗が滲み、青白かった頬に赤みが戻ってくるのが分かった。

「……美味しい」

 完食した彼女は、ふぅ、と深く息を吐いた。それは、溜め込んでいたストレスが抜けていく音のようだった。

「なんか、体が軽くなった気がする」

「でしょ? ハンバーグは、元気になったらまた食べに来てよ。ウチの親父のレシピ、最高だからさ」

 怜音は洗い物をしながら、人懐っこく笑った。

「ありがとう。……また来るわ」

 彼女はレジで代金を払い、「ごちそうさま」と声を弾ませて帰っていった。

 その日の夜。

 怜音は閉店後のカウンターで、一冊のノートを広げていた。

 寛次に言われて書き始めた「レシピノート」ではない。もっと別の何かだ。

『◯月×日 グレーのスーツのお姉さん。お疲れ気味。生姜と大根が効いた。次は豆腐ハンバーグとかいいかも』

『昨日の田中さん。痛風が怖いらしい。プリン体少なめの魚料理を考える』

『角のタバコ屋のお婆ちゃん。最近入れ歯の調子が悪い。野菜はクタクタに煮込むこと』

 字は汚い。文法もめちゃくちゃだ。

 だが、そこには客一人一人の「今の状態」と、それに対する「最適解ソリューション」が記されていた。

 怜音の記憶力は、相変わらずザルだった。

 今日何曜日か忘れるし、さっき何秒茹でたかも忘れる。

 しかし、目の前の客が「今、何を欲しているか」という感覚的情報だけは、強烈な色彩を持って脳裏に焼き付くのだ。

「忘れるから、その場で作るしかないんだよな」

 怜音は独り言を呟いた。

 寛次の料理は「再現」の芸術だった。いつ来ても変わらない、完成された味。

 対して怜音の料理は「一回性」の芸術だった。その日、その時、その人のためだけの、二度と同じ味にはならないジャズ・セッション。

 店は相変わらずバタバタしていた。

「マスター、箸がないよ!」

「あ、ごめん! 手で食べて!」

「バカ言うな!」

 客からのツッコミが飛び交い、笑いが起きる。

 以前の張り詰めた高級感はない。代わりに、親戚の家の台所のような、無防備な空気が流れていた。

 それは、寛次が最も忌み嫌った「馴れ合い」かもしれない。

 だが、怜音は直感していた。

(俺にはこれしかできない。でも、これなら、みんな笑って帰ってくれる)

 ふと、怜音は入院中の寛次のことを思った。

 リハビリは順調だろうか。

 この店を見たら、親父は卒倒するかもしれない。

「怒られるだろうなぁ………」

 怜音は苦笑いしながら、ノートに大きく書き込んだ。

『明日の自分へ:冷蔵庫の牛乳、賞味期限ヤバイ。ホワイトソースにして使い切れ』

 カオスと創造のキッチン。

 そこには、寛次の時代とは全く違う、新しい『ビストロ・アムール』の鼓動が生まれ始めていた。

 しかし、怜音はまだ気づいていなかった。この汚いノートが、やがて頑固な父の心を溶かす最強の武器になることを。

(第5章 完)



 第6章:ノートの秘密


 病院の窓から見える空は、憎らしいほど高く澄んでいた。

 午後二時。リハビリの時間だ。

 寛次は作業療法室の机に向かい、小豆を箸でつまんで隣の皿に移す練習をしていた。

「クソッ……!」

 箸先が震え、小豆が転がり落ちる。これで十回連続だ。

 右手の麻痺は、予想以上に深刻だった。指先の感覚が鈍く、自分の手ではないようなもどかしさがある。

「関根さん、焦らなくていいですよ。少し休憩しましょう」

 若い理学療法士が声をかけたが、寛次は額に汗を浮かべて首を振った。

「いや、やる。……やらなきゃならんのだ」

 早く戻らなければ。

 店がどうなっているか、気が気でなかった。

 怜音からの連絡は「なんとかなってる」という短いメールだけ。あいつの「なんとか」がどれほど当てにならないか、寛次は誰よりも知っている。

 きっと今頃、厨房はゴミ屋敷のようになり、客からのクレーム電話が鳴り止まないに違いない。想像するだけで血圧が上がりそうだった。

 怜音からメールきた

「親父、着替え持ってきたよ」

 病室に戻ると、怜音がパイプ椅子に座って居眠りをしていた。

 声をかけると、ビクッと跳ね起きた。

「うわっ! ……なんだ、親父か。リハビリお疲れ」

 怜音の顔を見て、寛次は言葉を飲み込んだ。

 目の下のクマはさらに濃くなり、頬がこけている。指先には無数の切り傷と、火傷の痕。

「……店は、どうだ」

「ん? ああ、大丈夫だって。昨日は田所さんが来てくれてさ、親父のこと心配してたよ」

 怜音は明るく振る舞っていたが、その笑顔が張り付いたものであることは明白だった。

「無理するな。もう畳んでもいいんだぞ」

 寛次が言うと、怜音は着替えの入った紙袋を置いて立ち上がった。

「またその話? しないってば。……あ、ヤバイ。仕込みの時間だ」

 怜音は慌てて腕時計(文字盤がズレている)を見た。

「じゃあね親父。また来る」

 嵐のように去っていく息子の背中を見送り、寛次はため息をついた。

 ふと、怜音が座っていた椅子を見る。

 そこに、一冊の大学ノートが置き忘れられていた。

「あいつ……また忘れ物か」

 呆れながら手を伸ばす。

 表紙にはマジックで大きく『ネタ帳』と書いてある。その下には『※絶対なくさない!!!』と赤線が引いてあるが、その宣言虚しくここに置き去りにされているわけだ。

 寛次は、何気なくそのノートを開いた。

 どうせ、漫画の落書きか、意味不明なメモ書きだろうと思っていた。

 だが、一ページ目を見て、寛次の目が釘付けになった。

 そこにあったのは、お世辞にも綺麗とは言えない、ミミズが這うような乱筆だった。

 しかし、その文字の密度は異常だった。

『10月3日 カウンターの鈴木さん(40代)』

『最近、残業続きで顔が死んでる。コンビニ弁当ばかりらしい。

 → 塩分控えめにする。でも味は濃く感じるように、出汁を三倍にする。

 → 好きなもの:和風ハンバーグ。でも今日は大根おろしを多めに。

 → 結果:完食。スープ飲んだ後、ため息が深かった。次は甘い卵焼きつける?』

『10月5日 いつもの女子大生二人組』

『失恋話で盛り上がってる。

 → デザートの盛り合わせ、サービスでハートのチョコを割れた形にして添えてみた(冗談)。

 → 爆笑して元気になった。

 → チョコはビターよりミルク派。次はイチゴ多めで』

 ページをめくる手が止まらない。

『佐藤おじいちゃん、入れ歯の調子悪い。野菜はクタクタに煮る』

『向かいの美容室の店長、風邪気味。ニンニク増し増し、でも臭わないように牛乳で煮こぼす』

 寛次の知っているレシピノートとは、根本的に違っていた。

 寛次のノートには、「料理」が書かれていた。分量、火加減、手順。いかに完成された味を作るか、その設計図だ。

 だが、怜音のノートには、「人間」が書かれていた。

 その客が今どんな状態で、何を感じ、何を求めているか。料理はそのための「処方箋」として記されている。

(あいつは、こんなに客を見ていたのか……?)

 寛次は、自分の料理人人生を振り返った。

 俺は、客を見ていただろうか。

 俺が見ていたのは、「自分の料理」だけではなかったか。「俺の最高傑作」を客に押し付けていただけではなかったか。

 怜音は、オーダーを忘れる。手順も忘れる。

 だが、その代わりとして、目の前の人間の「感情」や「体調」といった、マニュアル化できない情報を、恐ろしいほどの解像度で拾い上げていたのだ。

 ノートの最後の方に、新しいページがあった。日付は昨日だ。

『親父へ』

『リハビリ辛そう。右手が動かないの、俺が思ってるよりずっと怖いんだと思う。

 → 面会に行く時、コーヒー持っていく。

 → 病院のコーヒーは薄いから、店のエスプレッソを少し混ぜる。

 → 親父は弱音を吐かないから、俺がたくさん喋って、俺にイライラをぶつけさせること』

 寛次の視界が、じわりと滲んだ。

 さっき怜音が持ってきた水筒のコーヒー。

 一口飲んで「なんだこの雑な味は」と思ったが、あれは計算だったのか。

 俺のために、あいつなりに考え抜いた、俺専用のブレンドだったのか。

「……バカ息子が」

 寛次はノートを閉じた。

 喉の奥が熱い。

 悔しいが、認めざるを得ないことがあった。

 技術では、俺が勝っている。

 経験でも、知識でも、俺が上だ。

 だが、「料理人としての優しさ」において、俺は怜音に完敗しているかもしれない。

「失礼します、検温の時間です」

 看護師が入ってきた。

 寛次が涙を拭う暇もなく、彼女は椅子に置かれたノートに気づいた。

「あら、息子さんの忘れ物ですか?」

「……ああ。大切な商売道具らしい」

 寛次は、震える左手でノートを撫でた。

「看護師さん。電話を、貸してくれないか」

「電話ですか? まだリハビリ中ですし……」

「店にかけるんだ。……大事な用事がある」

 受話器を受け取り、店の番号を押す。

 数コールの後、背後の喧騒と共に、慌ただしい声が聞こえた。

『はい! ビストロ・アムールです! 今ちょっと手が離せなくて!』

「……俺だ」

『えっ、親父!? どうしたの、何かあった?』

「お前、ノート忘れていったぞ」

 電話の向こうで、息を呑む音がした。

『うわあああ! マジで!? ヤバイ、あれがないと俺、今日の予約のお客さんのアレルギー情報わかんない!』

「バカ野郎。一番大事なことだろうが」

 寛次は怒鳴ったが、その声には以前のような棘はなかった。

「……中身、見たぞ」

『え……うわ、恥ずかしい! 汚い字だし、変なこと書いてあるし……怒らないでよ、俺なりに必死なんだから』

 怜音の怯えた声が聞こえる。

「……悪くない」

 寛次はボソッと言った。

『え?』

「悪くないと言ったんだ。……字は汚いが、内容は、悪くない」

 長い沈黙があった。

 電話の向こうで、フライパンのジュワッという音が響いている。

「必要なページ、読み上げてやる。メモの用意はいいか」

『え……親父が?』

「俺がやるしかないだろう。お前はすぐ忘れるんだから」

 寛次はノートを開いた。

「午後六時、松本様。……『蕎麦アレルギー。絶対注意。隠し味の醤油も成分表確認すること』……書いてある通りにやれよ」

『……うん! ありがとう、親父!』

 怜音の声が弾んだ。

 電話を切った後、寛次は窓の外を見た。

 夕焼けが街を赤く染めていた。

 右手の指が、ほんの少しだけ、ピクリと動いた気がした。

(第6章 完)



 第7章:審査員の来店


 その男が現れた瞬間、『ビストロ・アムール』の店内の温度が二度は下がった気がした。

 ランチタイムが終わろうとしていた午後一時半。

 黒いロングコートに身を包み、銀縁眼鏡の奥から鋭い視線を走らせる男。

 料理評論家、阿久津龍之介あくつ りゅうのすけ

「味の裁判官」の異名を持ち、彼が星を付ければ行列ができ、酷評すれば一ヶ月で店が潰れると言われる、業界の最重要人物だ。

「い、いらっしゃいませ……」

 ホールのバイト学生が、怯えた声で水を出す。

 阿久津は無言で頷き、メニューを開かずに言った。

「『牛ホホ肉の赤ワイン煮込み』を。……関根寛次のスペシャリテだ」

 厨房の奥で、そのオーダーを聞いた怜音の手が止まった。

『牛ホホ肉の赤ワイン煮込み』。

 それは、父・寛次が創業以来継ぎ足してきたデミグラスソースを使い、丸三日かけて作る、店の看板メニューだ。寛次にとっての聖域であり、絶対に味を変えてはならない一皿。

「おい、怜音……どうする?」

 バイトが顔面蒼白で駆け込んできた。「阿久津だよ! 親父さんが一番恐れてた評論家だぞ!」

 寛次はかつて、阿久津に酷評されたことがあった。

『技術は一流だが、古臭い。博物館の展示物を食べているようだ』

 その言葉が、寛次のプライドをどれだけ傷つけたか、怜音は知っていた。

「……大丈夫。煮込みなら、親父が倒れる前に仕込んだやつが真空パックしてある」

 怜音は冷蔵庫からパウチを取り出した。

 これを湯煎して、手順通りに盛り付ければ、親父の味を100%再現できる。今の自分にできる最善の策だ。

 怜音は鍋に火をかけ、カウンターの阿久津を盗み見た。

 阿久津は腕を組み、不機嫌そうに一点を見つめている。

 完璧なスーツの着こなし。隙のない姿勢。

 だが、怜音の目は違和感を捉えた。

(……あれ?)

 阿久津の手が、頻繁に水グラスに伸びている。

 喉が渇いているのか?

 いや、それにしては飲む量が少ない。口の中を潤しているだけだ。

 そして、時折眉間を寄せ、小さく鼻をすする動作。

 極めつけは、出されたバゲットに手を付けていないこと。店のバゲットは焼き立てで香ばしいはずなのに、その香りに全く反応していない。

 怜音の脳内で、プロファイリングが走る。

『鼻詰まり。微熱による口内の渇き。関節の痛みによる強張り』

 結論:重度の風邪、もしくはインフルエンザの治りかけ。

(味覚、死んでるな……)

 怜音は確信した。

 今の阿久津は、味が分からない状態だ。恐らく、仕事のスケジュールを飛ばせず、無理をして来たのだろう。

 この状態で、親父の濃厚なデミグラスソースを出したらどうなる?

 鼻が詰まっているから香りは届かない。舌は熱で鈍っているから、赤ワインの渋みや脂の重たさだけが強調されて感じるはずだ。

『脂っこくて味がしない』と書かれるのがオチだ。

「……変更だ」

 怜音は湯煎していたパウチを氷水に戻した。

「はぁ!? 何してんだよ怜音! それ出せば間違いないだろ!」

「だめだ。今のあの人には、これは毒だ」

 怜音は別の鍋を取り出し、冷蔵庫から新しい肉と野菜を出した。

「一から作る」

「バカかお前! そんな時間ないぞ!」

「圧力鍋を使う。あと、煮込み時間を短縮して、別の方法で味を入れる」

 怜音の目は、またあの「ゾーン」に入っていた。

 阿久津龍之介という権威は見ていない。ただ、「体調不良を隠して無理に飯を食おうとしている一人の中年男性」として見ていた。

 フライパンに牛ホホ肉を放り込む。

 表面を焼き固めると同時に、大量の粒胡椒と、八角スターアニス、そして生姜のスライスを投入する。

「スパイス?」

「鼻が詰まってても香りが届くようにね。あと、体を温める」

 赤ワインの量は半分。代わりに、バルサミコ酢と、隠し味に『カシスのジャム』を加える。

「酸味と甘みで、鈍った味覚を叩き起こすんだ」

 寛次が見たら卒倒するだろう。

 伝統のデミグラスを使わず、スパイスとジャムで即席のソースを作るなど、フランス料理への冒涜だ。

 だが、怜音は迷わなかった。

 父が守りたいのが「伝統」なら、僕が守りたいのは「目の前の客の満足」だ。

 三十分後。

『牛ホホ肉の赤ワイン煮込み・改』が完成した。

 見た目は通常の煮込みと変わらない。だが、立ち上る香りは、シナモンや八角が複雑に絡み合う、エキゾチックで刺激的なものだった。

「お待たせいたしました」

 怜音は自ら皿を運んだ。

 阿久津が怪訝な顔で皿を見る。

「……香りが、違うな」

「はい。当店の冬の特別アレンジです」

 怜音は嘘をついた。

 阿久津はナイフを入れた。

 ホロリ、と肉が崩れる。

 肉を口に運ぶ。

 静寂。

 バイト学生が息を止めて見守る。

 阿久津の動きが止まった。

 咀嚼する。

 もう一口。

 そして、パンをちぎり、ソースを拭って口に入れた。

 カチャン、とナイフとフォークが置かれた。

 阿久津が、じろりと怜音を見上げた。

「……シェフ。君か、これを作ったのは」

「はい。副料理長の関根怜音です」

「……関根寛次の味ではないな」

 冷徹な声だった。

「伝統的なドゥミグラスの深みがない。邪道なスパイスの使いすぎだ。教科書通りなら0点だ」

 怜音は黙って立っていた。

「だが」

 阿久津は、眼鏡の位置を直しながら、少しだけ口角を上げた。

「今の私の体には、痛いほど染みた」

 バイト学生がへなへなと座り込みそうになった。

「君、気づいていたのか? 私の体調に」

「……なんとなく。辛そうだったんで」

「なんとなく、か」

 阿久津は苦笑した。

「私はプロだ。体調管理も仕事のうちだが、どうしても外せない視察でね。……正直、味など分からないと思っていた。だが、このソースの酸味とスパイスの香りが、私の閉じていた感覚をこじ開けたよ」

 阿久津は完食した皿を指差した。

「寛次の料理は『芸術』だ。だが、君の料理は『対話』だ。……久しぶりに、作り手の顔が見える料理を食った」

 阿久津は立ち上がり、コートを羽織った。

「父君によろしく伝えてくれ。『息子という最高の隠し味を手に入れたな』とな」

 ***

 その日の夕方。

 病院のベッドで、寛次は震える手でスマートフォンを握りしめていた。

 SNSには、早くも阿久津の投稿がアップされていた。

『ビストロ・アムールにて。

 関根寛次の不在を埋めるのは、未熟だが恐るべき観察眼を持つ若きシェフだった。

 私の体調を見抜き、即座にルセット(レシピ)を変更する胆力。

 その一皿は、形こそ不格好だが、どんな名店の料理よりも温かかった。

 星は付けない。星の数では測れない価値が、そこにあったからだ』

「……バカ野郎が」

 寛次は画面に向かって悪態をついたが、涙で文字が滲んで読めなくなった。

「勝手にレシピを変えやがって……。俺の煮込みを……」

 文句を言いながらも、寛次の胸には、かつてないほどの誇らしさが込み上げていた。

 自分にはできなかったこと。

 権威に評価されるためではなく、目の前の人間を救うための料理。

 それを、あの「忘れん坊」の息子がやってのけたのだ。

「……負けたよ、怜音」

 寛次は天井を見上げた。

 リハビリを急ごう。

 早くあの店に戻って、あいつの作った「邪道な煮込み」とやらを、食べてやらなければならない。

 そして、文句を言いながら、ノートにレシピを書かせてやらなければならない。

(第7章 完)


 最終章:それでも息子を誇りに思う


 桜の蕾がほころび始めた三月。

 関根寛次は、二ヶ月ぶりに『ビストロ・アムール』の厨房に立った。

 杖をつき、少し痩せた体で見る景色は、以前とは違って見えた。

 ステンレスの壁には無数のメモが貼られ、調味料の配置は微妙に変わり、シンクの横には謎のぬいぐるみ(常連の子供からのプレゼントらしい)が鎮座している。

 かつての厳格な城は、生活感あふれる「台所」に変わっていた。

「……汚い厨房だ」

 寛次が憎まれ口を叩くと、隣で仕込みをしていた怜音が苦笑した。

「退院早々それ? 掃除はしたんだよ、一応」

「配置がめちゃくちゃだ。塩が右、砂糖が左と言っただろう」

「あー、ごめん。俺、右利きだからこっちの方が取りやすくてさ」

「……」

 以前の寛次なら、即座に直させていただろう。

 だが、寛次は少し黙ってから、杖を置いた。

「……いい。そのままでいい」

「え?」

「お前が使いやすいなら、それでいいと言ったんだ」

 寛次はコックコートの袖を通した。右腕を通すのに少し時間がかかる。怜音が手伝おうと手を伸ばしかけたが、寛次の視線を感じて引っ込めた。

 これは、寛次の意地だった。

「開店だ。看板を出してこい」

「了解、シェフ」

 ランチタイムが始まった。

 復帰初日の寛次にとって、それは試練の時間だった。

 オーダーが入る。体が動こうとする。だが、右足が半拍遅れる。包丁を握る右手の握力が弱く、千切りがいつものリズムで刻めない。

(くそっ……!)

 もどかしさに歯噛みする。

 その時、横からスッと手が伸びてきた。

 寛次が切り終わるのを待たずに、怜音が野菜をボウルにさらい、フライパンへ放り込んだのだ。

「親父、ソースの味見頼む」

 怜音は寛次の遅れを指摘することなく、自然な流れで次の工程を促した。

「……ああ」

 寛次がソースを確認している間に、怜音は別のコンロでオムレツを焼き、さらに洗い物を片付けている。

 速い。

 以前のような、ただ慌ただしいだけの速さではない。

 寛次の動きの「欠落」した部分を、パズルのピースを埋めるように怜音が補っている。

 寛次が司令塔となり、怜音が手足となって動く。

 言葉など要らなかった。親子で並んで厨房に立って十年。その歳月が、不完全な二人を一つの「完全な料理人」にしていた。

「B卓、オムライスお待ち!」

「A卓、食後のコーヒー、ミルク多めで!」

 活気のある店内。

 客たちは、寛次の復帰を喜びつつも、怜音の料理を心待ちにしているようだった。

「怜音ちゃん、今日のは何?」

「今日は親父が帰ってきたからね、基本に忠実な『最強のハンバーグ』だよ」

「おっ、久しぶりの王道だね!」

 寛次はカウンターの隅で、客と談笑する怜音を見ていた。

 以前は「客と馴れ合うな」と叱っていた光景だ。

 だが今は、その笑顔が店の「味」の一部になっていることを認めざるを得ない。

 客は料理だけを食べに来るのではない。

 ここで過ごす時間、そして「自分を覚えていてくれる」という安心感を求めて来るのだ。

 記憶力のない怜音が、必死にノートを取り、客の顔を覚えようともがいた結果、この温かい空間が生まれた。

(俺には、作れなかった味だ)

 ランチタイムが終わり、静寂が戻った厨房。

 寛次はパイプ椅子に深く座り込み、息を吐いた。心地よい疲労感だった。

「親父、コーヒー」

 怜音がマグカップを置いた。

「……ああ」

 二人は並んでコーヒーを飲んだ。

「どうだった? 久しぶりの現場は」

 怜音が不安そうに聞いてきた。

「……悪くない」

 寛次は短く答えた。

「俺さ、親父がいない間、めちゃくちゃ失敗したよ」

 怜音は自嘲気味に笑った。

「お皿は割るし、発注はミスるし、予約の日付間違えて怒られるし。……やっぱり俺、向いてないのかなって、何回も思った」

 怜音は、カウンターに置かれたボロボロのノートを撫でた。

「でも、書けばなんとかなる。忘れちゃうなら、その都度、新しい気持ちで向き合えばいい。そう教えてくれたのは、お客さんたちだったよ」

 寛次は、横目で息子の横顔を見た。

 二十五歳。まだ若造だ。

 相変わらずボタンは掛け違えているし、エプロンの紐は解けかかっている。

 明日になれば、今日の感動など忘れて、また同じミスをするかもしれない。

 だが。

 この店を守ったのは、紛れもなくこの男だ。

「怜音」

 寛次は静かに口を開いた。

「……俺は、もう昔みたいには動けん」

「うん」

「これからは、お前がメインでやれ。俺は、仕込みとソース作り、あとはお前のサポートに回る」

 怜音が驚いて顔を上げた。

「え? でも、親父は料理長でしょ? 俺は副料理長だし……」

「肩書きなんてどうでもいい」

 寛次は首を振った。

「今のこの店に必要なのは、俺の完璧な技術じゃない。お前の、その……泥臭い『対話』だ」

 寛次は、照れ隠しのようにコーヒーをすすった。

「お前がシェフだ、怜音」

 怜音の目が大きく見開かれ、やがてじわりと涙が滲んだ。

「……いいの? 俺、すぐ忘れるよ? 明日には調子に乗って失敗するよ?」

「その時は俺が怒鳴り飛ばしてやる。それが俺の仕事だ」

「そっか……」

 怜音は泣き笑いのような顔をして、鼻をすすった。

「じゃあ、よろしく頼みます。……スーシェフ(副料理長)」

「誰がスーシェフだ、馬鹿野郎」

 寛次は怜音の頭を軽く叩いた。

 その痛みすらも、愛おしいような時間だった。

 夕暮れの光が差し込む厨房で、親子は明日の仕込みの相談を始めた。

「明日のランチ、どうする?」

「田所さんが来るから、魚がいいな。あと、新しいバイトの子が入るからマニュアル作らなきゃ」

「お前がマニュアルを作るのか? 笑わせるな」

「だから親父が書いてよ。俺が口で言うから」

 会話が弾む。

 寛次は、怜音の背中を見つめた。

 不器用で、欠点だらけで、危なっかしい背中。

 これからも、こいつは数え切れないほど失敗をするだろう。

 大切なことを忘れ、周りを振り回し、その度に落ち込むに違いない。

 俺が死んだ後、一人でやっていけるのかという不安は、正直まだ消えない。

 それでも。

 人の痛みに寄り添い、その瞬間だけの最高の味を作り出せる才能。

 自分の弱さを認め、泥臭くあがく強さ。

 それは、どれだけ技術を磨いても手に入らない、稀有な宝物だ。

 寛次は心の中で呟いた。

(忘れてもいい。何度でも思い出せばいい。お前には、それができる)

「ねえ親父、聞いてる?」

 寛次が振り返った。

「あ? なんだ」

「だから、今日の賄い! 親父のオムライスが食べたいって言ってんの」

「……お前、さっき自分で作れるようになったって言ってただろうが」

「味忘れちゃった」

 怜音は舌を出して笑った。

 寛次は呆れてため息をつき、それから小さく笑った。

 まったく、しょうがない息子だ。

 それでも、俺は息子を誇りに思う。


 寛次はゆっくりと立ち上がり、フライパンを手に取った。

「分かったよ。とびきり美味いのを作ってやるから、よく見ておけ」

「うん! メモ取るわ!」

「ペンは持ったか?」

「あ……忘れた」

 厨房に、二人の笑い声が響いた。

『ビストロ・アムール』の新しい春の夜が、温かい湯気と共に始まろうとしていた。

(完)

最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。

この物語『それでも息子を誇りに思う』を書くにあたり、最初に浮かんだのは「料理とは、世界で最も儚い芸術である」という考えでした。

絵画や音楽と違い、料理は食べてしまえば形がなくなります。

だからこそ、多くの料理人はレシピという「記録」を残し、伝統という「歴史」を守ることで、その儚さに抗おうとします。父である寛次は、まさにその象徴のような男でした。

一方で、息子の怜音は「留めておくこと」ができません。

彼は過去を積み上げるのではなく、常に「今、この瞬間」だけに生きています。

執筆を始めた当初、怜音の「物忘れ」という特性は、単なるトラブルメーカーとしての要素でした。しかし書き進めるうちに、それは料理人として、あるいは人間としての最大の武器に変わっていきました。

忘れてしまうからこそ、目の前のお客様に対して毎回新鮮な気持ちで向き合える。

過去の成功体験に縛られず、その日の気温、その人の顔色を見て、ゼロから味を作れる。

それは「積み重ね」を信条としてきた父には決して辿り着けない境地でした。

私たちは生きていると、つい「できないこと」や「足りないもの」に目を向けてしまいがちです。

寛次もまた、自分の老いや息子の欠点ばかりを見て苦しんでいました。

けれど、欠けた器と欠けた器を合わせることで、どこにも隙間のない、丸くて温かい器ができることもあります。

この物語が、ご自身の不完全さを愛おしく思えるような、あるいは、身近にいる凸凹な誰かとの絆を再確認できるような、そんな一杯のスープのような作品になれていれば幸いです。

読み終えた今、皆様のお腹が少しでも空いていますように。

そして、今日のご飯が、いつもより美味しく感じられますように。

著者

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