とろける時間、ここから始まる
古びた扉を閉め、その冷たい木肌に背を預ける。たったいま、ユリアスの顔を見たはずなのに……もう思い出せない。とても奇妙。でもどうして……一体どうしてなの? 分からない……。縋るように目を閉じても、まぶたの裏に広がるのは真っ暗な世界だけ。もし魔法なら、誰がこんな酷い魔法を……。
フフフ♪ リーシャ。貴女はもう貴族ではなくなるのよ。義母のベリアノが頭に浮かぶ。
まさかね。あの人は酷い人だけど、こんな執念深いことするような性格ではない。それにしても何か引っ掛かる。悪役にしては……いまいちピンと来ない義母。知ってるはずなのに、想定外の事態ばかり起きてしまう。
切った野菜が鍋の中で煮込まれ、同時に心も静かに煮込まれていた……。食材と調味料の奏でる香りが、私を優しい湯気で包み込んでいたはずだった……。ついさっきまで温かかったのに。心の鍋はすでに白く凝固し、愛おしかった湯気は湿った灰のようになってしまった。料理で癒された心が荒んでしまった。
あぁ……。私の心の平穏…、癒しの劇……。飢えたゾンビのような足取りで、オーブンに縋るように向かう。
椅子を逆向きにして、椅子の背に腕を組んでオーブンをゆったりと眺めているアルコン。
アルコンの顔がオーブンから漏れる火の光で赤く煌めき揺らいでいる。絵になってる。そんなアルコンが腕枕をするようにして私の方をじっと見てくる。
ねえリーシャ、料理って焦がした方が美味しいの?
そんなことあるわけ……え!? 冷や汗が湧き出て、急いでオーブンに駆け寄る。アルコンってブルー派なの。って!
も〜! アルコン!
ンフフ♪ さっきのお返し♪
フンッ! そっぽを向く。頬は膨らませない。
なんだかリーシャが元気なそうだったから。少しは元気出た?
…………うん。
なら良かった。ビックリさせてごめんね。リーシャの代わりに炉をずっと見てたから、それで許して。
私は静かに椅子を持って来て、アルコンの隣に座り、オーブンの温かい火を眺める。一緒にローストされてゆくオーブンの料理を見ていく。チーズは更に溶け出し、食材が静かに沸騰し、美味しそうな泡を立てていく。私の繊細で単純な心が蒸されて温まっていく。
そんなに怒ってないよ。ただ、本当にビックリしただけ。
リーシャにとって料理は、日常を特別な一瞬に変える魔法だもんね。
うん♪ ンフフ♪
ハハハ♪ もう邪魔はしないよ。
アルコンの優しさが、まるで冬の朝に飲む温かいココアやコーンポタージュのように私の心に溶け込んでいく。
うーん、うーん。アルコンの心遣い、嬉しかった。
オーブンの火の煌めきとアルコンの眩しいほどの笑顔で、私の心は完全に浄化された。




