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「カインズ様! お父様がお帰りになられましたよ!」


 勢いよく扉が開き、栗色の髪をした少女が飛び込んできた。


 俺は読んでいた本から顔を上げ、息を切らしている彼女を見やった。


「マルタ、いつも言っているよね。ノックをしてから入って」


「あっ! 申し訳ございません! つい嬉しくて……」


 マルタは慌てて頭を下げる。そのはずみでエプロンの紐がほどけ、ますます慌てふためく姿に、俺は思わず苦笑した。


 マルタは俺が生まれた時からずっと身の回りの世話をしてくれているメイドだ。歳は俺より五つほど上だろうか。少しそそっかしいところはあるが、お茶目で、俺とも気さくに話してくれる。この城の堅苦しい空気の中で、彼女の存在は貴重な息抜きだった。


「それで、父上がお戻りになられたの?」


「はい! 今しがた正門を通られたところです。執務室でお待ちになるとのことでした」


「わかった。すぐに向かう」


 俺は本を閉じ、立ち上がった。


 すでに八歳。この世界の言語を完全に使いこなせるようになったのは、ここ数年のことだ。


 よく「赤ちゃんは言語の習得が早い」などと言われるが、とんでもない話である。確かに発音や聴覚に関しては幼い脳の柔軟性が有利に働くのかもしれない。だが、前世の記憶を持ったまま転生した俺にとっては、それは地獄のような日々だった。


 教科書はない。辞書もない。文法書もない。


 周囲の会話を聞いて、文脈から意味を推測し、パターンを見つけ出し、少しずつ体系化していく。異国の言語を一から独学で習得するという、気の遠くなるような作業だった。


 最初の一年は本当に辛かった。意思疎通もできず、体も思うように動かない。意識ははっきりしているのに、何もできないもどかしさ。俺は赤ん坊の体で泣き叫びながら、それでも必死に言葉を覚え続けた。


 誰かこの努力を褒めてくれ。異国の言語を教科書なしで習得した俺を、少しくらい讃えてくれても良いのではないか。


 そんなことを思いながら、俺は部屋の窓辺に立った。


 眼下には、丁寧に手入れされた庭園が広がっている。幾何学的に配置された植え込み、噴水、石畳の小道。確かに美しい。


 だが――


 前世で旅行した時に訪れたヴェルサイユ宮殿と比べると、ずいぶん質素でこじんまりとしている。日本の感覚で言えば豪邸には違いないが、王宮として見れば控えめなものだ。


 つまり、フィアット王国はそれほど豊かではない、ということだ。


 転生してから八年。俺はこの世界について、できる限り多くのことを学んできた。


 ここは魔物の跋扈する異世界だ。魔法も実在する。俺自身にも多少の魔力があるらしいが、まだ本格的に学んではいない。


 気候は温暖で住みやすい。フィアット王国は「西方諸国連合」と呼ばれる四つの国の一つに属している。メルカート共和国という商業都市国家、グリーンフィールド王国という農業国、アルカナ自由国という冒険者国家、そして俺たちのフィアット王国。


 そして東には――強大なパレート帝国が控えている。


 しかし、驚くべきことに、この世界の文明レベルは驚くほど低い。


 特に経済面での遅れは致命的だった。


 まず、統一された通貨がない。


 パレート帝国やメルカート共和国など、他国が発行した貨幣がこの国でも流通しているが、種類も価値もバラバラで使いにくいことこの上ない。


 特に日常で使う銅貨は問題だ。金貨や銀貨は金属そのものに価値があるから、どの国が発行したものでも一定の信頼性がある。だが銅貨は違う。金属としての価値が低いため、「発行国がその価値を保証している」という信用だけで成り立っている。そして他国の信用など、この国の民には意味がない。


 結果として銅貨はあまり普及せず、庶民の日常的な取引は物々交換が主流になっている。パン屋は小麦を受け取り、鍛冶屋は食料と引き換えに鉄器を渡す。税の徴収も、現金ではなく小麦などの現物が大半だと聞いている。


 前世の日本では当たり前だった「お金で物を買う」という行為が、この世界ではまだ十分に確立されていないのだ。


 これは逆に言えば、巨大な可能性が眠っているということでもある。


 果たしてどうすればこの国を豊かにできるのか――俺はこの八年間、ずっと考え続けてきた。


 目標は明確だ。


 日本やアメリカのような、金融市場と銀行システムを備えた高度な経済を、この異世界に作り上げること。


 通貨発行。中央銀行の設立。証券取引所の創設。信用創造による経済の活性化。


 しかし、それに至る道のりは果てしなく長い。ゼロから、いや、マイナスからのスタートだ。


 神の見えざる手。


 アダム・スミスの言葉が頭をよぎる。市場メカニズムが自律的に資源を効率的に配分するというあの有名な理論。だが、そもそも市場がまともに機能していないこの世界では、神の見えざる手も動きようがない。


 ならば――俺がその手を動かす歯車を作ろう。


 まずは市場を作り、通貨を流通させ、経済という大きな仕組みを回し始める。そうすれば、いずれ神の見えざる手も働き始めるはずだ。


「カインズ様? どうされましたか?」


 マルタの声で我に返った。彼女は心配そうに俺を見つめている。


「いや、なんでもない。考え事をしていただけ」


「また難しい本のことですか? カインズ様はいつもお部屋で本ばかり読んでいらっしゃいますものね。もっと外で遊ばれた方が……」


「今の俺には、学ぶべきことが山ほどあるんだ」


 俺は苦笑しながら答えた。

---



 執務室の扉は、重厚な樫の木で作られていた。


 俺は二度ノックをしてから、扉を開けた。


「父上、お帰りなさいませ」


 執務室の奥、大きな机の前に父――リヒャルト・フォン・フィアットが座っていた。


 父は五十代前半の、がっしりとした体格の男だ。金髪に碧眼という、いかにもこの国の王族らしい容姿。だが顔には深い疲労の色が滲んでいる。


「ああ、カインズか。入れ」


 父は俺を見ると、わずかに表情を和らげた。


「長旅だった。少し話をしようか」


 俺は執務室に足を踏み入れた。部屋の中は質素だった。壁には地図がいくつか掛けられ、書類が積まれた机がある程度だ。王の執務室にしては、あまりにも飾り気がない。


 父の前に置かれた椅子に座る。


「会議はいかがでしたか?」


 俺は単刀直入に尋ねた。八歳の子供が聞くような質問ではないかもしれないが、父は俺の「ませた」ところを気に入っているようだ。


「……うまくいかなかった」


 父は深く溜息をついた。


「四か国での軍事協力について話し合ったのだが、まとまらなかった。メルカートは『商売の邪魔になる』と言い、グリーンフィールドは『平和な今、なぜそんな準備が必要なのか』と首を傾げる。アルカナに至っては『金を出せば傭兵を貸してやる』の一点張りだ」


 やはりか、と俺は内心で頷いた。


 パレート帝国を念頭に置いた軍事同盟の提案。父が何年も前から主張していることだ。しかし他の三国は、帝国の脅威を実感していない。


 無理もない。パレート帝国の現皇帝ヴィルフリード一世は、即位してから三十年以上、一度も戦争を起こしていない。「平和皇帝」と呼ばれるほどだ。


 だが――あの国には第一皇太子ヴィルヘルムがいる。


 好戦的で、大陸統一を公言してはばからない男。軍部の若手将校から絶大な支持を受けている。


 そして皇帝陛下は、すでに六十二歳。いつ亡くなってもおかしくない年齢だ。


「カインズ」


 父が俺を見た。その目には、どこか試すような色があった。


「お前に聞きたいことがある」


「何でしょうか?」


「十年後――この国はどうなっていると思う?」


 俺は少し考えるふりをした。


 本当は、答えはとっくに持っている。


「滅んでいる可能性が高いと思います」


 父の目が大きく見開かれた。


「パレート帝国のヴィルヘルム皇太子は、帝位を継げば必ず西方に侵攻してくるでしょう。現皇帝陛下がご健在なうちは平和が保たれますが、十年後となれば話は別です」


 俺は淡々と続けた。


「西方諸国連合の軍事力を合わせても、帝国には及びません。そして今日の会議の結果が示すように、四か国がまとまって戦う見込みは薄い。このままでは――各個撃破されるのがせいぜいです」


父はしばらく黙って俺を見つめていた。


「……八歳のお前が、なぜそこまでのことを」


「父上は、常々『パレート帝国を警戒せよ』とおっしゃっていました。私はただ、父上のお言葉を信じて、自分なりに考えてみただけです」


 これは半分本当で半分嘘だ。


 俺が帝国を警戒しているのは、父の言葉があったからではない。前世での歴史の知識――特に、ナポレオン戦争や第一次世界大戦の勃発過程を知っているからだ。


 大国が統一への野心を持ち、周辺の小国がバラバラのまま対立している。


 これほど戦争が起きやすい状況はない。


「……平和ボケ、か」


 父がぼそりと呟いた。


「そうだな。お前の言う通りだ。パレート帝国が長年平和を維持してきたことで、皆が安心しきっている。だがそれは、いつ崩れてもおかしくない砂上の楼閣だ」


 父は机に肘をつき、額を押さえた。


「カインズ……どうすればいいと思う?」


 その声には、父親としてではなく、一国の王としての苦悩が滲んでいた。


 ここだ。


 俺はこの瞬間を待っていた。


「父上」


 俺は背筋を伸ばした。


「帝国に対抗するためには、まずフィアット王国の経済を強くしなければなりません」


「経済?」


 父が怪訝そうな顔をした。


「軍事力ではなく、経済か?」


「はい。経済力こそが、すべての国力の源泉です」


 俺は立ち上がり、壁に掛けられた地図を指差した。


「メルカート共和国を見てください。あの国は軍事力こそ弱いですが、その富によって傭兵を雇い、外交で他国を動かし、実質的には西方で最も影響力のある国になっています」


「それはそうだが……」


「経済力があれば、兵士を雇えます。武器を買えます。城壁を築けます。同盟国に金を貸して、借りを作らせることもできます。軍事力は金で買えるのです」


 父は黙って俺の言葉を聞いていた。


「そして、経済を強くするために、まず必要なことがあります」


「何だ?」


「自国で通貨を発行し、確立させることです」


 父の眉が寄った。


「通貨を発行する? しかしカインズ、通貨を発行することと、国が豊かになることに何の関係がある? あまりにも遠回りすぎて、私にはよく分からん」


 予想通りの反応だ。


 現代の経済学を知らない人間にとって、通貨と経済力の関係は直感的に理解しにくい。


「父上、少し説明させてください」


 俺は椅子に座り直した。


「今、フィアット王国での商取引はどのように行われていますか?」


「ほとんどが物々交換だ。一部ではメルカート共和国や帝国の銅貨や銀貨が使われているが」


「その通りです。物々交換は非常に非効率な経済活動です」


 俺は指を折りながら説明した。


「まず、取引を成立させるためには『欲望の二重の一致』が必要です。私が小麦を持っていて布が欲しい時、相手が布を持っていて小麦を欲しがっていなければ、取引は成立しません」


「それは……確かにそうだな」


「次に、価値の保存ができません。小麦は腐ります。布は虫に食われます。せっかく働いて得た富を、将来のために取っておくことが難しいのです」


「なるほど」


「そして、価値の尺度が曖昧です。小麦一俵は布何メートル分なのか。鶏一羽は野菜何キロ分なのか。すべてが交渉次第で、取引のたびに膨大な時間と労力がかかります」


 父は頷いた。


「言われてみれば、その通りだ。商人たちも値段の交渉で何時間も費やしているな」


「ここで通貨が登場します」


 俺は身を乗り出した。


「統一された通貨があれば、すべての商品の価値を数字で表せます。小麦は十フィア、布は二十フィア、鶏は五フィア。これなら誰でも簡単に比較できます」


「フィア?」


「この国、フィアット王国の名前の頭をとって通貨の名前にしましょう。フィアが信頼される通貨になれば、商人たちはメルカートや帝国の貨幣ではなく、フィアを使うようになります」


 父は顎に手を当てて考え込んだ。


「しかし、通貨を発行するだけで商業が活発になるものか?」


「なります」


 俺は断言した。


「取引コストが劇的に下がるからです。物々交換で一日かかっていた商談が、通貨を使えば一時間で終わります。その分、商人たちはもっと多くの取引ができるようになります」


「……ふむ」


「さらに、通貨は価値を保存できます。商人たちは儲けた金を貯め込むのではなく、新しい商売に投資するようになります。そうすると、雇用が生まれます。雇われた人々は賃金を得て、それで商品を買います。商品が売れれば、さらに商人が儲かります」


 俺は父の目を真っ直ぐ見つめた。


「この好循環が生まれれば、国は飛躍的に豊かになります。富が富を呼び、人材が人材を呼ぶ。そして経済力は軍事力に直結する。帝国に対抗できるだけの力を、つけることができるのです」


 沈黙が落ちた。


 父は長い間、何かを考えているようだった。


「……カインズ」


 ようやく父が口を開いた。


「お前の言うことは、正直に言って、私には半分も理解できん」


「……申し訳ありません」


「だが」


 父は俺を見つめた。その目には、驚きと――どこか誇らしげな色があった。


「お前が私よりもずっと賢いことは、よく分かった」


「父上……」


「八歳でここまでのことを考えられる人間は、そうはいない。私は三十年以上生きてきたが、経済と軍事の関係をこれほど明確に説明できる者には会ったことがない」


 父は立ち上がり、窓辺に歩いていった。


「あまりにも常識外れの考え方だ。正直に言えば、突拍子もないと思う部分もある」


「……」


「だが、今のままでは駄目だということは、私も分かっている。会議でまとまらなかった今、残された道は限られている」


 父は振り返った。


「カインズ。お前のことを信じよう」


 俺は思わず息を呑んだ。


「本当ですか?」


「ああ。私に裁量をくれ、と言いたいのだろう?」


「……はい」


「しかし、お前はまだ八歳だ」


 父は現実的な問題を指摘した。


「八歳の言うことなど、誰も真剣には聞かん。大臣たちも、商人たちも、民も」


「それは承知しています」


「だから、こうしよう」


 父は机に戻り、羽ペンを取った。


「私から指示を出す。『王太子カインズの意見には、私と同等の重みがある。真剣に耳を傾け、最大限に協力せよ』と」


 俺は深く頭を下げた。


「ありがとうございます、父上」


「礼を言うのはまだ早い」


 父はペンを置き、俺の目を見た。


「カインズ。お前のアイデアが正しいのか、私には分からん。だが、もし失敗すれば――この国は今よりもさらに苦しい立場に追い込まれるだろう」


「分かっています」


「それでもやるか?」


「やります」


 俺は迷いなく答えた。


「私にはこの国を豊かにする方法が分かります。失敗はしません」


 それは前世で叶わなかった夢の続きだ。


 転生前、俺は正しい経済政策を提案しながら、権力がないために何もできなかった。


 だが今は違う。俺には王子という立場がある。父という理解者がいる。


 この世界では、俺の知識を存分に活かせる。


「よし」


 父は頷いた。


「今日からお前を財務顧問に任命する。正式な官職ではないが、私の代理として経済政策に関する提言を行う権限を与える」


「光栄です」


「ただし、カインズ」


 父は真剣な表情で言った。


「急ぎすぎるなよ。お前の考えが正しくても、人々がついてこなければ意味がない。まずは小さな成功を積み重ねろ。信頼を勝ち取れ。そうすれば、いずれ大きなことができる」


「肝に銘じます」


 俺は立ち上がり、改めて頭を下げた。


「父上のご期待に応えられるよう、全力を尽くします」


「ああ、期待している」


 父は穏やかに微笑んだ。


「……それにしても、お前のような息子を持てたことは、私の人生で最も幸運なことかもしれんな」


「過分なお言葉です」


 俺は執務室を出た。


 廊下を歩きながら、自然と口元が緩んでいくのを感じた。


 ついに一歩を踏み出した。


 通貨発行。銀行設立。株式市場の創設。


 やるべきことは山ほどある。だが、まずは最初の一歩だ。


 フィアット王国を豊かにする。そして――いずれは世界を。


 俺は自分の部屋に向かいながら、頭の中で計画を練り始めた。


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