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プロローグ 無力な経済学者

 内閣府の会議室は、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。窓の外には霞が関の高層ビルが並び、曇天の空が重苦しく垂れ込めている。


 俺――月城慎一は、分厚い資料を抱えて政策統括官である中野浩平の前に立っていた。


「こんな案が通ると本気で思っているのか?」


 中野の声は、抑揚がなく冷たい。三つ揃えのスーツに身を包んだ彼は、俺の提出した資料をまるでゴミでも見るかのような目で一瞥すると、机の上に放り投げた。


 突如発生したAIバブル崩壊による金融危機から、すでに一ヶ月が経過していた。アメリカ発の混乱は瞬く間に世界中に波及し、日本も例外ではなかった。株価は暴落し、企業の倒産が相次ぎ、失業率は日に日に上昇している。


 俺はこの一ヶ月、ほとんど寝る間もなく対応に追われてきた。そして導き出した答えが、この「100兆円規模の経済対策」だった。


「日本を立て直すにはこれしか方法がありません」


 俺は冷静に、しかし力強く言った。


「大規模な財政出動によって需要を喚起し、雇用を守る。インフラ投資で将来の成長基盤を整える。今こそ政府が動くべき時です」


「君の主張は過激すぎる」


 中野は眼鏡のブリッジを指で押し上げた。彼の癖だ。相手を見下す時、必ずこの仕草をする。


「国の借金がどれだけあると思っている? これ以上財政を悪化させれば、日本は破綻する。財政規律を守ることこそが、長期的な国益に繋がるんだ」


「それは誤りです」


 俺は資料のグラフを指差した。


「日本は自国通貨建ての国債を発行している。中央銀行が存在する限り、財政破綻などあり得ません。問題はインフレ率であって、今の日本はむしろデフレに苦しんでいる。財政出動の余地は十分にあります」


「理屈はそうかもしれんがね」


 中野は鼻で笑った。


「政治はそんな単純じゃない。財務省が首を縦に振らない案など、通るわけがないだろう。君は学者上がりだから現場を知らんのだ」


 確かに俺は、大学の准教授から「一本釣り」で任期付き官僚として政策現場に入った身だ。二年から三年の任期で、現場の実態を知り、政策に反映させる――そういう建前で採用された。


 だが現実は違った。


 どれだけ正しい理論を持ち込んでも、どれだけデータで裏付けても、霞が関に染み付いた常識という巨大な壁の前では無力だった。「国の借金」「財政破綻」という呪文のような言葉が、すべての議論を封じ込める。


 長く続く緊縮財政。慢性的な不況。失われた二十年どころか、三十年になろうとしている。


 俺は歯を食いしばった。


「それでも、俺は諦めません。この政策が日本を救う唯一の道だと確信しています」


「月城君」


 中野は立ち上がり、窓の外を眺めた。


「君の情熱は買うよ。だが、情熱だけでは政治は動かない。現実を見たまえ。君一人に何ができる? 所詮、我々は歯車の一つに過ぎないんだ」


 その言葉が、胸に突き刺さった。


 俺に日本を変える力はない。一人の人間ができることなんて、この程度だ。


 もし俺に権力があれば――なんて考えても無駄だな。


 会議室を出て、俺は重い足取りで帰路についた。廊下の蛍光灯が、やけに眩しく感じられた。頭痛がする。過労とストレスで、体はもう限界を迎えていた。


 エレベーターに乗り込み、ふと鏡に映った自分の顔を見た。やつれて、目の下には深いクマができている。四十二歳。まだ若いはずなのに、まるで老人のようだ。


 扉が閉まる。


 そして――俺の意識は、そこで途切れた。


---


 全身の感覚がない。


 自分の思考だけがそこに存在しているような、奇妙な感覚だった。


 目の前が真っ暗というより――視覚というものが存在しない。聴覚も、触覚も、嗅覚も、味覚も。五感のすべてが消滅している。


 俺は死んだのか?


 エレベーターで意識を失った後、何が起きたのかわからない。ただ、この状態が「死」なのだとしたら、思っていたよりも意外と冷静でいられる自分に驚く。


 恐怖はない。苦痛もない。ただ、思考だけが漂っている。


 これが魂というやつなのだろうか。


 そう考えた瞬間――


 突然、頭の中にノイズが襲いかかってきた。


 無理やり視覚情報に置き換えるなら、テレビの液晶画面に映るカラフルなノイズのようなものが、思考を上書きするかのように襲ってくる。


 痛い――いや、痛みという言葉では表現できない。


 魂の痛み、としか言いようがない。


 感じたことのないような、思考そのものが引き裂かれるような激痛に、俺は――いや、俺の意識は悲鳴を上げた。声にならない悲鳴が、存在しない空間に響く。


 これは何だ? 何が起きている?


 ノイズは激しさを増し、俺の記憶を、思考を、すべてを飲み込もうとする。


 月城慎一という人間の記憶が、砂のように崩れ落ちていく感覚。


 いや――待て。消えるな。俺は、俺は――


 必死に自我を保とうとする。だが、ノイズの奔流は容赦なく押し寄せてくる。


 どれくらいの時間が経ったのかわからない。


 永遠にも思える苦痛の中で、俺はただ耐え続けた。


 そして――


 ふと、ノイズが止んだ。


 同時に、五感が戻ってきた。


 最初に感じたのは、温かさだった。柔らかく、優しい温もり。


 次に聴覚。誰かの声が聞こえる。言葉の意味はわからないが、穏やかで慈愛に満ちた声だ。


 そして視覚。ぼんやりとした光が見える。焦点が合わない。世界が滲んでいる。


 俺は――生きている?


 いや、違う。これは――


「――■■、◆◆◆……▲▲■」


 優しい女性の声が聞こえた。言葉の意味はわからない。


 焦点が少しずつ合ってくる。


 目の前にいるのは、美しい女性だった。金色の髪、碧眼、整った顔立ち。服は中世の貴族のようだ。

 彼女は俺を――いや、小さな体を優しく抱きかかえている。


 そうか。


 俺は――赤ん坊になっている。


 転生、したのか。


 状況を理解した瞬間、不思議と冷静さが戻ってきた。四十二年間生きてきた月城慎一の記憶と思考が、この小さな体の中にそのまま残っている。


 女性――おそらく母親だろう――は、俺を胸に抱いて微笑んでいる。


 その女性はよくわからない言葉をしゃべった。異国の言葉だろうか。


 急激な眠気に耐えられず、俺はそっと目を閉じた。

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