北風と太陽と
北風は言った。
「ああ、退屈だ。何か面白い事はないか」
太陽は答えた。
「ふむ、そうだな。よし、では一つ勝負でもしようじゃないか」
「勝負?」
「ああ。ほら、あそこに一人人間が歩いているのが見えるだろう。黒のロングコート着た男だ」
北風は地上に目をやる。なるほど、ロングコートを着た中年の男がくたびれた様子で歩いてくる。「あの男がどうしたっていうんだ」
「どちらがあのコートを脱がせるかで勝負だ。力比べだ」
「そういうことなら…俺のが有利じゃないか!よし、俺が軽くあの男のコートを吹き飛ばしてやるぞ」
そういうと北風は思い切り息を吸い込み、男に向けて吹きかけた。凍りのように冷たい北風がびゅうびゅうと辺りの木々を激しく揺らした。
しかし、「あれ?」と北風は首を(そんなものは無いが)かしげた。
男のコートは吹き飛ばなかったのだ。それどころか男は突然の北風に震え上がり、コートの衿を立てしっかりと押さえつけていた。
「おい北風。どうやら失敗だったみたいだな」
太陽は笑って言った。「次は俺の番だ。よし、この勝負はいただいた」
太陽があまりに自信満々なので、北風は尋ねた。
「よう、太陽よ。一体どうやってあのコートを脱がすつもりなんだ?」
「なに、簡単な事さ。俺がちょいと気合入れてやれば、辺りはたちまちカンカン照りで冬とは思えない暑さだ。異常気象なんてちょろいもんよ。そうしたら男は当然あんな暑苦しいコートなんて脱ぎ捨てるに決まっているだろ?」
北風はああなるほどと相づちを打った。
「それにしても汚い奴だな。自分が勝つってわかっていたんじゃないか」
「まあまあ、退屈しのぎにはなっただろ。それ、見てろ」
太陽がフンと気合を入れると、辺りは強い日差しに包まれた。たちまち気温は上昇し、地上はまるで真夏のような炎天下に様変わりした。
しかし、「おや?」と太陽は首を(はやりそんなものは無いが)かしげた。
男はコートを脱がなかった。セミが鳴きだしそうな暑さにも関わらず、涼しい顔をしていた。
「こ、これは一体どういうことだ?」
太陽はたいそう驚いた。まさかこの暑さでコートを脱がない人間がいるとは思わなかったのだ。
「残念だったな太陽。どういうわけかこの勝負、引き分けだな」北風はニヤニヤと嬉しそうに言った。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。あの男が何でコートを脱がないのか気になる。一体どういうことなのかこの目で確かめたい。勝敗はそれまで待ってくれ」
というわけで、北風と太陽はそのままその男をずっと監視することになった。
だがいくら時間が経っても、男は一向に変わった様子は見せなかった。
しばらく時間が経ち、太陽は帰らなくてはならない時間がやってきた。日が沈むのだ。
「結局、特に変わった様子は無かったな。普通のオッサンだ」
「ああ、残念だ。だがもしかしたらこれから何かあるかもしれない。引き続き監視を頼むよ、北風」
太陽は去り、そして夜がやってきた。
「やあ北風」
「やあ夜」
「一体どうしたんだ?人間なんてじっと見つめて」
「実は……」
北風は事情を全て夜に話した。
「ははあ、なるほどね。……よし、その勝負僕も参加させてもらおう」
「なんだって?君に何が出来るって言うんだい?君はただの暗さじゃないか」
夜はその言葉を聞いて笑った。
「ああ、そうさ。僕はただの暗さだ。だがこの場合、それが重要なんだ。寒さや、暑さよりね」と、どうやら夜は何かに気がついているようだった。
「一体何をするつもりだ?」
「僕は何もしないさ。まああの男を見ていなって」
男は人気の少ない、狭い道を歩いていた。相変わらず、黒のロングコートを着ていた。
すると突然、男は立ち止まった。道の向こう側から、人が歩いてくるのが見えた。若い女だ。女が男の前を通り過ぎようとした―――その時、男はコートを脱いだ。
次の瞬間、真夜中に響きわたる女の悲鳴。女は一目散に男の前から逃げて行った。
「つまり、こういうことさ」と、夜は言った。
「あの男ははじめからコートの下には何も着ていなかった。当然、寒ければそのコートはなにがあっても失うわけにはいかない。暑さはかえって丁度良かったんだろう。そして僕。夜の暗闇は彼にとっては最高の舞台だった―――とまあ、こんな所だろうね」
「間違いない、君の勝ちだよ。夜」
北風は冷たい溜め息を口から漏らした。