視線の奥に
夜勤明けの、少し気の抜けた時間。
多くの人が通り過ぎるような“なんてことない違和感”に、あなたはどれだけ敏感でいられるでしょうか。
この物語は、ごく普通の看護師が体験する、一夜の“静かな悪夢”を描いた短編ホラーです。
大きな音も派手な演出もありません。ただ、日常がゆっくりと歪んでいく、そんな恐怖だけが残ります。
静寂の中で、あなたの背後に――何かの視線を感じたなら、それはきっと。
「……ふあぁ……」
ナースステーションの蛍光灯の下、私はあくびを噛み殺した。
時刻は午前二時を回ったところ。記録の確認もひと段落し、他の夜勤スタッフも、それぞれの持ち場で仮眠に入っている。
深夜の病院は、思った以上に静かだ。
無人の廊下を照らす薄暗い常夜灯、規則正しく点滅するモニター。
この沈黙にも、私は慣れている――はずだった。
なのに。
「……?」
ふと、何かの気配に、背筋がぞわりとした。
視線を感じたような、空気の揺らぎのような、説明のつかない違和感。
私はペンを置き、立ち上がった。
誰かが廊下を通ったのかもしれない。あるいは、患者のナースコールを見落としたか。
履き慣れた白いシューズが、床にやわらかく触れるたびに、小さく音が響く。
薄暗い廊下を歩きながら、各病室の扉に目を走らせる。
異常はない。患者も、スタッフも、皆、静かに休んでいる。
――なら、今のは、何だったのだろう?
私はふと立ち止まった。
廊下の先、突き当たりの角の奥に、一枚だけ、目立たないドアがある。
霊安室。
病院の構造を知る者なら、あそこに何があるか、すぐにわかる。
昼間は葬儀社のスタッフが出入りする場所。夜間は施錠され、使われないはずの部屋。
なのに。
どうしてだろう――
今日は、あの扉がやけに“気になる”。
理由なんて、なかった。
ただ、なぜか視線が吸い寄せられる。
まるで、あそこに“誰かがいる”かのように。
「……バカバカしい……」
自分にそう呟いても、足は止まらなかった。
ゆっくりと、そちらへ向かう。歩くたびに、病院の静寂が重くのしかかってくる。
近づくにつれて、胸の奥が冷たくなっていく。
空気が妙に湿っていて、古いカビのような臭いが鼻に残る。
扉の前に立つ。
手には触れていないのに、まるで中の何かと“向き合っている”ような気分だった。
それでも私は、扉の取っ手に手をかけた。
ギィ――……
小さな音を立てて、扉がほんの数センチ、開く。
中は暗く、冷気のような空気がわずかに漏れてきた。
私は、隙間から中を覗き込んだ。
そこで、見てしまった。
――誰かがいる。
室内の白い蛍光灯が一部だけ点いている。
その淡い光の下、奥のベッドに“何か”が立っていた。
青白い肌。やせ細った腕。
そして、不自然に濃く浮かぶ、青い髭跡。
その男は、ベッドに横たわる遺体に、何かをしていた。
その様子はまるで、死体と……会話をしているかのようだった。
私は声も出せず、その場に凍りついた。
逃げなきゃ。誰かを呼ばなきゃ――
頭では理解しているのに、体が動かない。
そのときだった。
横たわる遺体の顔が、ふいにこちらを向いた。
目が――合った。
それは目が開いたというより、“私を見ていた”という感覚だった。
その視線が、直接脳を握りつぶすように、強烈に焼きついてくる。
「――っ」
声にならない悲鳴。
背中に冷水を浴びせられたような衝撃。
そして私は、意識の底に沈んでいった。
目を覚ましたとき、最初に気づいたのは、不自然なほどの静けさだった。
天井の薄暗い照明。
かすかに聞こえる、通気口からの空調音。
どこかの配管が、時折コン……と鳴っている。
私は、宿直室の簡易ベッドに寝かされていた。
「……え……?」
起き上がった私は、しばらくぼんやりと周囲を見渡していた。
毛布がかけられ、枕元には自分のメモ帳が置かれている。
夢……だったのか。いや、でも――
思い出す。
霊安室。
あの男。
あの、遺体と目が合った瞬間。
ぞわり、と背筋に悪寒が走った。
慌てて立ち上がる。脚がふらついた。
時間は……午前三時四十五分。
記録をつけていたのは二時過ぎのはず。
じゃあ――あれから、一時間以上が消えている。
「誰か……」
声を出してみたが、応える声はなかった。
壁に備えつけられたナースコールのランプも、無言のまま光っていない。
私は急ぎ、ナースステーションへ向かった。
廊下は変わらず静かだった。
誰ともすれ違わない。
すべての病室の扉は閉じたまま、気配すらない。
ナースステーションに戻ると、机の上に開かれた記録表があった。
私の名前の欄で、記入が途切れている。次の巡回記録が、空欄のままだった。
(おかしい。誰かが私を宿直室まで運んでくれたなら、気づいていないはずがない……)
それとも――誰もいなかったのか?
ざらりと、喉の奥が乾いた。
心臓の鼓動が、ひとつひとつ耳に響いてくる。
「警備室……」
私は小走りで階段を下り、1階へと向かった。
病院の構造を熟知しているはずなのに、今はどこか、知らない場所を歩いているような不安に襲われていた。
警備室の扉は閉まっていた。
だが中に人の気配は……ない。
ノックをしても応答はなかった。
思い切って扉を開けると、中は真っ暗で、警備モニターの画面だけが淡く光を放っていた。
誰もいない。
監視モニターには、いくつもの廊下や出入口が映っているが、そこにもやはり――誰一人映っていない。
「どういうこと……?」
もしかして、私はまだ――夢の中なのだろうか。
そんな言い訳をしたくなるほど、現実の感触が薄れていく。
だが。
あの男の顔を思い出すたびに、身体の奥底が冷えていくのを感じる。
あれは夢なんかじゃない。
確かに“何か”がいた。
そして私は、それに見られていた。
(……放っておけるわけない)
自分に言い聞かせるように、私は震える指先で無線の受話器に手を伸ばした。
だが、何度試しても――応答はなかった。
私はひとつ深く息を吸った。
もう一度だけ、確かめよう。
――あの場所へ。
霊安室へ。
廊下の照明は、さっきと変わらず鈍く滲んでいた。
病院という場所は、静寂が支配する時間がある。
だが今この瞬間のそれは、“静けさ”ではなく、“空虚”だった。
ナースステーションを離れ、私は再びあの扉――霊安室の前に立った。
意識が戻った今もなお、心の奥に刺さったままのあの視線の感触。
あれは勘違いじゃない。
遺体は――いや、“あれ”は、確かに私を見ていた。
扉の前に立った途端、また全身が冷気に包まれた。
取っ手に手をかける指先が、じっとりと汗ばんでいる。
まるで、ここから先に進むことが許されていないとでもいうように。
けれど、私は開けた。
ほんの少しだけ。
――ギィ……。
嫌な音を立てて、わずかに隙間が生まれる。
その瞬間、あの顔が、ぬっとその隙間から突き出てきた。
「――ッ!」
言葉にならない叫びが喉を裂いた。
青ひげの男だった。
距離、ゼロ。
紙一重の隙間越しに、こちらを“覗き返して”いた。
黒く濁った目。
ひび割れた白い肌。
唇は裂け、歯が見えているのに、まったく笑っていない。
表情がない。
にもかかわらず、“笑っている”と錯覚するのはなぜだろう。
それはおそらく、視線の奥に“知性”のようなものが、ほんのかすかに、宿っていたからだ。
人ではない。
けれど、何かを知っている目だった。
「い……いないで……」
そう言おうとした口が震える。
足が後ずさる。逃げなければ。逃げて――
「……っ!」
一歩踏み出したところで、視界がゆがんだ。
酸素が薄くなったような、深海に沈むような感覚。
重力がぐにゃりと曲がる。
耳の奥で、ざあ……と水音のようなノイズが響く。
意識が――落ちる。
私は再び気を失った。
遠くから誰かの足音が聞こえる。
タッ……タッ……
タッ……タッ……
目を覚ましたとき、私は霊安室のベッドの上にいた。
照明は落とされ、部屋の空気はひどく冷たかった。
身体がまったく動かない。指先すら、かすかにも反応しない。
目だけが、かろうじて動いた。
それだけが、現実との繋がりだった。
天井のシミ。微かに鳴る空調。
冷たい金属の感触が背中を伝う。
ここが“あの部屋”であることに疑いの余地はない。
「…………」
ふいに、誰かの気配を感じた。
視線をずらす。
そこには、あの男がいた。
青ひげの、色白の、ガリガリの、何かがおかしい“男”。
近すぎる距離で、まっすぐに私を見つめている。
もう、驚きすら湧かなかった。
感情というものが、ゆっくりと溶かされていく。
男は、何も言わない。
ただ、無表情のまま、ゆっくりと顔を近づけてきた。
そして、こちらの目をじっと覗き込みながら――
「おかえり」
低く、耳の奥に直接響くような声がした。
私は叫ぼうとした。
けれど声は出ず、ただ冷たい涙が、こめかみを伝って落ちていった。
(助けて――)
そう思って視線をずらす。
そのときだった。
霊安室の扉に、微かな光が差した。
誰かが、いる。
扉の隙間から、こちらを覗く視線。
暗がりに浮かぶその目元は、はっきりと私自身のものだった。
あれは――私?
さっきまでの私?
それとも、これからの私?
時間も、場所も、自分さえも曖昧になっていく。
“私”は、こちらをじっと見ていた。
そして、ゆっくりと、目を細めた。
それは笑顔だったのか、それとも――“別れの挨拶”だったのか。
「ねえ、どっちが本物だと思う?」
耳元で、誰かがそう囁いた。
私はもう、答えることができなかった。
ただひとつだけ確かだったのは、
私はもう、戻れないということ。
こんな、いわくつきの病院なんか――来るんじゃなかった。
夜勤の給料がいいからって、気軽に飛び込むんじゃなかった。
あのとき扉を開けさえしなければ。
あの“視線”に、出会わなければ。
私は今でも、ちゃんと私でいられたのだろうか――。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
本作は、「派手な恐怖」ではなく、「静かな不安」をテーマに書きました。
病院、夜勤、霊安室、視線――それらは全て、現実に“ありふれている”からこそ、じわじわと怖いのではないかと思っています。
目と目が合うということは、本来、そこに“誰かがいる”ということ。
けれども、もしそれが“いてはならない存在”だったら――?
あるいは、“自分自身”だったら――?
夜、読み終えたあと、扉の隙間や鏡の前に立つのが少し怖くなるような、そんな余韻を残せていたなら、作者としては嬉しく思います。
また次作でお会いしましょう。
――ありがとうございました。