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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

もっと素直に愛せたなら

作者: 永川 さき

 僕が先に生まれて、あの子が後に生まれた。

 僕が先に始めて、あの子が後から始めた。

 僕には飛び抜けた才能はなくて、努力するしか道がなかった。

 あの子には天賦の才があり、それを上回るほどの努力の軌跡があった。

 ただ、それだけ。


   *


 五年連れ添っているノートパソコンの前に座り、時計の針が午前十時を指すのをじっと待つ。

 昨日と変わらない工房なのに、初めて来る場所のようにも感じるのは、四十二歳にもなって大人気なく緊張しているからだ。


 ドクドクと早い速度で脈打つ心臓。

 落ち着かなければと意識してゆっくりと呼吸をすると、やけに耳の奥で心拍が響いて余計に気持ち悪い。

 汗を握る拳は震えていて、右手を左手で押さえてもなお止まらない。


 もう、こんなこと二度とするものか。

 そう思うのに、何度も同じことを繰り返す。

 愚かなことを続けるのは、まだ諦めたくないと胸の奥で熾火が燻っていたからだ。


 さっきまでもったいぶって遅々として進まなかった針が真上を向く。

 待ち望み、けれど一生来なければいいと思っていた、運命のとき。


 僕は冷たく震える手で「F5」を押し、あらかじめ開いていたウェブページを更新した。

 そこに写し出されたのは、陶芸の国内最大のコンテスト「雪華賞」の結果だ。

 

 マウスホイールに指を滑らせてスクロールする。

 一番上――大賞の欄――に名前があってほしい。

 それが儚い夢でも、願わずにはいられない。

 しかし、夢は呆気なく破れた。


『大賞 尾上真斗』


 それは、僕――深沢康正――の愛弟子の名前だった。

 僕の名前はというと、その下の優秀賞の欄に存在していた。


「やっぱり、ね……」


 わかっていた。

 どんなに努力しても、凡人は研鑽を重ねる天才には勝てない。


 浅くなっていた呼吸。

 はぁ、と息を吐くと、栓が抜けたように全身から力が抜けた。


 悔しさは感じない。

 ただ、一番に選ばれなかった虚しさと悲しみ。

 そして、真斗が大賞を獲ったことへの尊敬と、彼に陶芸を教えた誇りがあった。


 コンテストに参加するのは今回が最後。

 そう意気込んで挑んだが、結果はこれだ。

 一番でなくとも、入賞はできた。

 これで終わりでいい。

 もう未練はない。


「ようやく解放される」


 世界的に有名な陶芸家の恩師。

 その重圧は、僕には重かった。

 これからは自由気ままに好きなものを作り、これまでに確保している販路で細々と作品を世に送り出せばいい。

 賞レースからは引退だ。


 高揚感と奇妙な安心感。

 ぐったりと椅子に体を預けていると、高めのインターホンの音が響いた。

 モニターを見なくても、来訪者が誰かわかる。


 今は会いたくない。

 けれど、雪がちらつく寒い中、放置するわけにはいかない。

 あの子は忠犬のようにいつまでも待つ子だから、その呼び出しに答えるしかないのだ。


 僕は重い足取りで玄関に向かい、カラカラと鳴る引き戸を開けた。

 黒いダウンコートを羽織っただけの、僕より背の高い男。

 隣に住む愛弟子であり、雪華賞で大賞を受賞した尾上真斗その人だ。


「康正先生。優秀賞おめでとうございます」

「ありがとう。真斗くんも、大賞おめでとう。流石だね」

「ありがとうございます」


 寒いからと真斗を中に招き入れる。

 通したのは、彼も馴染みのある工房だ。

 ここは、真斗と出会ったときから何も変わらない。


 今から十二年前、真斗は突然僕を訪ねてきた。

 友人と訪れた下町の小さな現代美術館で、僕の作品を見たらしい。


「一目惚れしたんです」


 焦茶の瞳を煌めかせる真斗は、当時は油絵を専攻している美大生だった。

 ところが、僕の作品を見て人生が変わったという。

 彼は若者らしい誠実さと無鉄砲さを武器に、陶芸を教えてほしいと僕に頭を下げてきた。


 僕は頭を抱えた。

 確かに国内のコンテストで大賞を獲ったこともある。

 僕の作品を気に入ってくれて、買い取ってくれる百貨店の営業もいる。

 けれど、人に陶芸を教えるほどその道を極めているとは到底思えなかったし、なにより僕はコミュニケーションが下手くそだ。

 とてもじゃないが無理だと思った。

 

「僕に教えを乞うより、もっと長く陶芸をしていて、教室も開いている職人のところに行ってください」


 そう断ったのに、真斗は納得しなかった。


「いいえ。あなただから、教えてほしいんです」


 射抜くような視線を向けられて、僕は何も言い返せなかった。

 それを是と捉えたのか、真斗は毎日この自宅兼工房を訪ね、僕の作業を観察しては質問攻めしてくるようになった。

 静かな水面に波紋が次々と浮かび、波が立つ。

 平穏な日々は、僕の意思を無視して終わりを告げた。


 でも、嫌ではなかった。

 真斗は僕との距離感を正確に把握した上で、僕の領域に踏み込んできた。

 質問はしてくるけど、制作の邪魔は絶対にしない。

 そればかりか、授業料だといって食事を作るようになった。


 ここまでされては教えないわけにはいかない。

 ……というのは建前で、単に真斗の意思の強さに絆されただけだ。


 真斗は凄まじい美的センスの持ち主だ。

 元々油絵を描いていたのもあってか、陶芸にもそのセンスを発揮した。

 僕が教えたことといえば、粘土の扱い方などの基礎的なことだけで、たまにアドバイスするくらい。

 本当に、たったそれだけだった。


 真斗が初めて完成させた作品を見て、確信した。

 この子は陶芸をするために生まれてきたのだと。

 僕のもとへ来たのも、きっと運命だったんだ。


 尾上真斗の存在を世に知らしめなければ。

 興奮と期待に胸を膨らませた僕は使命感に駆られ、困惑する真斗を説き伏せ、その作品を陶芸家の登竜門とも言われる「春水賞」に応募させた。

 

 するとどうだろう。

 圧倒的な存在感を放つ真斗の作品は、他の追随を許すことなく大賞を受賞した。

 この受賞は陶芸の道に反対していた真斗の両親の心を動かした。


 大学を卒業した真斗は僕の工房を間借りし、本格的に陶芸家としての道を歩み始めた。

 僕のアドバイスを素直に聞き、砂が水を吸うように技術を取り込んでいく。

 怖いくらい順調に腕を上げ、コンテストで入賞していくのは当然のように思えた。


 僕はといえば、可もなく不可もなく、それなりの成績を残していくだけ。

 ただ、懇意にしている百貨店の営業からは今まで以上に注文が増えた。

 曰く、これまでは静かな湖のような作風だったが、今はひだまりのような温もりを感じる。

 それは間違いなく真斗からの影響だった。

 無自覚の変化は、万人に僕という存在が受け入れられたようで嬉しかった。

 

 しかし、指摘された僕の変化は、コンテストの成績に繋がることはなかった。

 講評を見て、高校生のときからお世話になっている師匠に聞いて、その内容は理解できた。

 ただ、不思議なことに制作へ活かすことはできなかった。


 どこまでも高みへと登る真斗と、低空飛行を続ける僕。

 真斗へ募る期待と誇り。

 それに、嫉妬と羨望が重なっていく。

 複雑だった。


 真斗が生み出す芸術が好きだ。

 それは絶対に消えない感情だった。

 だけど、それと同じくらい真斗の才能が羨ましくて、妬ましくて。

 

――ある日、抑えきれずに真斗を拒絶した。

 

 真斗を酷く傷つけてしまった。

 こんな醜い自分を曝け出してしまった。

 すぐに後悔して、そんな資格がないのに泣いてしまった。

 

 頬を伝った涙。

 それを拭ったのは、他でもない真斗だ。

 痛みをこらえた表情を浮かべた彼は、無言で僕を寝室に連れて行った。

 そして、一言。


「好きです」


 僕を責めるわけでもなく、ただ、それだけ。

 罪悪感に打ちひしがれた僕は、抵抗することもなく真斗に抱かれた。

 

 いや、嘘だ。

 本当は嬉しかった。

 真斗が好きだ。

 ずっと真斗に触ってほしかった。

 あの美しい立体物を生み出すその手で、体の隅々まで愛されたい。

 そんなやましい気持ちを抱いたのは、真斗が大学を卒業したころだ。

 

 だけど、気持ちを打ち明ける勇気もなかった。

 次第に負の感情も抱くようになり、自分で自分がわからなくなったのもある。

 好きでたまらないのに、憎らしくて仕方ない。

 二律背反に陥り、胸を掻き毟られて、流されるように抱かれた僕は卑怯な大人だ。


 やがて、嫉妬するのも馬鹿らしくなるほど真斗が有名になると、僕は真斗に嫉妬することも羨望の視線を向けることもなくなった。

 長い時間をかけて、僕は僕でしかないのだと悟った。

 そして、真斗から注がれる愛を受け、飢餓を覚えていた心が満たされたからだ。


 雪華賞を最後に賞レースから離れよう。

 そう思ったのは、僕なりのけじめをつけるためだ。

 僕らしい陶芸の道を歩むため、必要だと思った。


 悔しさはなくても、気合を入れて制作した分、落胆する。

 こんな日は誰にも会わず、何も考えずぼーっとしていたい。

 そのつもりだったんだけど、なぁ……。


 白い息が見えなくなると、真斗はゆっくりと体の力を抜いた。

 そんな彼のコートをハンガーにかけ、鴨居に吊るす。

 真斗専用の湯飲みに緑茶を淹れて差し出せば、目元がゆるりと和らいだ。


「あ、茶柱」

「本当だ。気付かなかった」


 いつもなら気付いたはずのこと。

 それだけ、今日は気がそぞろになっているらしい。

 

「康正先生、本当に今回で最後なんですか?」

「何度も言っているだろう。最後だよ」

「もったいない」

「そう思っているのは真斗くんだけ」

「そんなことないと思うんだけど」

「食い下がるねぇ」


 真斗は僕が賞レースから引退することに反対している。

 還暦を過ぎてもコンテストに参加している陶芸家は何人もいる。

 四十代で引退は早すぎる。


 何度もしつこく説得を受けたけど、僕は首を縦に振らなかった。

 もう、決めたからね。


「康正先生は自分の凄さをわかっていない」


 ことりと湯飲みを机に置いた真斗は、壁に背を預けた僕に覆いかぶさってきた。

 しっとりと触れ合う唇は熱い。

 強気な言葉とは裏腹に、懇願するように何度も唇を食まれる。

 今日はそんな気分じゃなかったのに、一気に体が熱を持った。


「もう、どうしてくれるのさ」

「責任取りますよ。どうせ、ベッドで寝るだけの日にするつもりだったでしょう?」

「生意気だね」

「そうですよ」


 ああ、本当に生意気。

 前はあんなに素直だったのに。

 

 うるさい口を塞げば、くつりと喉奥で笑う音が聞こえた。

 全部見透かされているようで悔しい。

 きっと、僕の強がりは無意味なんだろう。


 湯飲みから立ち上る一筋の白い糸を残し、寝室を目指す。

 僕が意地を張らずに「好き」と言えたなら。

 もっと素直に真斗を愛せたなら。

 この胸に広がる痛みは消えるんだろうか。


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