怪しい女
吉岡浩司は、事務所のデスクに散乱する資料の束を前に、眉間の皺をさらに深くした。
「主任、新しい情報が入りました。」
後輩の田平光輝が、少し疲れた顔で追加の書類を差し出してくる。
吉岡はその資料に目を通し、軽く頷いた。
「また目撃情報か。」
新しいリストには、公園周辺での人物の目撃記録が更新されていた。多くはジョギングをしていたり、子供を連れて遊びに来ていたりといった平凡な内容だが、その中に「牧野アンナ」という名前が加えられている。
「この名前、初めて見るな。」
吉岡がそう呟くと、田平はすぐにフォローする。
「はい、公園近くの住民が『最近よく見かける』と証言しています。特徴的な見た目で、ブラジル系のハーフらしいです。」
吉岡は資料を見ながら、顎に手を当てた。
「職業は?」
「自称フリーランスのデザイナーだそうです。ただ、地域での活動は見られず、引っ越してきたのも最近のようです。」
「ふむ。」
吉岡は視線を資料から上げ、田平に指示を出した。
「行くぞ。話を聞いてみよう。」
築年数の古いアパートの一室。住人の多くは一人暮らしの若者や外国人で、この地域の特徴的な空気をまとっていた。吉岡と田平がドアをノックすると、数秒後に扉が開いた。
現れたのは長い黒髪に褐色の肌を持つ女性だった。彼女は一瞬だけ驚いた表情を見せたが、すぐに柔らかな笑顔を浮かべた。
「こんにちは、どうしましたか?」
日本語は少しアクセントがあるものの流暢だった。
吉岡が手帳を見せながら名乗る。
「警視庁の吉岡です。この近くで発生した事件についてお話を伺いたいと思いまして。」
アンナは少し戸惑った様子を見せたが、すぐに「わかりました」と答え、部屋に通してくれた。
室内は小綺麗に片付けられ、壁にはデザインサンプルらしき資料が貼られていた。机の上にはパソコンや文房具が並び、生活感のある一室だった。
吉岡が質問を始める。
「最近、公園で何か不審なことを見かけたりしませんでしたか?」
アンナは軽く首を傾げ、少し考え込んでから答えた。
「いいえ、特に何も。ただ、私はたまに公園で散歩をしているので、子供たちが遊んでいるのを見かけることはあります。でも、その子供がいなくなったなんて…怖い話ですね。」
彼女の表情には特に動揺は見られなかったが、吉岡はその様子をじっと観察していた。一方で田平は小さなメモ帳を開き、彼女の一言一言を書き留めている。
「この地域に引っ越してきたのはいつ頃ですか?」
吉岡の質問に、アンナは自然な笑顔で答えた。
「2ヶ月前です。それまで住んでいた場所が古くて危なかったので、ここに引っ越しました。」
田平が追加で尋ねる。
「デザイナーのお仕事は、この地域でもされていますか?」
アンナは少し笑いながら答えた。
「いえ、基本はオンラインでの仕事なので、あまり外では働いていません。」
吉岡と田平はそれ以上の情報を得られず、その場を後にした。しかし、帰り道で田平がぽつりと言葉を漏らす。
「彼女…少し気になりませんか?」
吉岡は短く答えた。
「確かに。ただ、今の段階では何とも言えん。だが、周辺情報を洗う過程で、もう一度彼女を調べる必要があるだろう。」
その夜、吉岡は捜査会議で報告を行った。
「新たに浮上した牧野アンナという女性についてですが、現時点で不審な点は見つかりません。ただし、公園周辺で頻繁に目撃されているという証言があります。」
会議室に集まった捜査員たちは、それぞれ資料に目を通しながら頷いている。
「そのアンナという女性、公園で遊ぶ子供たちを観察していたという情報もありましたが?」
一人の若い捜査員が質問を投げかける。
吉岡は頷きながら答える。
「そうだ。ただ、本人は『たまたま散歩していただけ』と説明している。」
「それで納得していいんですかね?」
「納得はしていない。だからこそ、引き続き調査を続ける。」
吉岡の言葉に緊張が走る。
その夜、吉岡は事務所で報告書を整理しながら、アンナの対応を振り返っていた。表情や話し方に特に不審な点はなかったが、心のどこかに引っかかる感覚が残っている。
「主任、まだいますか?」
田平がデスク越しに顔を覗かせた。
「ああ。少し整理しているだけだ。」
吉岡は手元のメモを見ながら、田平に問いかけた。
「お前はどう思う?牧野アンナ。」
田平は椅子に腰を下ろしながら、手元の資料を見返した。
「直感ですが…普通じゃない気がします。特に隠してるわけじゃなさそうですけど、彼女の言葉や態度、どこかしら違和感がありました。」
「俺も同感だ。ただ、感覚だけでは動けない。」
吉岡はペンを机に置き、腕を組んだ。
田平は少し考え込んだ後、ふと顔を上げた。
「もう少し突っ込んだ聞き込みをするなら、彼女の周辺、つまりご近所さんの証言を集めた方がいいかもしれません。」
吉岡は少し頷き、田平に目を向けた。
「やってみる価値はあるな。明日、手分けして回ろう。」
翌日、吉岡と田平はアンナの住むアパート周辺を回り、住民たちに聞き込みを始めた。築年数の古い建物だけに住民層も様々で、外国人労働者や学生、年配者まで幅広い。
吉岡が訪ねた一室の住人は、60代半ばの女性だった。室内から漂うお香の香りが特徴的で、彼女は興味深そうに吉岡を見つめた。
「牧野アンナさんのことですか?はい、時々見かけますよ。背が高くて綺麗な方ですよね。」
「彼女について何か気になることはありませんか?」
吉岡が問いかけると、女性はしばらく考え込むようにしてから口を開いた。
「んー…特に問題はないと思いますけど、時々夜遅くに帰ってくるのは見かけますね。」
「夜遅く…ですか?」
「ええ。でも、何をされてるのかは知りません。こっちも深く気にしたことはないので。」
吉岡はその話を聞きながらメモを取り、礼を言ってその場を後にした。
一方、田平が訪ねた部屋では、30代の男性がアンナについて興味深い情報を提供していた。
「確かに最近引っ越してきた人ですけど、あの人、たまに大きなバッグを抱えて出かけるのを見かけますよ。」
「大きなバッグ?」
田平がその言葉を聞き逃さずに確認すると、男性は軽く頷いて続けた。
「ええ、何が入ってるのかは分かりませんけど。あと、公園で子供と話してるところを見たこともあります。」
田平はその情報に少し眉をひそめた。
「どんな様子でしたか?」
「うーん、別に怪しい感じじゃなかったけど…。でも、なんていうか…必要以上に近づいてる感じはしましたね。」
田平はその言葉をメモしつつ、心の中で引っかかるものを感じた。
事務所に戻った吉岡と田平は、それぞれの聞き込み結果を共有した。
「主任、アンナが夜遅くに帰宅しているという話と、大きなバッグを持ち出しているという証言がありました。」
吉岡はその情報に眉をひそめながら答える。
「確かに少し気になるな。特に、大きなバッグ…。何かを運んでいるのかもしれない。」
「さらに、彼女が公園で子供たちと話している場面を目撃した人もいました。」
吉岡は腕を組みながら、部屋のホワイトボードを指さした。そこには現在の捜査対象者として、アンナの名前が新たに書き加えられている。
「牧野アンナ…これ以上の情報を掘り下げる必要があるな。」
その夜、吉岡は一人でファミレスを訪れていた。簡単な夕食をとりながら、これまでの捜査を頭の中で整理していると、ふとカウンター越しに立つ店員が目に入った。
「あれは…森本茜か。」
茜が客の注文を取っている様子を見ながら、吉岡はその働きぶりに少し感心していた。普段は一児の母としての顔しか知らなかったが、接客業をこなす姿にはまた違った一面があった。
「主任、ここで何を?」
突然後ろから声をかけられ、振り返ると田平が笑顔で立っていた。
「食事だ。お前こそ何してる。」
「仕事の合間に軽く食べようと思いまして。」
田平は吉岡のテーブルに座りながら、アンナの捜査について話を続けた。
「彼女の行動範囲をさらに絞り込むなら、公園周辺の防犯カメラ映像を確認するのが早いと思います。」
吉岡はその提案に頷き、短く答えた。
「よし、明日やるぞ。」
防犯カメラの映像解析により、アンナが頻繁に公園へ通っていることが確認された。特に子供たちが集まる時間帯を狙うような行動が見られる。
「この時間帯、彼女は何をしていたんでしょうか?」
田平が疑問を口にすると、吉岡はじっと映像を見つめながら答える。
「まだ分からん。ただ、彼女の行動に一定の目的があることは間違いない。」