コザト
寺阪はドアが静かに閉まる音を聞きながら、茜が部屋を出ていったことをぼんやりと理解した。しばらく動けず、リビングのソファに崩れるように座り込んだ。心に重い何かがのしかかっている。
(俺…やっぱりダメだったんだな。)
茜の言葉が耳にこびりついて離れない。
「私は、心悟くんのことを好きにはなっていなかった。ただ、誰かに頼りたかっただけだったの。」
そう言い放たれた時の茜の表情。申し訳なさと決意が入り混じった瞳は、あの瞬間の記憶として鮮明に残っている。
寺阪はベランダに出てふぅーと大きく息を吐いた。
(俺、あの頃と何も変わってないのかもしれない…。)
そう思った瞬間、心の奥底に押し込めていた高校時代の記憶が蘇ってきた。
高校1年生の春。寺阪は新しいクラスに入ると、最初は誰とも自然に話せていた。転校生がいたわけでもなく、小学校や中学校から一緒だった顔ぶれが多い環境だった。特別目立つわけでもないが、適度に周囲と馴染んでいる「普通の生徒」だった。
だが、最初の数週間で、彼が変わるきっかけとなる出来事が起こった。
ある日の国語の授業中、先生が黒板に「阜」と書き、部首について説明を始めた。
「この『阜』という部首は『こざとへん』と呼ばれ、『阪』や『防』などの漢字に使われていますね。」
教室内が少しざわつく中、寺阪の席の後ろから男子生徒の声が聞こえた。
「これ、寺阪の『阪』じゃね?」
その一言に、教室中が笑いに包まれた。寺阪自身も一瞬驚いたが、愛想笑いで場をやり過ごそうとした。
「いやいや、俺の字だとしても何なんだよ。」
しかし、その後も授業が進むにつれて、背中越しに何度も「コザト」という単語が囁かれるようになった。
昼休みになり、数人の男子が寺阪の机の周りに集まってきた。
「おい、コザト!弁当見せろよ!」
「コザトって部首だから、地味な弁当だろ。」
周囲の笑い声に、寺阪は何とか笑って返そうとしたが、内心は困惑していた。
(なんでこんなこと言われなきゃいけないんだ…?)
その時はまだ、軽いいじりだと思っていた。だが、その日を境に、寺阪は「コザト」という呼び名で周囲から扱われるようになった。
最初は冗談半分だったその呼び名が、次第に彼をからかうための便利な言葉になっていった。クラス全員が彼を「コザト」と呼び、誰一人「寺阪」という名前を使わなくなった。
「おい、コザト!プリント取ってこいよ!」
「コザト、お前は真面目だから掃除係だな!」
からかわれるたび、寺阪は曖昧な笑顔でやり過ごした。しかし、心の奥では次第に嫌悪感が積もっていった。何か言い返しても、結局笑われるだけ。彼にとって「コザト」という呼び名は、重荷になり始めていた。
ある日の朝、寺阪が教室に入ると、自分の机に「コザトゾーン」と書かれた紙が貼られていた。それを見た瞬間、彼は何も言わずに紙を丸めてゴミ箱に捨てた。
周囲の笑い声が背中越しに聞こえてくる中、寺阪は机に座り、静かに目を閉じた。
高校2年生の終わり頃、寺阪はすっかり「コザト」という呼び名に囚われていた。
誰も彼を本名で呼ばず、クラスの中での立場は「いじられる存在」から「孤立した存在」へと変わり果てていた。
昼休みになると、寺阪はいつも窓際の席に座り、外をぼんやり眺めることが日課になっていた。周囲が楽しげに話す声は彼の耳には届かず、ただ遠い背景音のように感じられていた。
(こんな場所、もう嫌だ...。でも、どこに行っても同じなんだろうな。)
彼の心は次第に閉ざされ、話しかけてくれる人もいなくなった。教室では、自分だけが別の時間を生きているような感覚に陥ることが増えていた。
高校3年生になり、クラス替えの発表が行われた。寺阪は淡々と新しいクラスのリストを眺めていたが、その中に見覚えのある名前を見つけた瞬間、背筋が凍った。
「中間仁…。」
寺阪の脳裏に、中間の鋭い目つきと、地元中で噂されるその強烈な存在感が蘇る。
金髪で派手な装い、周囲に常に取り巻きを従え、誰も逆らえないヤンキー。彼の悪名は、学年中どころか地域でも有名だった。
(なんで、よりによって俺が同じクラスなんだよ…。)
寺阪は憂鬱な気分のまま教室に入った。新しいクラスメイトたちがざわざわと席を決める中、彼は窓際の隅に腰を下ろし、できるだけ目立たないように息を潜めた。
だが、ドアが開く音とともに、教室の空気が一変した。中間がゆっくりと教室に入ってきたのだ。
「おー、ここが俺のクラスか。」
金髪を無造作に撫でながら、取り巻きを引き連れた中間は、教室を見回し、ニヤリと笑った。その視線が一瞬だけ寺阪の方を向いた気がして、彼は慌てて目を逸らした。
新学期が始まっても、中間は寺阪に直接絡んでくることはなかった。むしろ、彼は中心的な存在として、クラスの中で自分の勢力を広げていった。
寺阪は、もっぱら窓際の席に座り、一人静かに過ごしていた。
だが、そんな日々は長くは続かなかった。中間が、寺阪に目をつけるきっかけが訪れたのだ。
ある日、中間が教室の中央で取り巻きたちと話している声が耳に入ってきた。
「おい、聞いたか?このクラスに、親がテラテラの社長ってやつがいるらしいぜ。」
その瞬間、寺阪の心臓が大きく跳ねた。
「テラテラ」――地元でチェーン展開する飲食店。そのオーナーが寺阪の父親だということは、同級生の何人かは知っていたが、それが中間の耳に入ったことが問題だった。
「社長の息子がこんな地味なやつかよ。コザトって呼ばれてるんだろ?」
中間は取り巻きたちと大笑いした。
寺阪は俯きながら、できるだけその場をやり過ごそうとしたが、次の瞬間、中間が彼の机に向かって歩いてきた。
「おい、コザト。」
不意に名前を呼ばれた寺阪は、心臓が跳ね上がった。
「…何だよ。」
なるべく感情を抑えた声で答えるが、声は震えていた。
「お前んち、テラテラの会社なんだろ?俺らで今度飯行くから、安くしてくれよ。いや、タダでもいいけどな。」
周囲の取り巻きたちが一斉に笑い出す。寺阪はその場で何も言えず、ただ俯いていた。
「頼むわ。お前んちの会社だろ?できるよな?」
寺阪は曖昧に首を振った。
「俺には、そんな権限ないから…。」
だが、中間は笑みを崩さず、机に肘をついて顔を近づけた。
「なんだよ、社長の息子ってだけで何の役にも立たねえな。」
中間は実際に取り巻きたちを連れてテラテラに行ったらしい。翌日、教室に入るなり、大声で言い放った。
「なんだよ、普通の対応じゃねえかよ!ケチな親だな!」
その言葉を聞いた瞬間、寺阪の中で何かが弾けた。
「お前…ふざけるなよ!」
声を荒げて立ち上がった寺阪を見て、中間は驚いた表情を浮かべたが、すぐにニヤリと笑う。
「なんだよ、コザト。怒ってんのか?」
「親のことを馬鹿にするな!」
寺阪は叫びながら、中間の胸ぐらを掴んだ。周囲が驚きの声を上げる中、寺阪は拳を振り上げ、そのまま中間の頬に叩きつけた。
「てめえ…。」
倒れ込んだ中間はゆっくりと立ち上がり、目を細めながら寺阪を見つめた。その背後で、教室中が凍りついている。
その日の放課後、寺阪は職員室に呼び出された。中間の親が学校に連絡を入れ、寺阪の暴力を訴えたことで、学校側は対応を迫られた。
担任教師が重い口調で伝える。
「寺阪…君の行動は非常に問題だ。ご両親とも相談の上、退学という形を取らざるを得ない。」
寺阪は何も言えなかった。ただ、心の中で虚無感が広がるのを感じていた。
寺阪は退学が決まり、家にこもる日々が続いていた。罪悪感と無力感に押しつぶされそうになりながら、外の空気を吸いたいと思い立ち、近くのコンビニへ向かった。
夜道は静かで、時折遠くで車のエンジン音が聞こえるだけだった。コンビニの明るい光が見えると、少しだけ気が楽になった。
「とりあえずジュースでも買うか…。」
寺阪はコンビニの棚で商品を物色していた。その時、不意に後ろから肩を掴まれた。
「よお、コザト。」
首元をガッと掴む圧倒的な力に、寺阪は息が詰まった。振り返ると、そこに立っていたのは中間仁だった。
中間はいつもの金髪を乱雑にセットし、派手なネックレスを揺らしながら寺阪を見下ろしていた。その手は寺阪の首元を強く掴んだままで、全く緩める気配がない。
「お前、最近大人しくしてるって聞いてたけどよ、まだこんな近くにいるのかよ。」
寺阪は何とか首を振りほどこうとしたが、まるで鉄の鉤爪で掴まれているようにビクともしない。
「や、やめろよ…!」
そう言っても、中間はニヤリと笑いながら掴む力をさらに強めた。
「お前さ、俺に一発かましたよな?」
寺阪の体は硬直した。コンビニの蛍光灯が中間の顔を照らし、薄い笑みを浮かべたその表情が恐ろしかった。
「褒めてやりてえよ。俺にビビらず拳振り上げたのは、正直なかなかの度胸だと思った。」
一瞬、力が少し緩んだかと思うと、再び強く締め付けられる。
「でもな、相手が悪すぎたんだよ。」
中間は寺阪をぐっと近くに引き寄せ、耳元で低く囁いた。
「俺、お前の顔を見るだけでムカついてしょうがねえんだよ。次見かけたら、今度はもっとひどいことになるぞ。」
声のトーンは冷たく、寺阪の体が震えるのを感じるほどだった。
「だから、どっか消えろ。遠くにな。」
寺阪は恐怖で何も言えなかった。中間は手を離すと、そのまま一歩下がり、軽く肩をすくめるようにして笑った。
「親にも迷惑かけたんだろ?だったらおとなしくどっか行けよ。お前がいなくなれば、俺も気が楽になるしな。」
そのまま中間はポケットに手を突っ込み、ゆっくりとコンビニを出ていった。
中間との一件があった夜、寺阪は家に戻り、リビングのテーブルに座り込んだ。自分の無力さに嫌気が差し、思わず拳を握りしめる。
「俺のせいで、こんなことに…。」
夜が更ける頃、寺阪は両親を前に頭を下げた。
「父さん、母さん…俺、ここにはいられない。遠くの学校に行きたい。」
母親は涙ぐみながら、そっと息子の肩に手を置いた。
「分かったわ。でも、これからは自分でちゃんと前を向いて進むのよ。」
父親は腕を組み、しばらく黙っていたが、やがて低い声で言った。
「お前がそう決めたなら、応援する。ただ、次は二度と逃げるな。」
その言葉が寺阪の胸に重くのしかかる。だが、彼はうなずき、遠くの通信制高校への編入を決めた。
遠い県に移り住み、通信制高校に通う生活が始まった。最低限の授業だけで卒業を目指す日々は孤独そのもので、友人はできなかった。
通信高校を無事卒業した寺阪は、親の支援を受けて新しい住まいを選んだ。静かなマンションの一室。駅からも近く、最低限の生活を整えるには十分だった。
引っ越しを終えた翌日、寺阪はベランダに出てみた。冷たい風が頬を撫で、周囲の景色が視界に広がる。隣には小さな公園があり、数人の子供たちが遊んでいるのが見えた。
「楽しそうだな…。」
その光景を眺めているうちに、どこか胸の奥の重たさが和らぐのを感じた。
(俺がこうしてここにいることなんて、誰も知らないだろうな。)
孤独の中にいるはずだったが、公園の子供たちの笑顔に心が少しだけ救われるような気がした。寺阪は、その日からベランダに出ることが一つの日課となった。
そして今――。
寺阪は久しぶりにベランダに立ちながら、当時のことを思い返していた。
かつて、自分に価値を見いだせず、ただ過去に囚われていた日々。それでも、あのベランダから見た子供たちの姿が、ほんの少しだけ前を向かせてくれた。
今では仕事を始め、茜と亮太という大切な人たちとも出会い、そして別れを経験した。決して楽ではなかったが、それでもあの頃の自分とは違う。
彼はベランダから視線を外し、部屋に戻る。静まり返った部屋に足を踏み入れると、ほんのわずかだが、未来を切り拓ける力を感じた。