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指名手配

田平光輝は、夜の静寂に包まれた自室の隅で膝を抱えて座っていた。薄暗い照明の中、机の上に無造作に置かれた黒いフードが視界の端に映る。田平はそれを見つけるたびに視線を逸らし、震える手を額に押し当てた。


「吉岡さん…。」

声に出した瞬間、胸が痛んだ。あの瞬間の光景が脳裏から離れない。店でリストを見つけた吉岡を、背後から殴り倒した自分――。


(俺は、何をやってるんだ…?)


吉岡は田平にとってただの上司ではなかった。警察官としての基本だけでなく、現場での責任感、そして信念を教えてくれた恩師だ。吉岡がいなければ、自分はここまで成長できなかった。それなのに――自分は、吉岡の命を危険にさらした。


「あの時、殴る以外に方法があったはずだ…。なのに、俺は…。」

田平は唇を噛み締めた。振り返るたびに、吉岡が床に倒れた姿が浮かぶ。


「吉岡さん…、俺をどう思うだろうな…。いや、もう何も言わないかもしれない。」

拳を握り締める。その手には、まだ吉岡を殴った時の感触が残っている気がした。


(俺は一線を越えた…。もう、戻れない。)


だが、田平にはどうしても守らなければならないものがあった。それが、組織の掲げる「理念」だった。


数年前、田平が直面した児童虐待の現場。痩せ細った幼い兄妹、泣きもせず、ただぼんやりと座っている子供たちの姿が目に焼き付いている。


「どうして誰も助けてくれないんだ…!」

田平はその場で叫びたかった。だが、制度の網目からこぼれ落ちる人々が現実には大勢いる。警察官としての自分に何ができるのかを考えるたび、無力感が胸を締め付けた。


そして、ある日組織のメンバーに出会った。彼らは、田平が守るべき「正義」とは異なる方法で、直接的に子供たちを救っていた。


「金持ちから金を奪い、それを本当に必要な子供たちに分配する。俺たちはそうやって、救える命を救ってきた。」

その言葉は、田平の心の奥深くに突き刺さった。


警察の中にいる限り、自分は制度の限界に阻まれる。だが、この組織では違う。目の前の子供たちに必要なものを直接届けることができる――その考えに、田平は引き込まれていった。


(俺の信じる正義は、どっちなんだ…?)


田平は頭を抱え、冷たい床に拳を叩きつけた。


「俺がやっていることは、本当に正しいのか…?それとも、ただ逃げているだけなのか…?」

自問自答を繰り返すたびに、吉岡の顔が浮かぶ。吉岡が見せてくれた信念と、組織が求める行動の間で、自分は揺れ続けていた。


「吉岡さん…。」

その名前を呟いた瞬間、田平は涙が滲むのを感じた。自分が壊したものの大きさに気付かずにはいられない。


机の上に置かれたフードを見つめながら、田平は深い息を吐いた。


「俺は、もう引き返せない。」

そう呟いたものの、その声には迷いが混じっていた。


(吉岡さん、俺を許してくれなくていい。でも、俺は…俺のやり方でしか、救えない命があると思ってるんだ。)


田平の心の中では、未だに吉岡の言葉と組織の理念がせめぎ合っていた。そしてその狭間で、田平は自分の罪深さを抱えながらも、進む道を選ばざるを得なかった。


薄暗い個室の中。机の向こうに座る男は、柔らかな微笑みを浮かべながら田平を見ていた。シンプルな部屋には余計なものがなく、空気はどこか重い。田平は少し躊躇しながらも一歩前に進み、机の前で立ち止まった。


「光輝、何か話があるんだろう?」

男はは穏やかな声でそう言うと、手元の資料を脇に寄せた。


田平は深呼吸をして、拳を強く握りしめた。

「…俺はもう、警察には戻れないかもしれません。」


男の顔に微かな興味の色が浮かぶ。

「そうか。それで?」

あくまで冷静な様子だ。


「俺が吉岡さんを殴ったこと、あれが全てを変えました。」

田平は声を震わせずに続けた。

「俺は警察官としての信念を失いました。自分が正義だと思っていたものが、結局は組織の枠に縛られて、誰一人救えていなかったと気づいたんです。」


男は田平の言葉をじっと聞いていたが、やがて深く息を吐いた。

「光輝、お前がそれを理解するのにどれだけ時間がかかったと思ってるんだ?だが、それでもお前はこっち側を選んだんだろう?」


田平は静かに頷いた。

「ええ。俺はもう、警察としての未来を捨てました。…ただ、それでも、子供たちを救うためにはこの方法しかないと思っています。」


男は椅子から身を乗り出し、田平の目を覗き込んだ。

「光輝、お前にとっての正義はなんだ?」


その問いに田平は一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに答えた。

「誰も見捨てないことです。警察にいた頃、何度も見過ごすしかなかった人々を――俺はもう見捨てたくないんです。」


男は満足そうに頷き、再び椅子に背を預けた。

「いいだろう。だが覚えておけ。ここにいる限り、お前が追うのはお前自身の正義じゃない。組織の目標だ。わかるな?」


田平は視線を逸らさず、真っ直ぐにボスを見つめた。

「はい、それは承知しています。でも、俺なりにやれることをやらせてください。」


男は再び笑みを浮かべた。

「光輝、お前は面白い男だな。いいだろう。ただし、二度と迷うな。迷えば、お前の大事なものを失うことになる。」


その言葉に田平は静かに頭を下げた。胸に重くのしかかる罪悪感と、捨てきれない使命感。その二つを抱えながら、田平は組織の一員としての自分を受け入れつつあった。


吉岡の病室に、村井、坂本、藤崎が揃った。朝の忙しない時間帯にもかかわらず、吉岡の要請を受けて全員が駆けつけたのだ。


「吉岡さん、何かあったんですか?」

村井が心配そうに問いかける。


吉岡はベッドに浅く腰掛けたまま、手にしていたスマホを見つめた。顔には疲労と焦りが滲んでいる。


「お前たちに確認してほしいことがある。それと、今から田平に連絡を取る。」

そう言うと、吉岡はスマホを操作して田平の番号を呼び出した。


室内が静まり返る中、スマホからの着信音が数秒間響く。しかし――。

「…繋がらない。」

吉岡は通話を切り、スマホを膝の上に置いた。


「今朝から何度もかけているが、田平には繋がらない。昨夜も連絡を試みたが、応答はなかった。」

吉岡は低い声で語った。


村井が口を開いた。

「田平さん、何か急用で連絡できないだけかもしれませんよ。」


吉岡は村井の言葉を遮るように、スマホの画面を傾けた。

「これを見ろ。」


吉岡が監視カメラの映像を再生すると、黒いフードを被った男が映し出された。路地裏を歩くその姿、そして一瞬だけカメラに映った顔――それは田平光輝そのものだった。


「これが昨夜、藤崎が解析してくれた映像だ。」

吉岡は映像を一時停止し、画面に映る田平の顔を指差す。


藤崎が小さく息を飲む。

「…やっぱり、田平さん…。」


坂本が眉を寄せた。

「そんな…田平さんが…?吉岡さん、これ、本当に田平さんなんですか?」


吉岡は坂本を冷静に見つめた。

「間違いない。俺はこの映像を何度も確認した。あれは田平だ。」


村井が口を開いた。

「でも、田平さんがそんなことをするなんて…。理由が思い当たりません。」


吉岡は一瞬、目を閉じて深く息を吸った。

「理由なんてどうでもいい。事実はこれだ。田平が黒いフードを被って行動していたこと。そして――俺に繋がらないことが、その証拠だ。」


吉岡は村井、坂本、藤崎を順に見渡した。

「これ以上、田平のことを信じて動きを止めるわけにはいかない。今すぐ本部に連絡しろ。」


坂本が声を震わせながら尋ねた。

「連絡って…どうするんですか?」


吉岡は険しい表情を浮かべたまま、きっぱりと言い放った。

「田平光輝を、誘拐事件の重要参考人として指名手配する。そして、店から逃げた店員も同様にだ。」


藤崎が頷きながら、手元のノートパソコンで映像データを整理する。

「この映像を添付すれば、手配状はすぐに発行できるはずです。」


村井と坂本が小走りで部屋を出て、本部への連絡を急いだ。吉岡は残った藤崎を見つめる。

「お前の協力がなかったら、ここまで進まなかった。だが、まだ終わりじゃないぞ。」


藤崎は力強く頷いた。

「わかっています。これからも協力します。」


村井たちが出ていった後、病室は再び静かになった。吉岡はベッドに腰を下ろし、拳を握りしめた。


彼の胸には、田平に対する複雑な感情と、捜査を進めるための揺るがぬ決意が渦巻いていた。




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