住所:ベランダ
朝が来た。寺阪は薄暗い部屋で目を覚ますと、ベッドの中でぼんやりと天井を眺めた。25歳。地元を離れてから数年が経つが、未だに慣れない生活に閉塞感を感じていた。
彼は裕福な家庭の生まれだった。父親は地元で名の知れた会社の社長で、お金には困らなかった。しかし、寺阪には物欲がほとんどなく、必要最低限の生活を続けていた。彼の部屋には、安物のベッドとテレビ、そしてソファだけが置かれている。世間が言う「恵まれた環境」など、彼には何の意味も持たなかった。
彼は深く息をつきながらベッドから体を起こし、ルーティンの「儀式」を始める。
「いってきまーす。」
玄関のドアを開けて一歩外に出る。そしてすぐに部屋へ戻る。それだけのことだったが、まるで社会の一員であるかのような錯覚を得られる。彼にとって、これが唯一の「社会との接点」だった。
寺阪はマンションの5階に住んでいた。その部屋には、リビングに小さなベランダがついている。彼にとって、このベランダは特別な場所だった。
隣接する公園が一望できる。そこで遊ぶ子供たちを眺めるのが、彼の数少ない楽しみだった。砂場で遊ぶ幼い子供たち、鬼ごっこに興じる小学生たち。彼らの無邪気な笑顔を見ていると、心が少しだけ穏やかになる気がした。
「砂のお城を作ってるのか。」
寺阪は小さく呟いた。子供たちの純粋な姿を見ると、まるで自分の過去を振り返るような気持ちになった。だが、この行動が周囲からどのように見られているか、寺阪は薄々感じていた。
ある日、隣の棟に住む女性が声をひそめながら話しているのが聞こえた。
「またあの人、ベランダから見てるわよ。」
「気持ち悪いわね、毎日あそこにいるなんて。」
その言葉に胸が冷える思いだった。寺阪には何の悪意もない。ただ公園で遊ぶ子供たちの無邪気な姿に癒されているだけだった。それでも、世間の目は冷たかった。
事件は突然起きた。
ある夕方、寺阪がいつものようにベランダから公園を眺めていると、母親の悲鳴が響き渡った。
「真央がいないの!誰か見てない!?」
5歳の女の子が行方不明になったという。公園中が騒然となり、大人たちが必死に子供の名前を呼びながら探し回っていた。寺阪はベランダからその様子を眺めていたが、何もできなかった。もし自分が公園に降りていけば、怪しまれるのは目に見えている。それが怖かった。
その夜、寺阪は眠れなかった。行方不明の女の子のことが頭から離れない。それと同時に、自分の行動が他人にどのように見られているかという不安が押し寄せてきた。
翌朝、玄関のチャイムが鳴った。
「寺阪さんですね?警察の者です。少しお話を伺いたいのですが。」
ドアを開けると、警察官が二人立っていた。思わず息を飲む寺阪。胸騒ぎは的中してしまったのだった。
警察官のひとりが寺阪に名乗りながら話を切り出した。
「昨日、公園で女の子が行方不明になった件で伺っています。寺阪さん、ベランダから公園をご覧になっていたとお聞きしましたが、その際、何か気づいたことはありませんか?」
問いかけに、寺阪は息を呑んだ。目撃者として事情を聞かれているのか、それとも…。一瞬の沈黙が、部屋の空気をさらに重くした。
「あの…確かに見ていました。でも、特に怪しい人とかは…見ていません。」
震える声でそう答えると、警察官は少しだけ眉を動かした。
「そうですか。実は、近隣住民の方から、寺阪さんがいつも公園を眺めているというお話を伺っています。場合によっては、より詳しいお話を伺うことになるかもしれません。」
その言葉に、寺阪の背筋が凍る思いだった。まさか自分が疑われているのか。頭の中が真っ白になり、言葉が出てこなかった。
警察が帰った後も、寺阪の動揺は収まらなかった。
「俺が何をしたっていうんだ…。」
ベランダに出るのも怖くなり、カーテンを閉めて部屋にこもった。そんな中、スマホのニュースアプリを開くと、行方不明事件の続報が目に飛び込んできた。
「5歳女児、依然として行方不明。事件性も視野に調査中」
その見出しを見て、寺阪は胸が痛むと同時に、ふと気づいたことがあった。
「…そういえば、あの男。」
昨日、公園の外れで妙な動きをしていた中年男性を思い出した。長いコートを着て、フードを深く被り、何かを探しているような仕草だった。だが、それがこの事件と関係しているのかはわからない。ただの記憶の断片に過ぎなかった。
数日後、公園の掲示板に手書きのポスターが貼られた。
「目撃情報を求む!」
そこには真央ちゃんの顔写真と、母親からの必死のメッセージが書かれていた。
寺阪は何度もそのポスターを見たが、どうすることもできなかった。自分が見た中年男性のことを警察に話すべきか悩んだ。だが、自分がこれ以上怪しまれるのも怖かった。悩みに悩んだ末、寺阪は一つの結論に至る。
「…俺が探そう。」
寺阪は意を決し、夜の公園に向かった。周囲が静まり返る中、彼は公園を歩き回り、女の子の痕跡を探そうとした。誰にも知られずに解決する。それが自分を守る唯一の方法だと信じた。
その夜、寺阪が公園の隅で見つけたのは、真央ちゃんが遊んでいた砂場のおもちゃだった。それはまだ濡れているように見えた。何かがおかしい。背筋を寒気が走り、寺阪はその場を後にしようとしたその時だった。
「何してるんですか?」
振り向くと、そこには警察官が立っていた。真夜中の公園で、砂場に立ち尽くす寺阪。自分が疑われていると確信するには十分な状況だった。
振り返ると、懐中電灯を持った警察官がじっとこちらを見ている。
「いや…何も…。その、ただ…。」
言葉が詰まり、何を言えばいいのかわからない。頭の中では「怪しい」と思われることへの恐怖が渦巻いていた。
警察官は一歩近づき、寺阪の足元を照らした。そこには、砂場から拾ったおもちゃが転がっていた。
「それ、どこから持ってきたんです?」
警察官の声は少し硬い。
「いや…これ、砂場に落ちてたんです。たまたま…。」
寺阪の声は震えていた。それでも警察官の視線は冷たいままだ。
「公園にこんな時間に来るなんて、普通じゃありませんよね。」
その言葉に、寺阪は何も言い返せなかった。ただ、今の状況を何とか説明しなければという焦りだけが募る。
「僕…この事件が気になってて…女の子が見つかる手がかりになるかと思って…。」
そう答えるのが精一杯だった。
警察官は少し考えるようにしてから、「一応、署まで来てもらっていいですか?」と告げた。その言葉に寺阪の顔が青ざめる。
「僕は何もしてない!本当に!」
思わず声を上げるが、その声は虚しく夜空に消えていった。
警察署の一室で、寺阪は再び事情を聞かれることになった。
「寺阪さん、行方不明の女の子に何か心当たりはありませんか?あなたの行動を怪しいと思う住民からの証言もいくつか寄せられています。」
「心当たりなんてないです。ただ、昨日、公園の端で中年の男を見かけました。それだけです。」
寺阪は自分が思い出したことを必死に伝えた。
「中年の男?それは初耳ですね。」
警察官はメモを取りながら話を促す。
寺阪はその男の服装や挙動を思い出せる限り詳細に伝えた。だが、自分が目撃しただけでは証拠にならないのはわかっていた。
寺阪が解放されたのは翌朝だった。疲労困憊のままマンションに帰り、ベッドに倒れ込んだ。だが、事件への不安と、自分が疑われるかもしれない恐怖が彼の心を休ませなかった。
その日の午後、警察から再び連絡が入った。
「寺阪さん、昨日の情報で進展がありました。例の中年男性が防犯カメラに映っていました。」
寺阪の胸が大きく波打った。自分の証言が役立ったのだろうか。
「しかし…その男は事件当日の夕方には近くのバスに乗り、すでにこの街から離れているようです。我々は引き続き調査を続けます。」
その言葉に安堵と不安が入り混じった。中年男性の存在が寺阪への疑いを薄れさせる一助になったかもしれないが、真央ちゃんは依然として行方不明のままだった。
夜、再びベランダに立つ寺阪は、月明かりに照らされる公園を見つめていた。
「俺がもっと早く行動していれば…。」
自分を責める気持ちが込み上げる。それでも、何もできない現実が重くのしかかっていた。
そんな時、ふと公園の奥に何かが動くのを感じた。小さな影がゆっくりと砂場の近くを歩いている。寺阪は思わず身を乗り出した。
「…あれは?」
目を凝らすと、それは小さな子供のようだった。真央ちゃんなのか?それとも別の子供なのか?確かめるために寺阪は一気にベランダを飛び出し、公園に向かって走った。
寺阪は息を切らしながら公園にたどり着いた。月明かりが薄暗い公園全体を照らし出す中、砂場の近くに小さな影が見えた。
「真央ちゃん…?」
恐る恐る呟くが、返事はない。ただその影は、ゆっくりとしゃがみ込み、砂場に手を伸ばして何かを掘り出そうとしているようだった。寺阪は不安と興味が入り混じったまま、一歩ずつ近づいた。
影に近づくと、それは子供のように見えた。だが顔ははっきりしない。寺阪は恐怖を抑えながら、ふと視線を下に落とした。靴に明るい色の文字で名前が書かれているのが見えた。
「リョウタ」
その名前を見た瞬間、寺阪は思い出した。公園でよく砂場にいる男の子だ。寺阪は彼の行動をベランダから何度も見ていたが、話したことは一度もなかった。
「亮太…くん、だよな…?」
寺阪はかすれた声で問いかけたが、彼は振り返らなかった。ただ手を動かし続け、何かを掘り出そうとしている。寺阪の胸に嫌な予感が広がった。
勇気を振り絞り、寺阪はさらに一歩近づいた。その瞬間、亮太が掘り出したのは、小さなぬいぐるみだった。それは真央ちゃんがよく持ち歩いていたものだと寺阪はすぐに気づいた。ベランダから何度も見たことがあったからだ。
「それ…真央ちゃんのじゃないか?」
そう尋ねると、亮太は初めて振り返った。その顔は涙で濡れていた。
「…そう。ここに埋まってたの…。」
彼の震える声に、寺阪はどう答えればいいのかわからなかった。亮太はぬいぐるみを抱きしめながら、小さく呟いた。
亮太がぬいぐるみを抱えてその場を離れようとしたとき、寺阪はある考えが頭をよぎった。このまま亮太を一人で帰らせるべきではない。
「…送るよ。こんな時間に一人は危ない。」
自分でも驚くくらいの自然な声が出た。亮太は少し驚いた顔をしたが、うなずいて立ち上がった。
君の家はどこなんだ?」
寺阪は夜の公園で亮太に尋ねた。亮太は少し考え込んでから、小さな声で答えた。
「ついてきて。」
それだけを言うと、亮太は小さなぬいぐるみを握りしめたまま歩き出した。寺阪は何か引っかかるものを感じながらも、仕方なくその後を追った。
公園を出て、マンションの敷地内に戻る。薄暗い中、亮太の小さな足音が響く。どこに向かっているのか尋ねたい気持ちを抑えながら、寺阪は黙って彼についていった。
「…ここ。」
亮太が足を止めたのは、自分の住むマンションの入り口だった。寺阪は内心驚いたが、特に言葉には出さず、さらに亮太の後を追った。
エレベーターを上がり、廊下を進む。寺阪の部屋の前を通り過ぎるかと思いきや、亮太はそのまま足を止めた。寺阪の隣の部屋の前である。
「ここ、僕の家。」
その言葉に寺阪は完全に固まった。
「…隣?」
あまりに予想外だったため、思わず声に出してしまった。
インターホンを押すと、すぐにドアが開いた。
「亮太!?どこ行ってたのよ!」
現れたのはタンクトップに短いショーツという軽装の女性だった。夜中ということもあり、その姿はさらに無防備に見えた。寺阪は思わず視線を逸らす。
「ごめんなさい、夜中に公園で見つけて…一人で砂場にいたので連れて帰ってきました。」
寺阪がぎこちなく事情を説明すると、女性は少し驚いたようだったが、すぐに柔らかい表情を見せた。
「ああ、ありがとうね。でも亮太はいつも勝手にどこか行っちゃうから、大したことじゃないわ。」
その軽い言葉に、寺阪は少し戸惑った。普通ならもっと心配するものだと思ったが、この女性――森本茜――の態度はどこか放任的だった。
「でも、あなたが連れてきてくれるなんて意外だわ。亮太が言うには、ずっとベランダから公園を見てたんでしょ?」
その言葉に寺阪はドキリとした。自分の行動が知られていたことも驚きだったが、それ以上に気味悪がられていることを思い出し、言葉を詰まらせた。
「…そう見えるかもしれませんけど、ただ見ていただけで。」
茜はそんな寺阪の様子を見て、少し笑った。
「まあ、そんな悪い人には見えないけどね。亮太も無事だし、ありがとう。」
そう言って軽く頭を下げた。その一言に、寺阪は少しだけ肩の力が抜けた。
その夜、寺阪は自分の部屋で深く考え込んでいた。
「隣に住んでたなんて…。でも、彼女…あまり気にしてない感じだったな。」
茜の放任主義的な態度に驚きつつも、亮太を一人で砂場に行かせてしまう状況に複雑な感情を抱いていた。
「俺に何ができるわけでもないけど…。」
そんな思いを胸に抱えながら、寺阪は眠りについた。