87・ミカとフェリス
フェリス――その名を耳にするたびに、ミカは知らず眉間に皺を寄せていた。東大陸の奥から突如として現れた存在だが、その危険な意図は明白だった。特に、勇者の血筋を引くラウルへの執着は、日に日に強まっているように感じられた。
「テルゴウス、フェリスの動向は?」玉座に腰掛けたミカは、冷徹な眼差しで宰相を見据えながら問いかけた。
「はい、我々の諜報によりますと、奴は東大陸の奥深くに潜みながら着々と勢力を拡大しております。そして――」テルゴウスは一瞬言葉を切り、慎重に続けた。「特にラウル様を狙った動きが、ここ最近、急激に活発化しているとの報告が相次いでおります」
「ラウルよ」ミカは静かに、しかし確かな強さを秘めた声で夫を呼んだ。「妾の愛しい夫よ。奴がそなたを狙う理由は明白だ。勇者の血筋であること、そしてそなたが妾の伴侶であることが、奴の逆鱗に触れているのだ」
ラウルは眉をひそめ、僅かに躊躇いながら口を開いた。「しかし、私はまだ戦士としても未熟です。どうして私が標的に?」
「そなたの未熟さなど、奴にとっては関係のないこと」ミカは毅然とした口調で言い切った。「重要なのは、そなたが妾の伴侶であり、勇者ラウルスの血を継ぐ者だということだ。それだけで、奴にとっては十分な理由となる」
「ですが……」ラウルが反論しようとした瞬間、ミカは優雅な手の仕草でそれを制した。
「これまでの修練で、そなたは十分な力を身につけた。だが、フェリスという存在を相手にするには、まだ万全とは言えぬかもしれない」ミカの瞳には冷静な判断力と深い愛情が交錯していた。「妾の力を存分に活用するがよい。そのために妾はここにいる」
ラウルはゆっくりと、しかし確かな決意を込めて頷き、ミカの手に自身の手を重ねた。「分かりました、愛しい妻よ。この身に宿る力の全てを、注ぎ込むつもりです」
「よかろう」ミカは微かに微笑んだが、その表情の奥底には鋭い警戒の色が残されていた。「テルゴウス、諜報部をさらに強化せよ。フェリスの動きを、些細なものであっても見逃すな。奴の狙いが何であれ、我々は常に一歩先を行かねばならぬ」
「承知いたしました、魔王様」テルゴウスは厳かに一礼し、静かに退出した。
魔王城に満ちる静寂の中、ミカは夫ラウルを守るため、そしてフェリスという脅威に立ち向かうための新たな策を練り始めていた。重く澱んだ空気は、確実に近づきつつある嵐の予兆のようでもあった。




