第壱拾伍話 暗転
「此処で、いいわ。ありがとう」
「本当に此処で宜しかったんですか?目的地まで距離がありますけど」
姫乃から依頼を受けた数日後の事、望海は彼女と共に壱区に来ていた。
望海はこの前の会話から彼女と父親との関係に不安を抱き、心配そうな表情をする。
「何?私の言葉が信用出来ないって事?」
「いいえ、そんなつもりでは。夜道は危険ですし、依頼人の安全を守るのも運び屋の仕事の一つですから」
「まぁ、そうね。この町の警察は信用出来ないってお父様もいつも言ってるもの。富裕層の言いなりで町民を守ってはくれないって」
そんな会話をしていたらいつの間にか別邸の側まで来ていた。
姫乃が屋敷に入るのを見届け、望海は行動に移した。
「何もないならそれでいいけど。今は自分の直感を信じるしかありませんよね」
別邸の側に印をつけ、その場を立ち去る事にした。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
「...お父様は?今晩、おかえりになると聞いているのだけど?」
屋敷に入った直後、家政婦から挨拶を受けた姫乃の声は震えていた。
そうだ、姫乃は父親の事が怖いのだ。
いつも情緒不安定で酒とタバコに溺れ、癇癪を起こすと殴り掛かろうとする彼に恐怖していた。
「夕飯の時間まで書斎にいると申されておりました」
「そう、じゃあ挨拶しないとね」
玄関から二階に上がり、書斎の扉をノックする。
第一声で彼の今日の機嫌が分かるだろう。
「はい」
「お父様、姫乃です。入ってもよろしいですか?」
「勿論、入っておいで」
今日は運良く機嫌が良かったらしい。
姫乃はホッと胸を撫で下ろし入室した。
「姫乃、久しぶりだね。私の贈ったワンピースもう着てくれたのかい?とても似合ってるよ」
入室直後、姫乃は強く彼に抱きしめられ頬を撫でられる。
姫乃は生理的に強い嫌悪感を示し、震えていた。
距離感が娘に対しての対応ではないと本能的に感じとったのだろう。
このワンピースも決して姫乃の好みではない。
彼の好みを押し付けられ、人形のように着せられているだけだった。
着なければ、自身を肯定してくれていないと思った父が胸ぐらを掴んで来るからだ。
「えぇ、贈っていただいてありがとうございます。私も何かお父様にお礼をしたかったのだけど何も思いつかなくて」
「姫乃はまだ子供なんだ、そんな事考えなくていいんだよ。大人になったら素敵な男性と結婚して、孫を私に見せてほしいな。姫乃の子供だ。絶対に可愛いよ」
幸せの押し付け。
姫乃はこの言葉を自分を思っての言葉だと以前までは思っていた。
しかし、望海の会話を聞いて気付いたのだ。
それだけが女性の生き方ではないと。
「お父様、私。女学院を卒業したら大学に行きたいと考えているんです。将来的に、お父様の会社を手伝えたらいいなと考えて...」
「ドンッ」
姫乃の次の言葉を遮るように彼は壁を叩いた、余りの振動に近くの本棚から本が落下している。
「姫乃、私は君を思って言っているんだ。お前が大学に行く必要なんてない。女性というのは、少し無知な方が愛らしい生き物なんだ。そうだろ?」
「...ですが、私は」
そのあと、彼は姫乃の両肩を強く掴む。
目を見開き、言い聞かせるこう言った。
「お前に何が出来る?お前みたいな世間知らずの小娘がやっていける程の社会は甘くないんだよ?私に守られていればいいんだよ。姫乃、お前は美しいんだ。私の言う事を聞いていればいい。私がお前幸せにしてあげるよ」
その言葉に姫乃は何も言えなかった。
「旦那様、お嬢様。夕飯の支度が整いました」
「あぁ、今行くよ。姫乃、さっきの言葉は聞かなかった事にしよう。ワンピースがボロボロだ。着替えてから下に降りて来なさい」
「...はい」
着替え、食堂へ赴くと彼は先に食事をしていた。
姫乃も席につき、ナイフとフォークを持ちステーキを食そうとしたが直ぐに手から離してしまう。
そんな様子を見た家政婦が小声で話しかけてきた。
「お嬢様、どうされました?」
「ごめんなさい、ちょっと食欲がなくて」
父親と食事をする時に出てくるこのステーキが姫乃はいつも嫌いだった。
牛、豚、鳥とも似つかない得体の知れない肉、それを噛み締めるように美味しそうに食べる父に理解が出来なかった。
「どうした?」
「お嬢様が食欲がないとの事です。後で消化に良い物をお届けに参ります。ヨーグルトとフルーツでよろしいですか?」
「えぇ、あと飲み物に紅茶を頂ける?」
「かしこまりました」
何の変哲もない会話の流れだったはずなのに、父親は何か深く考えこんでいる。そのあと、斜め上の発言をされた。
「姫乃、何故私に報告してくれなかったんだ。あの、歌舞伎役者との間に子が出来たんだろう?学校の中退の手続きをしなければいけないな。身重のお前に何かあったら大変だ」
その言葉に姫乃は頭が真っ白になる。
今の会話の流れで何故、そう言う結論に至るのかが彼女には分からなかった。父親とも言い難い、この男はつくづく狂っている。
それよりも何よりも圭太を侮辱された事が大きく姫乃の事を傷つけた。
「圭太さんを侮辱するのもいい加減にして!彼は幼い頃からお芝居一筋で此処まで頑張ってきたの!それこそ、私達が遊んでいる中たった一人で孤独にお芝居を探求し続けてた。彼が異国に行ったのは若くて華やかな容姿だけじゃない、実力があるからよ!そんな方が私を見染めるとでも?そんなのお角違いだし、勘違いも肌はだしいわ!」
そんな言葉を訴えても、やはり彼の気持ちは動かなかった。
本当に家族であっても分かり合える事は不可能なのだと姫乃は悟った。
今度こそ、殴られる。
しかし、こればかりは姫乃も譲れない。
両者とも席から立ち上がり近距離で向かい合っていた。
そう思っていたが彼は怒る事はしなかった。
むしろ、それを通り越して冷ややかな視線を姫乃に向けていた。
「まぁ、そんな物か。所詮は人魚の子だ。人の形をしていても、どれだけ美貌が優れていてもお前にはあの歌舞伎役者は相応しくなかったか」
「...え?」
「大丈夫だ、姫乃。お前はまだ若い。富裕層のジジイ共には可愛いがられる。お前にはまだまだ利用価値がある。私の仕事道具として。お見合い話だって沢山あるんだ。私の為に、私の思ういい男と結婚してくれ」
その言葉に背筋が凍った。最初からそうだった。
何故、血の繋がりのない養女である自分をこんなにも大切に乱暴に接するのか姫乃には分からなかった。
「あ、あの...」
「何だい?はっきり言わないと伝わらないよ」
「私に利用価値がなくなったら、貴方はどうする気なのですか?」
「はぁ?ないんじゃない、するんだよ。だから君に投資をしてきたんだ。そうだろう?...女学院に行って何か吹き込まれたのか?」
「違います!そんな事断じてありません!」
「本当に?」
一度疑ったら中々抜け出せないのが父親だ。
姫乃は長い髪を掴まれ、二階へと連れて行かれる。
「お父様、何を!?」
「私の許可が出るまで部屋にいなさい。屋敷から出る事も許さない。私の商売道具に間違いはない。そうだろう姫乃?害虫を殺してくるから安心しなさい。私がお前を守ってあげるから」
部屋にぶち込まれ、そのまま鍵をかけられ幽閉される。
姫乃は抵抗するように何度もドアを叩き揺さぶるがびくともしない。
「どうして、こんな事に...」
室内には姫乃の小さな涙声だけがあった。




