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淡雪の遠吠え~狼と恋した娘の物語~

作者: 白川怜夜

 たかが薄紙一枚のこと。


 ――そう笑い捨てられれば、どれほどよかったことでしょう。

 求婚の手紙が届きました。

 

 お相手は、六つ年上の、南部でも名のある家の次期当主です。

 以前、この北の山へいらっしゃったとき、私を見初めてくださったようでした。

 


 家の者は――父も母も兄弟も――皆、喜んでおりました。

 

 食べ物が貧しいこの北の山からみれば、気候が温暖で人々の営みで栄える南部というのは、想像するだけで楽しい天国のようなところでしたから。そこの貴族様と血縁をもてるというのは、とてもめでたいことです。

 

 どんちゃん騒ぐ家内から逃げるように、私はそっと家を出ました。

 

 外は雪がしんしんと降っておりました。

 風は吹いていませんが、それでも凛とした冷たさが、やんわりと肌から熱を奪っていきます。

 

 私は村を囲う山々の、一番高い山へと歩き出しました。


 私には、最愛の相手がおりました。


 けれど、家のことを考えれば、南部の貴族様に嫁ぐほかありえません。


 私は、最愛の相手に、別れを告げに行くのでした。

 途中。友人に会いました。


 彼女は、もう私が南部の貴族様に嫁ぐことを知っていました。


 私は知られていたことに驚きましたが、すぐに納得しました。


 この村はとても小さいのです。


 誰か一人が秘密を洩らせば、この村ではすぐに伝播するのです。

 このぶんでは、私の結婚はもう村の全員が知っていることでしょう。


「南の貴族様に見初められたのでしょう? 羨ましいわ。どのような方なのかはご存じなの?」


 友人の言葉に私は答えます。


「夏の間、山に涼をとりにこられた方がいらっしゃったでしょう? あの方よ」

 

 私と貴族様は、一度だけお顔を合わせたことがありました。


 貴族様は山の一部を買い取り、私有地にされました。


 しかし、私はそのことを知らず、その山に入ってしまったのです。


 たんぽぽの群れで私が花を摘んでいると、

 ある男性と丁度鉢合わせました。


 薄着ではありましたが、質の良さそうな衣や、

 美しい装飾で身を包んでおり、


 そして恰幅のよい丸いお顔立ちから、私は貴族様だと判断し、

 すぐに地面に頭をつけました。


 貴族様の私有地に無断で入り込むなど、許されることではありません。


 しかし、その方は私に慈愛の笑みを浮かべ、なんのお咎めもせず、許してくださったのでした。


「とてもやさしそうな方でしたよ」


 私は貴族様との話をすると、友人は「素敵ね」とうっとりとした溜息をつきました。


 友人とわかれ、私は更に歩みを進めます。


 別に、貴族様のことは嫌いではありません。


 こんな田舎娘を見初めてくださっただけでもありがたいのに、

 更に、あの人は優しいのです。



 こんな幸運は、普通に生きていれば考えられない程です。奇跡です。


 けれど、私の心はちっとも幸福にはならないのでした。

 


 一番高い山に登ります。

 地面には浅く雪が積もっており、踏みしめればまだ土の色が覗くほどでした。


「アオオオオン」


 山の中腹まで来たところで、私は遠吠えをあげました。


 すると、山頂の方から「アオオオオン」と返ってきます。


 しばらくすると、大きな白い狼がのそのそと山を下りてきました。


 そして、近くまでくると、私を見据えてぴたりと止まりました。

 

 そう、私の最愛の相手は狼なのでした。

 

 私はできるだけ感情を抑えて、人間の貴族と結婚しなければならないことを告げました。


 狼は悲しい目をして言いました。


「それは、私と野山をかけることよりも幸せなことなのか?」


「ええ、貴族様と結婚すれば、私の家族は飢えることを忘れ、この冷たい町から、暖かい南で暮らすことが出来るのです。それは、この上ない幸せなことです」

 

 こんなことは全くのでたらめでした。


 けれど、私が自由を手放すことで家族全員が幸せになれるのであれば、それはとても大事なことでした。


「嘘をつくな。お前が本当に幸せだと思うことを言ってみろ」

 

 長年の付き合いのある狼からは、私の嘘なんて簡単に見破れてしまうのでした。


 なにせ、物心ついたときには、既に彼とは隣あって野山を駆け回っていたのですから。

 

 互いの思っていることなんて、簡単に想像のつくことでした。

 

 しかしながら、それはなんて酷いことでしょう。狼は、私の本音をわかっていながら、尚、私に言わせたいのです。


 

「あなたは本当に意地悪ですね。そんなに私の口から聞きたいですか。ええ、ええ、言いますとも。もちろんそんなもの、この北の山と、花と共に生きる暮らしが一番幸せに決まっているじゃないですか。でも、それとは別に家族のことも大事なんです。私の理想は、自由を謳歌したまま家族が幸せになることです。でも、そんなことは出来ないじゃありませんか。両方選ぶことなんて、出来ないのですよ」


 泣き崩れる私を見て、狼は満足そうに笑いました。酷い話です。


 この北の山への感情に蓋をして、自分の心を騙したまま、嫁ぐつもりだったのに。言葉にしたことで、想いがあふれてくるじゃありませんか。


 狼は優しい声で切り出しました。


「そうだ、私の幸せの話をしよう」


「あなたの幸せですか」


 狼の幸せは、新鮮な肉を喰らうこと、野をかけ、山をかけること。山頂から、月に向かって遠吠えすること。


 長年の付き合いで、狼の幸せがなにかは知っていました。


「私の幸せは、野をかけ、山をかけることだ。――だが、それ以上の、もっと大事なことがある」


「それはなんですか」


 初耳でした。


 狼が、野をかけ山をかけること以上に大事で、幸せにおもうことがあるなんて。


「それは、お前が幸せであることだ。自由を謳歌する、お前の笑顔をみることが、何物にも代えがたい、幸せなことなんだ。お前が笑顔になることは、なんだって全部、叶えてやりたいんだ」


 私は嬉しくって、悲しくって、身体が震えました。


 こんなにも狼が想ってくれていたなんで、とても幸せです。そして、そんな狼とも、もう別れなければならないと思うと、辛い気持ちになりました。


「気持ちは嬉しいのですが、私の望みを全て叶えることはできませんよ」


「いいや、できるとも」


 狼は私に強く覆いかぶさってきました。


 私はその勢いのまま、雪の中に沈みます。

 

 狼と私の口がくっついて、長い舌が私の咥内をまさぐりました。


 鋭い牙が唇にひっかかり、幾つも傷ができて、口の中は血の味がします。けれど私はやめる気はなく、むしろもっと、もっとと思うのでした。


 この冷たい雪の中では、感じられるのは狼の温かさだけで、世界には狼と私だけしかいないような感覚に陥ります。本当に、そうだったらいいのに。


 狼と私の意識が溶け合って、次に目を開いた時には、世界は変わっていました。


 私の視界には、口を血で真っ赤に濡らした「私の姿」がありました。そして、私の手は立派な白い毛並みの前脚に変わっていました。

 

 私と狼の身体は、すっかり入れ替わっていたのです。


「さあ、私は家に帰らなければなりません」


 私の姿をした狼はすっと立ち上がって、そう言いました。


 呆然とする私に、狼は言葉を続けます。


「ごめんなさい。私は家族の幸せのために貴族様と結婚いたします。だから、あなたは今までどおり、野をかけ山をかけ、自由を謳歌してください。あなたの幸せを思っています」


 私の姿をした狼は、私に似合わない慈愛に溢れた顔をして、そう言いました。


「さようなら」

 


 最愛の相手は、そう言いました。

 けれど私は、それに「さようなら」と返せません。


 涙をこらえて何も言い出せない私を、最愛の相手は幾拍か見つめると、そして、あっけなく私に背を向けて、去っていくのでした。


 私は、その姿を追いかけることが出来ません。


 ここより山の下は、もう人里です。


 狼の姿では立ち入ることが出来ませんでした。


 どんどん遠くなっていく背中に、私は遠吠えをしました。


「アオオオオン アオオオオン」


 けれど、どんなに強い遠吠えも、雪が全て吸い込んでしまいます。


 いつのまにか背は小さくなり、見えなくなりました。


 これから彼は、南の貴族のもとへ行きます。


 彼はもっともっと、遠くに行きます。


 麓ではこの遠吠えも淡雪ほどの軽さになり果て、きっと届きはしないでしょう。


 それでも私は毎晩、一番高い山のてっぺんにのぼり、遠吠えをあげました。


 遠吠えが雲を伝って、遠い、遠い最愛の相手に届くよう、愛してるを叫ぶのでした。

                                      <了>


                   

ここまで読んでいただきましてありがとうございました!

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