「高瀬舟」から知足を学ぶ ~毫光差すべきは喜助にあらず~
「高瀬舟」は私たちに知足を学ばせてくれる。その知足について一緒に見ていこう。そして、共に世界平和について考えよう。
某日、僕は森鴎外の「高瀬舟」を読んだ。その日から、森鴎外の写真を見ると毫光が差しているように思えてしまう。それは、単に鴎外が表現豊かだからと言う理由だけでは無い。「高瀬舟」は多くのことを私たちに教えてくれるのだ。
その一つとして、欲を持たないことの大切さがある。同心の庄兵衛と罪人の喜助の間には大きな隔たりが存在する。僕と喜助の間にも隔たりがあるように感じたので庄兵衛に対する親近感も沸いた。
庄兵衛は自分の暮らしを立てることで手一杯な生活に、満足を覚えたことはほとんど無い。実は、食いしん坊な僕も限られた量の御飯に満足を覚えたことはほとんど無い。もう少し食べられれば良いのになと、思い存分食べられるバイキングに行きたいなと思ってしまう。
その一方で、喜助には欲が無く、足ることを知っている。そのためか、彼は住む場所と仕事、鳥目二百文を与えられたと現状に満足している。それを与えたお上に感謝までしてしまう程である。
良く言えばポジティブ、悪く言えばマゾヒスト。それはそうとして、欲を持たないことは非常に大切なことだ。世界大戦が二度も起こったのは人間に欲があったからだ。
第一次世界大戦はサラエボ事件が原因と言われる。これも、そもそもの原因は、サラエボとオーストリアが私利私欲のため、お互いに同じ国を併合しようとしたからである。
第二次世界大戦が起こったのも、元はと言えばイギリスやフランスが世界恐慌から自分達だけが助かろうと、ブロック経済を行ったからであろう。
さて、このように、人間は欲を持つことで、二度の世界大戦を起こしてしまった。ブロック経済を行った時点でイギリスとフランスに国際連盟常任理事国である価値は無い。
国際連合は二度の世界大戦を反省すると言っているが、私利私欲のために行動をしている国を野放しにしている時点で、反省しているとは言い難い。
知足。喜助のように欲を持たず、それ以上の物を求めないこと。それを多くの人が実行すること。それが世界平和への道では無いか。それが万人がすべきことなのでは無いか。僕は心からそう思う。
森鴎外が一番伝えたかったのは「『安楽死』と言う選択は『人殺し』になるのか?」なのかもしれない。それでも、僕はこの物語を知足を学ぶ物として受け入れたい。
「高瀬舟」は多くのことを私たちに伝えてくれた。欲を持たないことの大切さ。世界平和のために進むべき道。多くの人がすべき事。などなど、本当に多くのことを伝えてくれるのだ。
だから、僕は森鴎外の写真を見ると毫光が差している思えてしまうのだ。隔たりを感じた庄兵衛が喜助を尊敬したように、「高瀬舟」を読んだ僕も森鴎外を尊敬している。
毫光差すべきは喜助にあらず
毫光は鴎外に差すべし
どうか、僕の尊敬する森鴎外を知り、彼が著したこの作品を読んでいただきたい。日本のみならず、世界中の多くの人々に。あわよくば、国際連合安全保障理事会の方々にもじっくりと。