5話 手にしたものは。
そろそろあの男が店にやって来る頃だろう。
あの男が店にやって来るタイミングが何となくわかる。
私としては「嫌なこと」なんだが。
そんなことを思いながら、朝の目覚めに違和感を感じる。
いつも私が目を覚ます少し前には、ユカさんが霧吹きをかけてくれる。
しかし、今日はない。何故なんだろう。
その答えは私が目を開けた瞬間に出た。
私のかごの外に大きく厳つい顔の「奴」がはりついて、私を睨みつけている。
私はこの店に来るまでは、他国で生活をしていた為に「奴」を見るのは初めてだ。
だが、「奴」は他国でも有名だ。日本を代表する危険生物と断言できる。
『この…このぉ…』
ユカさんがボールペンを片手に持ち、「奴」をつついてる。
『ぜんぜん…ダメ…どうしょう』
彼女の目は赤くなり手が震えている。
「奴」のことが苦手なんだろうか。
ブーンブーンと「奴」が羽で音をたてはじめた。
『きゃっ、…もういやぁ…』
カウンターに置いてある殺虫剤に気づくことなく私のかごの前で彼女は腰を落とした。
『最近…いろいろありすぎて、辛いのに何でまた辛い想いをしなくちゃいけないの』
「奴」が怖くて流した涙ではないのだろう。
ただ「奴」は涙を流すスイッチになっただけだ。
今まで大きな衝撃に堪えてきた彼女の心は、ちょっと押してやるだけで崩れ落ちるまでにボロボロになっていたのだろう。
私の硬い体ならば、「奴」を撃退することができるかもしれない。
かごの壁を越えられないもどかしさが、私の動きを止めて考えることもやめさせた。
店のドアが唐突に勢いよく開いた。
『あれ?今日って休みだったけ?』
あの男が店にやって来た。
いつも通り店に入って私の前へとあの男はやって来た。
『…いらっしゃいませ』
『どうしたんですか?目が真っ赤ですよ』
あの男は彼女の手をとり立たせると、私のほうを見た。
『こいつは立派!』
そう目を輝かせて言うと、「奴」に向かって左手を伸ばし始めた。
『お前はここにいるべきじゃないよ』
あの男は、そう口にしたのを合図に「奴」を左手の手のひらの中に包み込んだ。
『えっ、危ないですよ!早く離して下さい!』
『大丈夫ですよ』
左手の手のひらで「奴」を包んだままドアのほうに向かうとドアを開けてゆっくりとその手のひらを開いて見せた。
『もう来たらダメだぞ』
「奴」は羽を大きく広げてブーンという音と共に空に消えていった。
その瞬間に彼女があの男に駆け寄った。
『本当に大丈夫ですか?痛い所ありませんか?』
おどおどした彼女とは反対に男は平然としている。
『大丈夫ですよ。あれは女王だから針はないんですよ』
笑顔を見せたあの男は彼女の手を、掴んでこちらに歩いてきた。
『ちょっと///手が…///』
嬉しそうな彼女。
『一緒にこいつを見ながら、お話でもしましょう』
『…はい///』
あの男はカウンターに置いてある殺虫剤に指を指した。
『あれを使わなかったのは、こいつにも何か影響がでない様にですよね?』
『何でそう考えたことがわかったんですか?』
『店員さんが優しい人ってことを知っていたからですよ』
あの男の笑顔が妙に神々しく思えた。
『ありがとうございます///…なまえを、名前を伺っても良いですか?』
『ケイスケって言います!僕も店員さんの名前を聞いて良いですか?』
『ユカって言います』
そうお互いに名前を教え合うと、2人の間に笑い声と共に笑顔が生まれた。
もうお似合いの2人だ。
自分の無力さを痛感したが、清々しい気分が私を襲っている。
私を認めてくれているだろう、あの男を私も何となく認めているのだろう。
彼女の笑顔が、あの男が手にしたものを物語っている。
あの男はまた彼女の心を手にしたのだ。
【登場人物】
私 →他国からやって来た。硬い体を持っている。
ユカさん→22歳の店員、着痩せするタイプ。
あの男 →ケイスケ。大学生
同行者の女性→ケイスケの彼女?
【今回の登場人物】
「奴」→スズメバチの女王。